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山中記

空を想う時。



空間と時間は結びついていると思う。

それは単純にいつもどこでも誰とでも的にぴったり寄り添う、仲良し相似関係とも違って、
何というのか、因果な繋がりだなあと思います。


自分の心身にも、「空間」と「時間」。
透きとおった二つの円が呑みこまれて、透きとおったままに在る。




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たとえば、自分の場合でいえば、
空間の移動(出勤や旅行など)が大きくなればなるほどに、
その分だけ時間の円が少し小さくなる。
自分が把握する風景が拡がりを持ちはしても、
漠然とした表現ながら、
時間の円が歪むような感覚になる。


新しいものばかりを見続けている時の、
なにやら惜しい、どこか寂しい気持ちというのは、自分のどこから来るんだろうか。


「懐かしいという感情は最強だと思う」と、ある落語家が話していた。

初めて出会ったモノの中に
ふと感じる、懐かしいという感情や錯覚の記憶。
「古」には懐かしさも新しさも内包されているように感じる。



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時間の円が縮まることは必ずしも悪いことだけでもなくて、
ニンゲン、時間が悠長にあり過ぎると、
それはそれで余計なことを考えたりするものだ。

自分の身体の外側の、把握し切っていない空間の移動が、
時に非日常感を与えてくれる。
「細かいことはいったん置いといて」という預け上手になれるのは、
自分の内側の、把握していたはずの時間が、日頃と違って歪むからこそ。

旅先の非日常感。
自分が少数派となり、日常の所属からつかの間でも切り離された時、
自分が把握しているつもりの風景だったものが、そうじゃなくなることで、
把握していたはずの時間もまた、変わる。


 * * *


逆に、空間を必要以上に動かさず、
つまり繰り返す日常の暮らしでは、
自分の把握する時間がその分は豊かに膨んでいく。


が、肥えると、鈍るのもまた事実。
時に、その時間の膨大さゆえに、「飽き」がきて、
悠長な空間に対してまでその飽きが伝播することもある。


と書いて、
空間は自分にとって「外」のことで、
時間は自分のとって「内」のことなのかな、と思いました。


内の失望は、外への無関心に繋がる。
彼岸と此岸。



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人それぞれに、しかもその時々に、
適当な空間/時間があって、
それをうっすら気付いてやることができるのは、
他に替われぬ自分だけなのかもしれない。

一人ひとりにとっての一長一短があるから、
どれが良い、これが正しいという絶対の正解は無くて、
でも、その上で、
どっちを優先するか、どっちを揺さぶるかの選択は自分でできるのだと、
そんなことをしみじみと雨降りの日に思うのでした。
雨の日は空間の移動も自ずと小さくなる。
気候、湿気、照度、気温と体温、それらによってもまた
二つの円の柔らかさは変わるんでしょう。


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小旅先で感じる非日常感のままに、
そんなことをやはり移動しながらだらだらと考えてました。
空間の移動は時間を歪ませて、頭に風を吹かせてくれる。


ある作家が話していた。
「日常から芸術が生まれるのではなくて、
 芸術が日常を支えているんだと思う」。



なんだかんだ言って、時空を超えて楽しめた、
このたびの旅日記「可愛い俺には旅をさせよ」(仮題)を書こう書こうと鼻息荒い朝でしたが、
自分でも考え中の、よくわからない考えの種を記すに止めて、やめよう。

ご飯食べたら、日常復帰の朝。


空を見れば、離れている誰かを想う。
遠くの空の下に居る、
でも、その空間で日常の時間を暮らしている誰彼彼女。


日常が非日常をつくりあげるのではなくて、
非日常が日常を確かなものにしてくれている。









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by 907011 | 2010-09-14 06:17 | Trackback