山中記

屠る。

去年の10月に1日違いで産まれた二羽の雄鳥、トットとトックを昨日しめた。

日はだいぶ前に話して決めて、
気持ちも固めるために、毎日目につく黒板に書き込んでおいた。

朝に外のゲージに二羽を移し、ダルマストーブで湯をわかし、
しめる間際まで久々に二羽を抱いた。
いつも逃げ回って暴れてあげくに噛み付いたりされたやつらなのに、
昨日は不思議とおとなしくて、トットを抱いていたら顔をのぞきこむようにずっと目を見てきた。

ここでいきなりひるむまいと目を見つめ返すものの、
これからしめるんだもう決めたんだと思うと、
やはり目を見ることが耐えられなくなってしまう。

こいつらは、これまでとも違って卵が温められた過程から今日まで知っているわけで、
ペットと同じように愛着があり、
いざことが始まる直前まで、気持ちがまったく揺らいだ。固まらなかった。
今回は地元の「月湯女」の料理人コウジさんにもご協力いただいて、
鶏の身体のさばき方を教えてもらうことも決まっており、
羽根をむしったらすぐにお店で待つコウジさんのもとにうかがう段取りだったので、
ある程度、時間も限られていた。

本当にやるのか、それだけの意味はあるのか。
やっぱり気持ちが固まるまでは、避けたい気持ちとの葛藤だった。
二人じゃなかったら、自分一人には実行できなかったと思う。
それは単純に何が良くて何が悪いと分けることのできる問題ではないけども。

言葉少なな時間が過ぎて、なるべくすみやかにおこなった。
俺は終始身体をおさえていたけど、ものすごい力を見せつけられた。
いざことが始まるとすべては静かに進んでいく、
後から考えるとあっけないくらいに。

ただ、慣れというものからはかけ離れていて、
むしろ、精神的にもだいぶ消耗した。
二羽立て続けにということもあるかもしれない、
初体験の異様な興奮が覚めているともいえるんだろう。
本当にやるだけの意味が、自分にその資格があるのか、
悩んでいてはこいつらが浮かばれない。でも脳裏をよぎる。


コウジさんの包丁さばきは圧巻で、かつ丁寧に説明をしていただけて、
それは唯一、直後の自分たちにとって、彼らにとって救われた時間だと思えた。

肉とアラになったものを持って山中に帰宅し、
胸肉のひとかけを噛んでごくっと呑みこんで、
それからはずっと黙ったまま、それぞれの時間を過ごした。
静かで、とても奇妙な間合いだったと思う。


俺はダルマストーブでふたたび火を起こして、
むしった羽根をすべて灰にした。
釜に湯を沸かして、黙ったままガラを煮続けた。

気付いたらまた18時のエーデルワイスが流れた。
俺は6時間くらいずっと一人で火の前に座っていた。

たぶん二人とも放心していたのだと思う。
悲しいとか、つらいとか、自責だとか反省だとか、そんな簡単に言葉になる時間ではなくて、
自分にとっては「放心」が的を射た表し方だと思う。

間際に抱きながらずっと目を見られて、自分の弱さも全部見透かされていたのだと思う。
自分よりも弱い生き物に最後まで従わなければいけないことは屈辱だったろう。

「強さ」を形作るものの一つの要因として「やさしさ」が含まれるなら、
自分はあまりにも彼らにとって弱すぎた。




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ハレの日とケの日。
その彼岸と河岸の間にある大きな河のこと。
放心して、火を見ながらずっと考えていた。
その間を行き来するための船となる儀式、祭礼。

”儀式的なもの”に身を借りて、姿を変えて、
でもそうすることでしか抜け出せない、あまりにも身体に、顔に付きまとう日常がある。

たとえば、
飾り物を施して、幕で仕切って、着物に着替えて、節を付けて声帯を震わせて、はじめて、
その先の空間と時間とが非日常なものに変わる。


「祭りが増えすぎてしまったと俺は思う」と門出のキヨシさんは話していた。
イベントや農村での体験、交流について話をしていた時。

年に何度かの、古くからの、昔の祭りには観客がいない。
居るのは村の人たち、その人たちが皆その祭りを行うからだ。
そこに観客が入った途端に、それは見せるための色合いを出す。
祭礼がもともとの純粋な意味を薄め、
そのバランスがより観客に偏れば、それはもはやビジネスとしてのイベントに表情を変える。

目に見える数字、とりわけお金のことが一番大事なものに位置して、
そこから逆算されて、日取りや時間や会場や人員がプロモートされていく。
そうしてたとえば稲刈りの日にちが決まっていて、
そこに大雨があたって「今年はダメだった」なんてことも多々ある。
ヒトを集めるための周知に胃を痛めつつ苦心奔走したり。

季節やお天道様のアンバイ、百姓仕事との間に、その兼ね合いでやや流動的に、
その村にその年の祭礼がかつてあったことには、より強い祈りや想いが直結していたと思う。

震災からの復興を願って各地で有志がいろんなイベントを行って、支援の手を延べて、
そうした、伝えたいことがあるイベントのその先にある伝えたい姿(たとえば「復興」という言葉)って、
観客も誰も居ない祭礼や村の姿にあるんではないだろうか、とそんなことも思った。


 * * *


とにもかくにも、焚き火を前にした放心は、
自分なりの儀式的な時間だったのだと思います。
あっちとこっちを行き来する河にゆらゆらゆらゆら浮かんでました。


自分にとっての現実が常に目の前にはあって、
それを肯定する目と、
否定までいかずとももう少し慎重に見る、
そんな二つの目を持っていたいなあと想います。

自分の意見を持たずに鵜呑みしてしまう時は、もう少し吟味して呑みこむ時間を。
食わず嫌いで怪しがって否定してしまう時は、好奇心を抱く時間を。

弱い自分は弱いなりにどうしたらもっと優しくなれるのか。
そのためのさらに試行錯誤の時間をつくっていこうと思いました。


目の前のここではない”どっか”の空間や時間を、
ときどきはぼんやり見つめて、たまに手を合わせたいと想います。

合掌




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by 907011 | 2011-07-01 07:04 | Trackback | Comments(4)
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Commented by takker at 2011-07-01 08:09 x
1回目のときも結構な衝撃でしたが、この鶏をしめる話が生命について考える良い題材だと改めて思います。
Commented by 907011 at 2011-07-02 05:00
takkerさん

そうですね。
書いていて感じたことでしたが、
やはり一回目のときは初めての体験で、なんというか熱が高まっていたし、とても非日常に直結してました。それがいいか悪いかはわかりませんが。

でも、全然知らない人から見たら、とても野蛮な印象を受ける文章かもしれませんね。そういう視点も自ら忘れずに持てたらいいなあとも思います。

後に残る感想がすごく強い行為ですが、俺は経験できて良かったなあと思っています。
いまだゆらゆらしてますが。

takkerさんもぜひチャボとの暮らしに邁進しましょう(繰り返し)。
Commented by うた at 2011-07-04 16:15 x
なんだろう・・・・
なんだろう・・・・・
この感じ・・・・
放心状態。そうなんだな・・・
放心
なんだか真剣に読んで
私は想像することしかできないけど
放心状態になるってことなんだねー
Commented by 907011 at 2011-07-05 05:26
うたさん

なんでしょうね、なんなのでしょう。

とても強欲な行為だと思います。
誰にも頼まれてもないのに間引くこと。
肉が口に入るまでの過程を体験すること。

俺は何にでもやたらと意味を求めてしまいます。
決まってそれはまず後付けの言葉になります。

でも、頭や理論は時にはすごく邪魔をするだけのもので、
もっと原始人のようになれたらなあとも思います。
うほ。