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山中記

農泊後記。

今年も東京の御子らを4人、農泊体験というので24時間預かった。
3年目。
もとは嫁さんがばーと一緒に農泊受け入れをしていたところに、
たまたま縁もゆかりもないままに俺が追加農泊みたいに長岡から来ていたけど、
去年から一応家主として、家に鎮座。

お昼にカレーを食いながら話していると、いかに自分の精神年齢が大人びてないのかが自覚される。
「イチローは毎日カレーを食うらしいねえ。でもスーパースター・イチローもここで年越すのは難しいと思う。
 山中のニイチロー(”まごすけ”)は、すごく農作業ができるし、ノコギリで雪も割れるんだぞ」。
・・・きょとーんとされる。


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七夕あたりに生まれた鶏のヒナ。
ヒナは子どもにはまず鉄板。必ずうける。

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今年は、ナマハゲが庖丁で指し示すところの「わりい子」ばかりで、珍しく叱った。
自分たちでも吐露していたけど、「勉強ばかりでストレスが尋常じゃない」。
口を開けば○○○の話題ばっかり。
あまり具体的には書けないほどに陰湿だったので、いかんなあと感じた。

一日12時間勉強するとか、イギリスに住んでいたとか、アメリカに居たとか、
・・・そんなことはワシらには一切関係ない。

自分のことを振り返ってみると、
「何もかも捨てて、これだけ勉強したんだから」という文句は、
要するに、「ワタシは今教えてもらっている勉強にこれだけ追いつけていない」という自慢下手を競う話。
金かけて塾いくのが偉いか?、俺は塾行きたくない子どものまま五体満足で大学まで出させてもらったので、
冷たいことを言うようだけど、残念ながらまったく共感できない。
挙げ句、行き着く話題がストレスフルであるのならば本末転倒。

今回の農泊は自分にとっても良い機会となった。

・・・なんて話をおととい、子ども自然王国のヒロミさんにしたら、
「またまた~。どうせ花ガッパみたいにしゃべっただけで、
 たぶん怒れてないんだろうな」と一笑される。

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矢沢”えーちゃん”も自著に書いてあったけど、
ほんとうに大切なことは幼稚園でほぼ習い終える。
挨拶をしようとか、悪いことをしたら謝りましょうとか。
借りたものは返しましょう、とか。

あとは年寄りと子どもの声に耳をかっぽじることができればそれでいい。
その集中力や余力があるかどうかの話。


 * * *


主観に過ぎませんが、働く大人になって役に立った公式などまったくない。

受け売りの表現ですが、
大人になると、一人ずつ違う設問のテスト用紙を投げ配られるし、
だから、自分の答案用紙というものは、他人とまったく様式が異なる。
宿題も、答えも、その思考プロセスも含めて一切、我が行く道で苦しまぎれにひり出し続けないといけない。
自分以外のことからすべての情報、選択肢を学び、
ただし、自分が選択をする、決断をする、頭を下げてお願いをして進むという
その領域だけは他人が踏み込む余地はない、
などと横手高校図書室の一人出窓机スペースで高校生の俺はよだれを垂らしながらひやりと思ったのでした。
質実剛健。


なぜ勉強して大学行って評価を得るか。
大学受験の時にたどり着いた答えは、ただただ「忍耐力の評価」くらいでした、せいぜい。
別に大人になってから役に立ちそうな勉強はないなあって。

自己否定も肯定も、自己矛盾もひっくるめての進学校青春、と今は想う。
人それぞれ、想うところはあると思うけど。
俺が図書室の出窓の一人空間で考えていたのは、そんなことだったし、
実際、大学入って家庭教師バイトをしたときにずーっと伝えたのはそんな話に終始してた気がします。
つくづく大学受験って忍耐力の評価だと思う。

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でも。
算数をマジメにやらなくては、
おとなになってから、いざ計算ができないと、
自分の生き方の計算もできなくて、焦ってケガしたりバカなことを繰り返す。

絵を描く時間に、一生懸命絵を描かないと、
自分の生き方の画を描く時に、上手に画を描くことはできない。
俺はさぼってばかりだったので、それでつい最近の5年間くらいはケガばかりくり返してました。
出遅れたなと思う、それで焦って急いでケガばっかりしてる大人。

本をたくさん読めるようにならないと、
親兄弟も、環境も異なる、他人の気持ちは想像し得ない。

理科を教えてもらう時間に、一生懸命考えないと、
虫や草花の根本が分からない限り、一生かけても「自分」という存在が何であるかは分かり得ないし、
まして他人のことなどなおさらイメージできない。

歴史もそうだし、音楽もそう。
今なお生き続けるクラシックに耳を傾けることができない限り、
自分が思い描くだけのモダンは意味をなさない。


鶏のことは、本を読んでも分からない。
ただ、鶏をじーっと見続ける観察の時間を割かない限り、そのヒントは降りてこない。


”分からないことの方が圧倒的に多い”ということを、
生きながら分かっているか、意識できるかどうかで、自問自答の仕方は変わってくると想う。
分からないことの方が多いということを分かっているかどうかを、生きているとついぞ忘れてしまう。

百姓に学ぶ事柄って、その点をとても鋭利に突いてくると毎度気付かされて、はっとする。


昨日、<じょんのびツーリズム新聞>を配っていたら、
”どうのした”のばさがほっかむりをして炎天下に出てきて、
「おらがやらないと、草に追っつけない。仕事におっつけない」って泣き笑いのような顔して言っていた。
あれだけ60年も70年も山で暮らして来た人が、
それでも自分の家の周りの一年草にさえ追いつけないのが人生なのかもしれない。
ニンゲンは自然に内包されている。

少年少女よ、あなたがたは頭いいのだから大志を抱け。
俺はケガしてばっかりの生き方で、あっちこっちで蹴っつまずいて、あちこち頭ぶつけてばかりなので、
とてもうらやましく、まぶしくすら思えます。

その上で誰かを好きでいられれば、それで良い。


赤ん坊、笑え、
助平な動物たち、腰を振れ。
大食漢たち、メシを食え。

できるのだから、遠慮せずに。
(darling)

by 907011 | 2012-07-13 02:59 | Trackback