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山中記

名古屋。

大学バド部の友人、ノザキの結婚式で名古屋に滞在。
土曜未明の2時半に山中を出て、同じく仲間の十日町カサハラと合流。
クロス10に軽トラをしばらく眠らせてゆく。

前日。
雨降りの後を見に田んぼにいって、携帯電話知らないうちに大いに水濡れ。
壊す。
今私は名古屋ナイトにおいて、「ドコモ管理品」と書かれた携帯電話を携帯してます。
帰ったら柏崎まで出ないと、俺のらくらくフォンまがいのニュー電話が返ってこない。

カーナビ、携帯電話、車、公共交通機関。
これらがなかったら名古屋の結婚式など、とうに参加をあきらめるだろうし、
きっと便りも、他の仲間から風のうわさで聞く程度だったはず。

年男年女などになりながら、でも今回も、
キャンドルサービス(?)を一時中断させながら
ほろ酔いの我ら、皆で立ち上がり絶叫的に「乾杯」が唄えてよかった。

乾杯 今君は人生の~って、だいぶうるさかったけど。
ノザキ家(と愛すべき仲間たち)に、幸せあれ。

バド部の皆さん、
相変わらずアホ全開(たぶん30半ばのニンゲンが可能な範囲のアホの限界)でよかったです。
笑い死ぬとこだった。

ヒトって笑いながら死んでいくのかな。
あのヒトも、あのヒトも、このヒトも、
それがいいな。その終末はどうあれ。
とにかくとにかく、幸せあれ。


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みんなどんどん頼もしくなっていく。


調理場という戦場―「コート・ドール」斉須政雄の仕事論 (幻冬舎文庫)

斉須 政雄 / 幻冬舎





自分の常識に社会を振り向かせる気持ちでやっているなら、
自分自身は天然のままで、作為のないまま輝くことができますよね。
日常生活なんだもの。
ぼくはいつも、お店の若い人たちにも、
「常識はしょせん人間の作ったものだから、自分の常識を作ればいいじゃない?」
と言っているんですよ。
常識に迎合している若い子というか、年寄りじみた言動をする子を見ると、腹が立ちますね。
群れからはずれるには、それまでとは違ったことを試してみるしかないに……と。


旅の書。『調理場という戦場』。


ぶち当たって、頭にタンコブを作るかもしれないけど、いいじゃないですか。
痛いのは自分ひとりなんだから。
タンコブを作るのが嫌なら何にもできない。
もしタンコブを作るのが嫌な子が「コートドール」のスタッフにいたら、
ぼくが親切でタンコブを作ってやります。
無傷でいい思いをするなんてことは、ないですから。



日本を経つ時、「もう、二十代は捨てた」と考えていました。
乞食ほどの貧しい生活ではないけれど、
薄給の中で長い下積みの期間をフランスで過ごすということは明らかでした。
「いいとか悪いとかということではない。『そういうことなんだ』」と思っていました。


料理人であり、経営者でもある、という両軸の斉須さんが交錯する。


ボタンひとつで何でもできるというところまで行ってしまえば、
ぼくの出したい料理はできない。
いいお客さんも来ない。
おいしいというのはラクなこととは意味が違っていますから。
みっともなさや不便さを介在させないと、成り立たない。
仕事の仕方に関わることなのです。
このでこぼこを組み込んだラインを日々の習慣という潤滑油で苦もなくやってのけるから
お客さんが来てくれる。
このことに対しては、ぼくなりにですが、ただ単に回顧しているだけではない十分な意味を感じています。



料理長は、レストランの中では、
「思いが完全に満たされて終わり」ということはないのです。
慣れきってしまっては終わりです。
だから満足できない自分でいないと、お店の持続はありえません。



ぼくが経験したことで言いますと、
その意味での「楽しさ」というものは、きっと、
苦しさを抜けていないと掴めないんだと思います。
「板一枚の下が、もう深海だ」とでもいうような意識を経た後に、
最高の楽しさがやってくるような……。
ものごとに一面があるとしたら、表と裏の両方の知識と経験を操縦できる自分になりたいと思っています。
清潔な部分を欲しがるならば、廃棄するものも、
同じくらいのパワーで処理する必要がありますからね。



みんなと同じにならなければいけないと思って仕事をしていた時には、
非常に疲れていました。
だけど、もしかしたら、みんなと同じではないところが自分のよさかもしれない。
そう思うと楽しくなってきました。
それまでのぼくの原動力は、日本で底辺をはいずりまわっていたという悔しさだった。

だけど、だんだんと「楽しくやろう」と考えられるようになったのです。
何でもできることが大切なのではない。うまければ何をやったっていいのだ。
いやもちろん、今でもヘソ曲がりの部分は持っていますよ。
口当たりのいい生き方や言動をする人には「そうやっていつまでもウソを言ってろよ」と虫唾が走ります。
口当たりのいい人と仕事をする気は、毛ほどもないのです。




誰にも頼れない中でとっさに作るものにこそ、
作り手の人間性があらわに出ます。
その人が常に何を考えているのかが、いざという時にはっきりと表れる。
火事場の馬鹿力を必要とする時には、
その人個人の考えと力をさらけ出すことになる。
毎日、馬鹿力が出ればいいと思っています。



「これは夢のような幸運だ」と思っているうちは、
その幸運を享受できるだけの力がまだ本人に備わっていない頃だと思うんですよ。
幸運が転がってきた時に
「あぁ、来た」と平常心で拾える時には、
その幸運を掴める程度の実力が宿っていると言えるのではないでしょうか。



つまり、人生に近道はないということです。
まわり道をした人ほど多くのものを得て、滋養を含んだ人間性にたどりつく。
これは、ぼくにとっての結論でもあります。
技術者としても人間としても、そう思う。
若い時は早くゴールしたいと感じていることでしょう。それもじれったいほどに。
ぼくもかつてはそうでした。
でも、早くゴールしないほうがいいんです。
ゴールについては、いい悪いがあるから。
成功を手にしたいというのが人間として当然あり、
しかし人は成功を手に入れたとたんに厄介なものを抱えることも確かです。



<いい本を読むと元気になりますよね?>


ぼくとしては実行しないと知ったことにはならないし、
実行して結果を見てはじめて「このことを知った」と言えるのだと思います。
ですから、読書をする時にも、ただ単に読んで「知った」ということはありませんし、
大量の本をむさぼり読むからすごいとも思いません。
すばらしいなぁと思ったら料理にするだけ、
シンプルな読書法ですね。



ぼくの夢は、「有名になること」ではありませんでした。
人間ですから、生々しい欲望がないとは言いませんが、
夢というものは、きっと、ずっと幼い頃から見つめていたところにあるのではないでしょうか。
ヘンな入れ知恵がつく以前に、自分は一帯、どうしたかったのか?



なんで生き方の問題が仕事の問題かと言うと、
ぼくが見てきた範囲で言いますと、若い時の才能とか技量には、あんまり差がないからなのです。
結局、才能をどれだけ振りかざしてみても、あまり意味がないと思う。
才能はそれを操縦する生き方があってのものですし、
生きる姿勢が多くのものを生むからです。



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この本に掲載されている「コートドール」の調理場の写真は、
まるで軍艦のような迫力に満ちていますね。十六年の時間を感じます。
あまりキレイに撮らないでくれたのがよかった。
光を飛ばしてただただ白く光るまな板を撮ってもらったとしても意味がないから。
調理場とはそんな場所ではない。もっと気迫に満ちた戦場です。




名古屋ナイト~未明。終戦。
残りを高速バスで読みます。

何度読んでも自戒に満ちた本です。
いい本を読むと元気になりますよね。

あとは山に帰ろう。
明日は田の草取りをしよう。
18日は山中の村の草刈。
19日、新月。小豆をまく。
21~22日は、長岡で小林茂カントク(今、松之山でドキュメンタリー撮影中)の対談。
23日は(生きていたら)、白倉の滝を登る。
次の新聞の体験取材記。


 * * *


<明日の光を体に浴びて
 振り返らずに そのまま行けばよい>

みんな、それぞれの舞台でやって、集まったときはまた「乾杯!」だな。










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by 907011 | 2012-07-16 05:02 | Trackback