山中記

山の中という戦場。



田んぼや畑で時々休みながら、字を読む。
訳あって今月から読み始めている日本農業新聞と、
新聞屋が良かれと思ってついでに無料で添えてくれる新潟日報。

山中はメインストリート沿いにある家以外は、新聞は公民館に棚があってそこに届くシステム。
朝仕事を終えて、帰りに公民館に寄って2紙を小脇に挟むと、
何とも言えない「読破しなくてはいけない義務感」みたいなものが湧いてくる。
この義務感というのは決して良くは作用しないものだけど、
それでも読めば読んだなりに収穫があるので、どうにか続いてます。

つい何年か前まで日経新聞が好きでとっていました。
日経は面白い記事、発想の着火となる記事が多かったし、何より文化面が秀逸で、
「長岡駅近く・駐車場付¥36,000」という安アパートの、
しかもなぜか屋上を一人占めして朝日の昇る頃にストレッチしながら読んでました。

ただ、思いっきり文化的新聞に一変する日曜の日経を読むのに、
自分の場合は休日の3~4時間くらいを要するため、
温泉などに持参して心身とものぼせながら意地になって読んでいた。
とりあえず新潟日報の無料配布、早く終わらないかな。

新聞なければ本を読む。
山の木陰で仕事の合間に本を開くと幸せな気分に満たされます。
「一人仕事をしていきたいよなあ」と、そんな時に強く感じます。

『調理場という戦場』を何で繰り返し繰り返し読むんだろうと思ったら、
それは、自分なりにやりたい農業と、ここで語られる調理場とがすごく似ているからなのだと気付いた。

そんな、ですます調と口語とが「ないまぜ」になった感じの今朝。



調理場という戦場―「コート・ドール」斉須政雄の仕事論 (幻冬舎文庫)

斉須 政雄 / 幻冬舎





今も、自分のやっていることは化学実験のようなものだと思っています。
いい言葉を聞いた。こんな風な考えがあるのか。
じゃあ、その新鮮な考えを料理にしてみたら、どうなるだろうか……?
どんな結果になるのか、ワクワクしてしまいます。
本には、今までぼくが試していない行動のヒントがたくさん詰まっています。



斉須さんの言葉は即田畑に当てはまると思う。


お店を開くとしたら、万全のスタートは誰にだってできっこない。
「もっと万全になってから」と考えていたら、いつまで経ってもお店を開けないままで終わります、きっと。


もちろん、多くを得ようと思えば迷いが出ると思います。
だけど、「これだけあれば、大丈夫」と思えたら、自分でやりたいことをやるだけになるのです。
創意工夫してやれば、けっこう、できます。



そういえば、この本、
後半になって、やっと少しだけ料理の話が出てくるような気がする。


それぞれの人は、修業時代からの味付けの失敗と成功の積み重ねの中で、
微調整をしていきます。
気が遠くなるほどの量の操作が、身体にしみついているかどうかが、
センスという言葉で表わされるような結果の差になってくるのだと思います。
そこはもう、操作のくりかえしというか、失敗のくりかえしの中で、
「これがいいのかもしれないな」と、感覚的にわかっていくものです。
理論的なものではなくて、生理的な過程でしょう。



確かに、学校で教わった基礎はどこでも通用する。
でも、どこでも通用するものって、評価はされないのです。
個性ではないものだから、オリジナルな仕事だとは見做されない。
お客さんから「あれではなく、これをぜひ食べたい」と思ってもらえるには、
人と同じ能力を持っているだけでは足りない。
ひとつの優れた特性で勝負をする人のほうが、何でもできる人よりも商品価値がある。
あれもこれもこなせるというのは、平均から脱することのないつまらなさでもあるからです。
あれもこれもはできないけれど、これはできるよ、という料理の作り方をするほうが、
お客さんは欲しがってくれるでしょう。


それぞれの人はそれぞれにひねくれているはずです。
その奇形な中から出てくる部分が個性であり、使いようによってはすばらしいものになると思う。
奇形なら奇形でもいいじゃないですか。


海外で独学した人の共通項なのだろうか、
日本語として、それ自体がすごく美しい言葉だなあと感じる。


「色をつけなければ」と先入観にがんじがらめに縛られてしまえば、荒い火を使わざるをえない。
だけど、ある程度水分を飛ばして、そのあとに自然についてくる色を待っていればいいんです。
いきりたたなくても、色は湧き出てくる。人間性と同じです。


ぼくは、おいしいものができるのなら、どのぐらいの時間であっても構わないのです。
「テリーヌは、何度で何分でしょう?」
そういう小賢しい基礎知識を振りまわす人を見ると、ちょっとムッとしてしまいます。
そんなことないよ。試してみなければわからないじゃないか。
結果がよければそれが最高のテリーヌの作り方なんだ。

最高のうまみを出してあげることが、
素材に対していちばん丁寧で、敬意を払うことになる。



火を使うから、偶然の要素が入ってくることを避けられません。安全圏はない。
「コート・ドール」のスタッフには、「安全圏の仕事を与えてもらおうと思っても、
そういう役割は、ここにはないよ」と言っています。
料理長のぼくにも、安全圏はないのですから。



修業先での恩師について。
耳に痛い話ですが、俺の場合じつにいろんな土地のいろんな恩人たちの顔が浮かびます。

ムッシュ・ペイロー。そしてベルナール。
その時々のすばらしいメートル(恩師)と並走している時には、
「案外、自分でもできるのではないだろうか?」と思ってしまうものです。
しかし、うまく並走することができているのは、
隣にいる恩師が見えない微調整をしてくれているからに他ならないのです。
その場にいると一から十まですべて満たされているけれど、
自分でゼロからはじめようとすると、何もない。
「ことほどさように違うのか」というほどに違う。
何が足りないのかがわからない。そんな状況が絶対に出てくる。


脱サラした瞬間5秒でそう思った。
いかに看板や名刺の力で仕事をしていたかに、気付かされた。
企業の下のニンゲンじゃなくなった瞬間、あまりに非力だし、
当時の自分の状況を証明する言葉も伴わない難しさを味わった。

ベルナールから学んだものの中でいちばん大切にしているのは「臆病さ」です。
彼はいつも臆病さを失わない。
何をやるとしても、最初からバーッとは出ない。
何歩か出たり入ったりしながら、強度を確かめて、
それから準備万端でブルドーザーで出ていくような人間です。
その意識の持ちようを彼から学んで、今日も駆使しているのです。



「バブル絶頂期のレストランのあり方」というモデルがあちこちにあった時期の開店だったんです。
役所関係や会社関係の人がごんごん来て、接待費を使いまくるタイプのお店が、
六本木だとかで、とても流行ってましたからねぇ。
事業家なら、きっとそういうのに興味を抱くと思うんですよ。
でも、ぼくのお店は、バブルまっただ中なのに、ほとんど今のようなかたちで……
接待費を動かす人たちには、あまり相手にされなかった。



お店を開いた後に妹さんが病で亡くなった。


楽しまなかったらおもしろくない、ということを超えて、
「生き方をかけて楽しまないと、もったいない。後悔する」という決意が芽生えてきたのです。
限りある時間のすべてをかけて、理想を現実の手ごたえに変えていきたい。



母親は料理の世界のことはまったくわからない、田舎のひとりのおばあさんでしたね。
フランスなんて彼女にとってはほとんど絵空事で、空想の世界でしか知ることができなかったことと思います。
そういう中をくぐり抜けてきたあなたの子がこういうことをしてきましたよ、
という人生の道行きを、本にして母親に渡したわけです。
母親は肝臓を病んでいましたが読んでくれました。
ぼくは小さい頃からぼんくらで、
「懇談会とかに呼ばれて帰ってくると、母はいつも落ち込んでいた」というのが、
ぼくにとっての母親像でしたから、そんな母親に、ちょっといいところを見せられたかなと思っています。
「がんばったんだね」
そう母親が言ってくれた時には、感無量でした。



名古屋からの帰りのバスの中で泣きたくなる。


小さい頃には、お寿司屋さんになりたかった。
仕事の内実なんてわからなかったのですが、ただキリリとねじりハチマキをして、
ノリのきいた白衣を着て、お客さんの前でキビキビ働くいなせな姿の職業にすごく憧れて、
「ああいうのになりたい!」と思ったものです。
母は、とんでもないと言ってました。
ぼくがどれだけ情けない子かは彼女がよく見ていたでしょうから、「あんたにはできないよ」って。

だけれども、同時に、ふだんから育つ過程でいつも言われていた言葉があって、
それは、この頃すごく自分に返ってきています。
「人にできたら、あんたもできるよ」という母の口癖は、何かを感じる言葉なんです。


経営についてもまた我流で興味深い。
我流というより、昔からの流れをじっくり観察しているなあと。
クラシックを聞くような感覚が伴うのだと思う。


生産者と経営者と消費者の意識を把握しなければなりませんが、
そうそう物事は思い通りにはならず、経営者としては非常にドンブリ勘定でやっています。
綿密に経営したことはないです。
遠い昔の日本人はそれで成り立っていたはずです。
だからそれでやっていけるか、その生き方でゴールまで行けるのか、試してみたいと思っています。



あまり打って出ない、しかもドンブリ的な経営は非効率なやり方でしょうけれども、
今の社会風潮の中では、かえってそれが大切なポイントではないかと考えています。
効率とか収益だけで何もかもが行われる中で
「こいつは馬鹿か利口かわからない」みたいなところでお店をやっていくのは、愉快でしょうがないんですね。
もし最後までこれでやれるのならばやってやれ、というのが実際の気持ちです。



料理人は職人であると同時に、商人でもあるから。
職人は生産者の立場でものを見ているけれど、商人は消費者の立場でものを考える。



自分の作っているものが最高だと思い込み、自己満足に浸ってしまうのは怖いことです。
作られたその場で消費されて、おいしいと思ってもらわなければ、
それはその場では明らかに「おいしくなかったもの」なのです。
味わう舌が悪いというわけでもなく、それは結果として、その人にとっては、おいしくなかったということになる……。
いくら料理人が「これでどうだ!」と威張ってみても、その事実を変えることはできません。



喜びと値段が一体にならないと、笑顔をもらえるかどうかは、わかりません。
経営と開発には、ある程度の基準を持って、あとはアイデアと勢いで切りぬけていかないと、
お店は自滅してしまいます。
「高いものを揃えること」は誰にでもできる方針ですが、お金持ち以外のお客さんには迷惑ですからね。



「仕事論」と副題に掲げられているけど、
仕事論を語る上で、回顧されている来し方行く末が一つひとつひじょーに深く掘り下げられている。


ぼくは田舎で味噌汁とタクアンを食べて育った子だし、
洗い場で何もやらせてもらえなかった駆け出しの頃をよく覚えています。
「薄給だけど、それに甘んじて頑張っていた自分」しか、やっぱり、最初のぼくにはなかったんです。
そのスタートラインを意識していたいんです。
プロというマスクをかぶってウソを言うことはしたくない。



「コート・ドール」に入ってすぐの子たちは、
「何でもあり」という感じが、はじめはほとんどよくわからないようです。
今まで学校で「人と同じじゃなきゃいけない」という教育をさんざん受けたあとにうちに来るんですから。



やっぱり、農業も含めて「手でものをつくる」という仕事は面白い。
面白くて、深くて、限りなくて、そして、生きることを哲学(独学)するための最良の素材になる。


スタッフには、経験や年齢や場所に関係のないところをよく覚えてもらいたいです。
「この個性さえあれば、パリでもアマゾンでも通用する」と自分で思えるようなものを宿せば、
どこに行っても、料理を作れますよ。
「あれがないとできない」というような小賢しい知識とか技術だけじゃなく、
生理的に太いところを鍛錬してくれればなぁ、と、そんな風に思っています。
いつか独立するかもしれない料理人に対して、ぼくはそうやって接していますね。


経験を重ねて痛い思いをしてきた人が大切にするものには、
ある程度の共通性が出てくるのではないかと思ったことがあります。
北極でテントを張っていても、アフリカでサバイバルをしていても、ニューヨークで芸術の世界にいても、
誰もが大切にすること……それこそが、本当の意味でのパスポートなのではないかと思います。
世界の不文律というか、自然の摂理といってもいいかもしれません。
自然体で生き抜く強さと、生きていく上での感謝。
ぼくのように野菜や肉からそれを感じはじめるようになった人もいれば、
熊やオオカミと対峙してそれを感じている人もいるかもしれません。



そして、この本を幾度となく読み返す上で、
私的にいちばん好きな言葉。


透明になるには、今の自分が持っているものから
減らすものと捨てるものを選択しなければいけません。
捨てられないものを引きずりながら、新しいものを手に入れようというムシのいい若者もいますが、
「それでうまくいくことは、ないよ」
「欲しかったら、ぜんぶ捨てなさい」
と、それだけは徹底的に叩き込んでいます。



ぼくはふつうの人間です。
意志が特別に強いわけでもない。臆病だし技術は下手です。
専門学校に入ってちゃんと学んだ知識もない。
ぜんぶ、現場で生理的に抜き取った仕事しか、身についていないんです。
だから、いつも怖いのです。


ソースをスープのように飲む生活で、ぼくの足には静脈瘤ができています。
フランス料理を生理で体得する過程で血管の弁がやられたからです。
でも悔やんでいません。
何かを得るためには、何かを失わなければならないから。



「コート・ドール」の調理場には次の言葉がかけてあるという。
「一、至誠に悖(もと)るなかりしか。
 一、言行に恥ずるなかりしか。
 一、気力に欠くるなかりしか。
 一、努力に憾(うら)みなかりしか。
 一、不精に亘るなかりしか。」

誠実か。言動に恥ずることはないか。気力は満ちているか。
努力は怠らなかったか。不精になってしまっていないか。
すばらしい言葉だと思います。
大変な状況の中で、昔の人はこれを目指し、実行していたのですよね。
何もかも揃っていても、なかなかこれをすべて満たすことはできないですよ。
ものがなければないで工夫して手ずから生み出していけるはずと思いながら、
この言葉を思い出しています。



ニヤッと笑う話。

できあがったものを見て「あぁ、なーんだ」とは、誰でも言うんです。
そしてそこで終わることでしょう。
でも、プロセスをしっかり見ている人は、プロセスの結果としてできあがったものを観察して、
ニヤッと笑いますよ。
「そうなるんだね」とニヤッと笑う体験が大切なんじゃないかと思います。




本人にとっては、うまくいくかいかないかは、「〇%か一〇〇%か」だけなのです。
九〇%の人がうまくいかなくなっても、一〇%に入りたくなる……
自分でできれば、それは必然の出来事になるのです。
その逆に、八〇%の人がうまくいっていても、自分がだめなら、それは本人にとって〇%でしょう。

「できるかもしれないじゃないか!」
青春って、そういうものですよね?

ぼくも、口当たりのいい若年寄になんかなりたくなかった。
何を言われたって、やってみないという手はない。
客観的に言っていいことなのか悪いことなのかはわからないけれど、
やってみたいと思ったことを実行すれば、まがりなりにもその人なりの凸凹が出てくる。
実行しないままだと横一列並びになる。



若い人たちは、どちらか明確なものを欲しがりますが、それはあまり意味がないと思います。
どちらかわからないような不安な現場で平常心を失った状態で作るからこそ、
何かがわかるのではないでしょうか。
「わかる」と言っても、決断の時にしかわからないものだと思うのですが……
いつでも事前に平常心を持って悠々と判断できるようなものは、あまりないですね。



いい人は、嫌い。

理路整然とした人のほうが優れているというのは、うそっぱちだと思っています。
現実に何かをしている最中には、何がどう引っくりかえるかわからないんですから。
純粋なことだけ教えればすばらしい力を宿すかというと宿さないんです。それと同じですよ。
いいことができる人は、悪いことだってできます。
ですからぼくはお店のみんなに、「いい子面した偽善者にはなるな」って言います。

いい子は弱いから。
ほくは「いい人」が嫌いです。みんなに対しては「ぼくは、悪い人です」と言ってます。いじわるもしますし。
いい人であるだけでは、あるべき姿のレストランを維持できませんよ。


調理場ではマニュアルを作れないと思っています。
組織はマニュアルを作るから弱体化していくとさえ考えていますから。
少人数でその場その場の言葉にならないマニュアルを作って
ピンチを切り抜けていくところを重視していますね。効率は悪いですが。

効率と収益を追うと、量産せざるをえないでしょう?
そうなってしまえば、結局拡散され薄められたものしか出てこない。
ぼくとしてはそう考えています。


気立てと健康。
そのふたつには、余計な作為が入ってないからいいのです。
どこを切っても裏表なく人に接する人はすばらしい。
まわりの誰もが「あ、この子は何でも嫌がらずにやるな」と、憎からず思うでしょう?
そう思ってもらったら、もう成功の切符を手にしたようなものです。
そういう人ならどこに行ってもうまくいくでしょう。



昨日ふと読んだコラムにあった言葉、
おとなになるって、「ご機嫌でいることよ」。

常に機嫌良く居ることは、時々難しい。


ぼくが見習いでまだ何もできずにいる頃、未来のことなど到底想像できませんでした。
いつも「シェフになる人には、ぼくとは別ルートがあって、
苦もなく何でもやってのける特別な人なんだろうなぁ」と感じていました。
だけど、フランスで出会った最高の人たちは、ふつうの人でした。
壁に正面からぶち当たり、タンコブを作りながら毎日をひたすら積み重ねていた。
……ぼくは、その姿に感激した。



今、コート・ドールから有能なスタッフが独立するケースは多くて、
内心「いてほしい」と思いながら、でも、だからこそ「一人立ちするべきだ」と送り出すのだという。
「あとのことは何とかなるから」、
「行きたい未知の世界に進んだほうがいいと思うよ」と。

必要な人ほど、身近なところにはいなくなっていきますね。
「愛しているものがあったら、自由にしてあげなさい。
 もし帰ってくればあなたのもの。帰ってこなければ、はじめからあなたのものではなかったのだ」
こんな言葉を聞いたことがあります。その通りだなぁと感じました。

ぼくの経験上でも、確かに、印象深い人は必ず帰ってきてくれています。
帰巣本能みたいなものかもしれません。
「斉須さん、こういう人間になりました」と会いにきてくれる。
何年かの間、必死にぶつかり合う。
そして次は、それぞれが違うところで毎日何かをやっている。
お互いの存在が仕事の励みになる。そういう関係は悪くないなぁと思います。



うまみは何処にある?


ひとりの人間が体験できることは、そんなに何人分にもなるはずがありません。
それぞれの人は、それぞれの限りある日常の中に、埋没しているはずです。
あるがままの日常の中で、ひとりの人が、心から大切に守っているものは、
そんなにぞろぞろとは出ないでしょうし、ぞろぞろと出る言葉は、「きれいごと」に留まってしまって、
その人との体験とは離れた、地に足のついていない、その人をさらけ出していないものになるような気がします。
うまみは、そういうところにはないんです。



知識や才能を、作動させて開化させるための環境づくりは、
もしかしたら、知識や才能を獲得するよりも、ずっと難しくて、ずっと重要なことなのかもしれません。
ぼくも、何十年も料理の世界にいますが、耳に心地よく響く、優雅な答えなんて、持っていませんものね。


本に書いてあったからとか、講習を受けたとか、
そのひとつだけでわかるものごとは、ごくごくわずかなものではないでしょうか。
見る。聞く。嗅ぐ。動く。身体の中にまで入り込んだ時に、初めて、言葉や手法は発露するのです。
人がものごとを吸収して、それを行動の原動力にまで変えていくというのは、
とても効率の悪い、時間のかかることだと思います。



「どうやって、こういうお店を作ったのですか?」と問われたら「こう答えたい」そうだ。

「何をやったか、よりも、『やらなかったこと』が今に至っていると思います」と。
策を弄(ろう)していたとしたら、手に入らなかったであろうものが、
今のぼくには、とても大事な財産になっています。



運とか縁とか無欲・無私とか。

結果を生む作用は、その人の日常とは、またひとまわり外側で動いているような気がしました。
本人は、そういう大きな流れを気にしたりせずに、ひとまわりちいさなサイズの中で、
十分に生活を満喫しているんです。
大きな成果は、むしろ、その人の周囲の人やものが、その人に手渡しているかのようでした。



 * * *

田んぼと畑の草刈りでぐったりして、昨夜は19時前に布団に入った。
よく寝た。

夜中に目覚めたら雨がざあざあ降っていて、
ほぼ日腹まきと作業着をまたも焚き火イスに引っかけたままだった。

今日は7時半から山中生産組合の手伝いを頼まれていたけど、
雨で延期。今日の昼からか、明日の朝からか。
お天道様しだい。



願わくば、肉体も精神も目いっぱい使いつくして、
ある日のサービスの最中に終わりたい。
何者でもなかった頃の自分と今日の自分の時空の間をひんぱんに行き来しながら、
ためらい、励まされ、決断し、生きてきました。
もうすこしやりたいし、上手になりたい。その気がある限り、道は続いている。
ゆっくりを精一杯……。今はそんな気持ちです。



やりたい仕事に夢中になれるという状態は、
ともすると、(古き良き時代の言葉としての)”信仰”のようなものかもしれない。

だから、それぞれにそれぞれの潔い戦場があるのだと思う。
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by 907011 | 2012-07-21 06:59 | Trackback | Comments(4)
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Commented by いなこ。 at 2012-07-22 17:05 x
お盆に、一週間という長い休みをいただきました。

色々、思うこと、感じること、たわいもない話をしに、久しぶりに新潟にお邪魔しようかな…と思っていました。

ご都合、いかがですか?
Commented by 907011 at 2012-07-23 04:09
いなこ。はん

おはようさん。昨夜消防団飲み会の後、そば屋で仮眠をして帰宅。
今日は滝を登ってきます。

そうえいばこの本、鮫川にも旅したんだよね。
引用しまくったけども、ひじょうに良い一冊です。

お盆。
山中のお盆行事や親類食事などが入るかと思うし、嫁さんにも伺いを立てないとアレですが、
けっこう直近にそのアレの予定がどーんと決まるので、
また追ってメールで連絡しますね。

もし山中NGでも長岡居酒屋までゆきます。ゆきたいし。
Commented by いなこ。 at 2012-07-23 18:37 x
いい本は、いつ読んでも、何度読んでも、自分を見つめ直させてくれますね。

私も、隣に置いておきたくなりました。

鮫川の中の戦場。

そうですね。

私は長岡のレトロな居酒屋さんでおしゃべりできれば、後はその辺をぶらぶらして帰ってくるので、夜に都合がつく日がありましたら、教えてください。

もし、昼間にでも伊藤家の田畑にお邪魔できたら、それも嬉しいですが…

無理のない日程で伺いたいと思います。
Commented by 907011 at 2012-07-25 04:05
いなこさん

今ほどメールを一つ送りました。夜中にスミマセン。
長岡駅前で合流というのが現実的なプランです。
お盆の長岡ってどんな様子だったかなあ。

良い本。
そうだねえ。
俺もこの本から刺激を受けた分をエネルギーに変えて表現できれば理想的です。

ではまた。今日もちょっと戦場へ。