やり直す日々。
植え直し、残り12枚な日々。
沢の雪解け水が数日でいよいよ細まった。
一昨日の夜は中山間地域等直接支払制度に係る会議
昨夕は小中学校の後援会評議員会に出席。
集落内外の細々とした仕事についても分からないことだらけなので、
こうした召集される種々の会議に出て、説明や各集落代表たちの話し合いを聞いて
少しずつ「何となく、今こういう話をしていたのかな」というのを肌で吸収する日々。
(「分からないなあ」「なるほどなあ」のラリーを見るテニスの審判みたいになって
私脳は支配されているので私見ゼロ。
テレビの激論番組だとすれば一回もカメラで抜かれず静かに帰っていくタイプ)
なかなか為になっている時間でもあるが、
田から上がって泥を落として着替え、ドタドタとおにぎりかじりながら出動せねばならず、
残念ながら田んぼに入る時間はだいぶ割かれてしまう。
こと夜の会議ともなれば、20時半就寝型のワタシは
発言ゼロなのに、「負けたボクサー」然となって家路に着く。
(始末が悪いことに、
それでも夜頭を使うと眠れなくなる気質のようで、帰宅後寝酒が深夜に及ぶ)
好天が続き、水見や水口の細かな調整が日に2時間ほど費やされている。
ほんとうに難しいことは多い。
その他なるべく植え直しに入り、日に2、3枚ずつくらいじわじわ更新中。
ただ、この時期、カエルの声、鳥のさえずり、
水の音と風の音だけが支配している月ユメ田んぼにいると「至福」を感じる。
小さな田んぼはいっぱいあれど、形も状況もそれぞれなので、
毎年が一回だけの練習のようなもので、機械作業もなかなか上達は難しいまま、
口惜しいことにまた来年と過ごしてしまう。
稲刈り、田づくり、田植え、その後の水管理すべては連綿とつながっている。
機械下手で生む高低がずっとものを言い続けてくる。
手前がもっとも「連綿」を痛感するだけに、
なかなかもどかしく、仕方ないとは言いながら頭を掻き、心の中で胸を掻きむしる状態。
水見して、土の凸を水位で隠して補おうとすれば、
凹のところの苗たちは水に埋もれ、海藻のように漂いながら
「このままだと消えますワタシ」と水面の下からこちらの顔を見上げる。
その横で、去年の稲のカブツの分解されてないのが
逆さまに引っくり返って、ウニみたいに半分埋まっている。
毎年の海然とした様子を眺めながらどっぷり腰を折り曲げる日々。
機械を下りて、田に入ってようやく「田んぼをやっている」のだと感覚が色付く。
山中で田んぼをしてみると、
そのことが「ここで暮らすこと」と密接につながっているのだと
この頃強く考えさせられる。
こっから先、雪降るまでは「お休み」という感じのまっとうな休みはほぼ無くて、
そうして春夏秋はあわあわと暮らしながら過ぎていく。
植え直しは田んぼや稲との関係性をつくり直す時間の一つ。
万事上手にできない自分が身体でできるやり直しの術であり、
土や水に謝るようにして折り合いをつけていこうとする時間。
言葉や自分が考える意味や価値など越える、
謝りであり祈りのように、理に対峙し圧倒されるための静かな時間。
植え直しの時間が好きだ。
あと12枚。
(苗代実験中の苗たちを来月半ばに手植えするのがもう1枚)。
今日は山中生産組合のお手伝いへ半日。
よその田んぼに入っている場合ではないものの、
手放される田んぼをこれからどうしようかという宿題共有の時間。
植え直す日々。
「知のきしみと肉体のきしみを、交互に行うこと」という山里からの箴言をときどき思い出す。
きしめたかだか自分の小さき知と、せいぜいきしめ下手な身体よ。
****************
沢の雪解け水が数日でいよいよ細まった。
一昨日の夜は中山間地域等直接支払制度に係る会議
昨夕は小中学校の後援会評議員会に出席。
集落内外の細々とした仕事についても分からないことだらけなので、
こうした召集される種々の会議に出て、説明や各集落代表たちの話し合いを聞いて
少しずつ「何となく、今こういう話をしていたのかな」というのを肌で吸収する日々。
(「分からないなあ」「なるほどなあ」のラリーを見るテニスの審判みたいになって
私脳は支配されているので私見ゼロ。
テレビの激論番組だとすれば一回もカメラで抜かれず静かに帰っていくタイプ)
なかなか為になっている時間でもあるが、
田から上がって泥を落として着替え、ドタドタとおにぎりかじりながら出動せねばならず、
残念ながら田んぼに入る時間はだいぶ割かれてしまう。
こと夜の会議ともなれば、20時半就寝型のワタシは
発言ゼロなのに、「負けたボクサー」然となって家路に着く。
(始末が悪いことに、
それでも夜頭を使うと眠れなくなる気質のようで、帰宅後寝酒が深夜に及ぶ)
好天が続き、水見や水口の細かな調整が日に2時間ほど費やされている。
ほんとうに難しいことは多い。
その他なるべく植え直しに入り、日に2、3枚ずつくらいじわじわ更新中。
ただ、この時期、カエルの声、鳥のさえずり、
水の音と風の音だけが支配している月ユメ田んぼにいると「至福」を感じる。
小さな田んぼはいっぱいあれど、形も状況もそれぞれなので、
毎年が一回だけの練習のようなもので、機械作業もなかなか上達は難しいまま、
口惜しいことにまた来年と過ごしてしまう。
稲刈り、田づくり、田植え、その後の水管理すべては連綿とつながっている。
機械下手で生む高低がずっとものを言い続けてくる。
手前がもっとも「連綿」を痛感するだけに、
なかなかもどかしく、仕方ないとは言いながら頭を掻き、心の中で胸を掻きむしる状態。
水見して、土の凸を水位で隠して補おうとすれば、
凹のところの苗たちは水に埋もれ、海藻のように漂いながら
「このままだと消えますワタシ」と水面の下からこちらの顔を見上げる。
その横で、去年の稲のカブツの分解されてないのが
逆さまに引っくり返って、ウニみたいに半分埋まっている。
毎年の海然とした様子を眺めながらどっぷり腰を折り曲げる日々。
機械を下りて、田に入ってようやく「田んぼをやっている」のだと感覚が色付く。
山中で田んぼをしてみると、
そのことが「ここで暮らすこと」と密接につながっているのだと
この頃強く考えさせられる。
こっから先、雪降るまでは「お休み」という感じのまっとうな休みはほぼ無くて、
そうして春夏秋はあわあわと暮らしながら過ぎていく。
植え直しは田んぼや稲との関係性をつくり直す時間の一つ。
万事上手にできない自分が身体でできるやり直しの術であり、
土や水に謝るようにして折り合いをつけていこうとする時間。
言葉や自分が考える意味や価値など越える、
謝りであり祈りのように、理に対峙し圧倒されるための静かな時間。
植え直しの時間が好きだ。
「とりかえしがつかない」と私たちはよく言う。
確かに、傷つけてしまったこと、そのこと自体は、
つぐないようがない。時は二度と元には戻れない。
でも、相手に与えてしまったダメージと等価の、
嬉しい気持ち、嬉しい時間は、
提供することができるのだと思う。
それには、「遅すぎる」ということはない。
むしろ、それだけの時間、相手を思ったことの証になる。
許す、許さないとか、自分が許せないとかはまた別問題だ。
相手のモチベーションを下げたなら、上がるような時間を、
相手の気持ちを冷やしたなら、温かくなるような記憶を。
それを提供するのが、おわびの時間だ。
(『おとなの小論文』)
あと12枚。
(苗代実験中の苗たちを来月半ばに手植えするのがもう1枚)。
今日は山中生産組合のお手伝いへ半日。
よその田んぼに入っている場合ではないものの、
手放される田んぼをこれからどうしようかという宿題共有の時間。
植え直す日々。
「知のきしみと肉体のきしみを、交互に行うこと」という山里からの箴言をときどき思い出す。
きしめたかだか自分の小さき知と、せいぜいきしめ下手な身体よ。
****************
by 907011
| 2015-05-27 04:38
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