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山中記

透谷。

月の灯る夜だった。

平場のセガレさんところで越冬していた”なおんじ”のバサが昨日の昼に、
オラ帰ってきたぜーって挨拶に来てくれた。
雪も少なくて、良かった良かったと二人で束の間、笑い合った
(なおんじのバサは耳があまり聞こえない為、俺の苦手とする表情のコミュニケーションが肝要だ)。

うちから見える「村」に明かりが一つふえた。

 * * *

目の弱い家系に生まれたので、わりと小さい頃から、
「もし目が見えなくなったら、ああしてこうする必要があるなあ」などとぼんやり考える機会が多かった。
『解夏』という映画を見て、自分なりに「イン・ザ・ダーク」という概念をより具体的に考えるようになった。

精神がブレブレで人間不信の塊のような自分が、
それでも時に人(老若男女問わず)を「好き」になる感覚は、
その人と過ごした時間が終わり、別れた後に、
「もし、いま目が見えなくなったとして、
 俺はあの人の表現を”視力”に替えて、信じて、頼りにして、
 耳に伝えてもらう言葉で、(自分に見えない)世界を脳裏に描いて生きられそうだな」
なんてことを想う、そうした気分だと思う。

「見えなくなること」は自分の業であり、
欲や煩悩でもあり、これまでの罰だとも思っている。
見えなくなった瞬間に、とうとう晴れるような業だ。

今日も凍み渡りを歩いた。
5時頃、夜と朝との立ち別れのマジックアワーがもっとも静かに興奮するような時間だ。

もしも、視覚を失った自分が、
その瞬間からおそらく必死にもがいて、
徐々に研ぎ澄まそうとするであろう別の感覚には、我が事ながら興味が深い。







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by 907011 | 2016-03-29 05:18 | Trackback