小ささへ移行していくこと。
と同時に、
昨秋に家人の祖母が亡くなったのを筆頭に、
自分が移り住むことを決める前後からずっとお世話になり、
面倒を見てもらってきた年寄りたちが、加速度的に次々に亡くなっていっている。
うちのすぐ下の”ごんぱち”のジサが亡くなった。
葬式は豪雨と重なった。
自分が2011年春に山中に来て、
当初しばらく畑など見ながら「さて、どうやって暮らすのかな俺は。」などと
毎日、雑誌『自由人』よりも自由かつ、
良品計画(無印)が好きでありながらも超無計画な、
きわめて身分証明の難しいニンゲン(当時まだ独身)として過ごしていたので、
職安で「無職=パーカー率高し。」と地方の雇用問題について考えさせられたり、
畑が段になってつながっているごんぱち夫婦と毎日のように顔を合わせ話していた。
写真奥が現在我らが暮らすことになった”とわち”の家)
* * *
「オラ、テレビで東北の地震を見てわかった。
いまに都会のニンゲンたちがぼっとん便所を借りに山中に来るったぞ。
水もいらん電気もいらん、ぼっとん便所はすげえんだ。」
などという日々の気付きを余すところなく話してくれながら、
随所にバサとの夫婦農山村漫談をノンストップで入れるごんぱち夫婦。
毎日顔を合わすたびに、
「いやー、上の家にいい人が来てくれたってバサと話してるんだ。」
と、怪しい30代・無職男性の俺に繰り返し繰り返し言ってもらって、
それは当時の自分の貴重なエネルギー源となって今日に至る。
自分がいざ住みはじめた山中暮らし2週間くらいのある日、
ジサがかけてくれた言葉は今も励み(時には自己矛盾への「許し」)になっている。
<「ここは、誰も居ねすけ、ゆっくりやればいい。
今日の仕事が明日になっても、
明日の仕事があさってになってもいいから、
あわてず、ゆっくりやりなさい」
(「言葉について。」より)>
2世代くらい離れた若者にすっと自分も言えるようになってみたいというもんだ。
(2011年6月の鶏たちとごんぱちの屋根)
山に願いを。
「わからない」から祈るのだ、と俺は想う。
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