山中記
2024-03-19T08:18:05+09:00
907011
小さな農山村での暮らしの記録。
Excite Blog
思想家・活動家と我ら。
http://tsunagou.exblog.jp/33721811/
2024-03-19T05:33:00+09:00
2024-03-19T08:18:05+09:00
2024-03-18T16:14:02+09:00
907011
未分類
ワタシは人一倍、致命的レベルで「忘れてしまう」力が強い。これは自分の弱さに比例しているのだと思うようになってきたけど、つまりは忘れることで自らをどうにか生存させているわけで、自分に不都合なことを「今は忘れなきゃ生きにくいぞ」と脳が指令を出しているのだと思う。現に誰もまったく気づかないミクロのことで数日間分かりやすいくらいに凹んだり、テキメンにすぐ眠れなくなったりするので、自分の心身ながらこの脳も大変お忙しいだろうなあと慮る。・・まあそれらはいつものことなのでここには100回くらい記してあると思う。
で、そんな手前味噌的グーグルをしたら、関原剛さんと小林康生親方の往復書簡を伝書鳩になってやり取りした跡が2020年にあった。
以前、上越・桑取のかみえちごさんを視察したときに関原さんがミニ講和をしてくれて、そのあとにヤスオ親方がぽつりと「関原さんには初めて会ったけど、なぜか 遠い過去から知り合いだったかのような人だ」と評されていた。
直江津・杣事務所に遊びにいくたびにセキハラさんもまた「俺は小林康生さんとゆっくり話がしたい」と何度か口にされており、今回、講演会の翌朝に門出和紙でゆっくりとお話してもらった。なぜかワタシとイサオさんは録画を回しながら二人の雰囲気に少し気圧されてソワソワモジモジとその場にたじろいで居るのが精一杯だった。
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卑怯というか耐え難いものがあるから。
http://tsunagou.exblog.jp/33721242/
2024-03-18T06:51:00+09:00
2024-03-18T15:36:36+09:00
2024-03-18T06:51:03+09:00
907011
未分類
1,2月はプラごみ、ペットボトルを各戸が2階などに貯めておいて、
3月にどーんとまとめて出す。
山中、春のプラまつり。
みんなで少しずつ出し合えば
この15戸の小さな集落でもものすごい結集になる。
おそらくこれは我らの存在や潜在的な力を暗示している。
おそらく。
そういえば、内山節さんつながりで視察に行った群馬の上野村にはプラスチックを無害のまま焼却だか融解だか滅却だかできるモノがあったなあと思い出す。
16日土曜日。関原剛さん講演会「プラグマティズム」「RMOとは何か」にはたくさんの方々にお越しいただいてありがとうございました。刺激的で具体的でした。
講演会後、関原さんからの唯一の条件だったじょんのび村の「温泉」につかってもらい、その後グルグルハウス高柳に投宿して入念な振り返りをしました(ワタシも泊めてもらう)。
昨日17日日曜日。かねてから書簡を往復したりしていた門出和紙の小林康生さんと関原さんに自由に対談してもらいました。これも動画を回していたのでユーチューブに載せて告知したいと思います。
集落の会計をとりあえずやっつけねば。
これから30年経ったときにこの集落があるか無いかまで追い詰められていく状況を見たときに、門出和紙がこれから30年残ったとしても集落が無かったら意味がないんだよ。俺がやってる紙はここで漉いてるから意味のある紙で、他に行って漉いたってなんの意味もない「風土の紙」だから。それなら紙以前に集落を残さなければならない。それは倅が後を継ぐとなった段階で自分の責任として手を加えることもなく、なんにもしないでいることが俺にとっては卑怯というか耐え難いものがあるから、この集落を30年後も残していくためにはどうしたらいいのかということに全力を注ごうと思ったんだよ。(小林康生)
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地域資源とは何か。
http://tsunagou.exblog.jp/33717674/
2024-03-15T06:47:00+09:00
2024-03-16T08:42:29+09:00
2024-03-15T06:47:26+09:00
907011
未分類
自分にはわかっているようでいて
今ひとつわかっていない。
地域で会議をすれば必ず出てくるキーワードではないだろうか。
地域資源という4文字の概念、
大きな円のような大枠としてはわかるのだけど、
具体的に例示をしようとすると
案外と数個しか出てこず、言葉に詰まる。
おそらく、今思うに
地域にあるもののなかで
「これは商品化されて収入につながるだろう」と考えるから
一つ二つで止まってしまう。
山にびっしり生えている野草は
そのほとんどが薬草の効果を自ずから持っている、
とかその程度しかひねり出せない。
がしかし、
そもそも考えるだけで商品化に直結するわけなどなくて、
自分が考える種として挙げられる地域資源とは
おおまかに言えばそんなことより一つ手前で好い。
とりあえず、今日に至るまで保全されているもの、
野にあるもの、木や草、
土から生まれるものたちがそうだし、農地そのものだってそうだ。
語り部や生存技術を手に持つ人たちも地域の資源だ。
今あるもののほとんどは資源であるかもしれない。
関原さんのプラグマティズムな講演会を2日後にひかえながら、
今一度学んで考えてみたくなったので、今日は六日町へゆく。
津南町周辺の文化、語り部たちもおもしろいですねえ。
考えるべき宿題を前にしたとき、
「むむっ」と構えるよりも、
首肩足首をぐるぐると回して柔らかく解きほぐしていく方が、
どうせ考えるならそっちの方が、
小さなユーモアを含みながら考えることができそうで好いですね。
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縮小説。
http://tsunagou.exblog.jp/33715626/
2024-03-13T16:51:00+09:00
2024-03-14T10:52:32+09:00
2024-03-13T16:50:49+09:00
907011
未分類
「無住集落」という用語を初めて知った。
「ICT」には興味関心が薄かったものの、
そうは言っても科学技術は日進月歩で進んで歩んでいるようなので、
無関心をうたうならばなおさら、
自分はただ無知のままではよろしくないだろうと事例報告などを聞いた。
ICTの現状としては、田んぼの水位や、
箱罠のシャッターの開閉(外的要因で罠が反応して閉まる→スマホに知らせる)、
という話だったので、特に新規の情報は無かったように感じた。
「原点回帰米」という米をたまに目にしていたが、
小国の横沢農場のナカジョウさんの話が
現代人的感覚、本音いっぱいで臨場感が湧いた。
そして、第一部の講演をされた金沢大学・林先生の
「無住集落」の話がおもしろくてぐいぐい引き込まれ、
聴講して良かったなあと思うものだった。
何事においても、
数年後5年後10年後をイメージしての議論が多いなかで、
より遠く、わかんないくらいはるか遠くの、
「30年くらい先という非常に長い時間スケールでものを考えてみましょう」
という話だった。
実際に石川県内でこの20年間で廃村になった集落を
いくつか写真やその後の状況とともに例示された。
ただし、そのなかには農地があって人が通って小さく耕作をしていたり、
無住集落だけど1軒だけパン屋さんが営まれているところなどもある。
無住集落だけど牧草地、
無住集落だけどキャンプ場になった村もあった。
(もちろんそれらはほんの一部であって、
多くの無住集落は「廃村」となり荒れて野に返っているものが多い。)
林先生のテーマの一つが、
「将来的な再興を意識した”前向きな縮小”」というものだった。
集落が活性化されるに越したことはないのだけれど、
それは容易なことではなくて、人はいなくなってしまう。
でも、たとえば地縁者たちによって
農地(住居も一軒は?)が最低限保全されていれば、
その土地には農地としての価値が残り、
今後30年先のあいだに、気候や国際情勢(食料流通)の変動によって
必要とする可能性が出てくるかもしれない。
国政からも住みにくさ、生きづらさが派生しており、
回帰志向の若者は出るべくして出てきているように映る。
たとえば、一つの無住集落のことを知る人が100人いるとする。
100人のなかから10人くらいのファンと出会うための努力をして、
10人の村を好きになって通ってみる人たちのなかから
1人くらい暮らし始める人が出てくるのではないだろうか。
30年という長いスパンで考えればそんな再興はあり得るだろう。
そして、結局のところ机上で協議を重ねようが、
「それは誰がわかろうか。誰にもわからない」というお話しでふりだしに戻る。
無住集落に通って保全活動ができるのは、
せいぜいがそこで育った記憶を持つ現世代までで、
その子どもたち世代には、それはできないだろうというリミットを迎えてもいる。
小さくなっていくことが悪いのではない。
どうやって小さくなっていくかをデザインする努力が問われている。
戦後右肩上がりの日本から現在の何でも右肩総下がりの日本に状況が変わり、「縮小」にも良い縮小があるかもしれないというような話でした。
能登地震で、過疎集落をこの際全部集団移転すれば良い論がネットニュースなどで出ていました。北陸3県を対象にした試算で10人未満の農業集落というもののインフラ、行政サービスを全部停止したところで、
削減される歳出というのは全体の2%に過ぎないそうです。
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原発のある町。
http://tsunagou.exblog.jp/33712480/
2024-03-11T06:48:00+09:00
2024-03-11T07:31:57+09:00
2024-03-11T06:48:06+09:00
907011
未分類
「原発の町」に住んでいることが滑稽でもある。
天災や、遠くの誰かの訃報や婚姻について
ネットニュースの見出しを目にするたびに複雑な気持ちになる。
自分は彼彼女のことをどこまで知っているのか、
ほんとうはまったくわかってないのに、と考える。
確定申告の〆切りが今週末に迫ってしまった。
入力はすでに終わって、でもそこで手が止まってしまっていた。
毎年ギリギリなので余裕をかましている節もあるが、一方で
政治家の悪いニュースにはやっぱりやる気を削がれる。
とはいえ今日終わらせねば。
ストライキ的に目の前のことをやめて
できるだけの抗議をする方法もあるだろうけど
問題はもっと根深いものだろうから、
我らができることはとりあえず目の前のやるべきことを済ませて、
批判したりする権利を確実に得ることだとも思う。
それにしてもニュースが次々と洪水のように流れている。
情報過多に包まれてみると、
気になっているはずの「悪いニュース」が
少しずつ自分のなかで見慣れたものになっていく。
許せないことがいつしか気付くと「喉元過ぎれば熱さ忘れる」状態に
変化していくから妙だ。
自分は情報の取捨選択が人一倍下手なので
よけいにそう強く感じているのだろう。
いま全方位から叩かれている国会議員は
「時間が経つと共に国民は忘れる」と考えているのだとも書かれていたが
それは事実かもしれない。
とりあえず目の前の仕事をやっつけたい。
人をなじるにせよ殴るにせよ刺すにせよ、
綺麗なところで高いところでできるはずなど本来なくて
己の手も汚れるというところは覚悟しないといけないと思う。
第三者からの情報だけ、
言葉だけでは足りないのだ。
なんだかマジメに書いたなと思うと、
そこに恥じらいが生まれる。
ユーモアだ、もう少しの。
ユーモアが足りない朝。
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趨勢。
http://tsunagou.exblog.jp/33711292/
2024-03-10T07:52:00+09:00
2024-03-10T13:44:34+09:00
2024-03-10T07:52:41+09:00
907011
未分類
16日の高柳での講演のスケジュールと中身を打ち合わせる。
ワタシは人見知りなので
半年くらいお会いしてなかったセキハラさんにも人見知る。
事務所に上がってコーヒーをもらい
しばらくはその人見知り要素と脳の緊張感で汗をかく。
桑取で買った手ぬぐいでぬぐう。
座ると早々にセキハラさんの講話が始まる。
自分は我らは何をどう糸口にしてどこから考えれば良いのか
対峙すると終始緊張するものの、
関原さんのスライド(講演資料)が思いのほかアップデートされていた。
これまでずっと「具体の権化」だと慕ってきたものの
具体はさらに突き抜けた具体へと昇華されていた。
脳に汗をかく。
集落だけでなく自治体レベルで消滅危機がうたわれて久しくなった。
座して死を待つか、バタバタするか。
我らは目指す先の一つとして「農村RMO」を考えていくだろうし、
具体策の一つとして「総合商社高柳(仮)」のようなものを構想していくだろうと思う。
長崎の医者がつくってよこしたのだというハムをつまみながら
海を見てビールを飲む。
海辺で物事を学び考えるという贅沢な時間を過ごして
18時からいつもの焼き鳥屋「大勝」さんのカウンターでよく飲む。
大勝で流れる歌がいつも素敵だ。
そして、消化不良を起こしたままの脳みそで山中に戻る。
また考える。ここの土地で、考え、想う。
*
ぼくはこれまで、そういう本もたくさん読んできた。
読んだらすぐにわかったような気になり、
でも一週間もすれば忘れてしまうような本。
明日のためにだけ必要で、それが済んだら、
邪魔にしかならないような本。
「サルでもわかる」とか、「一日で身につく」というのは、
ぼくにとって本である意味がなかった。
そんな知識は、スマートフォンでじゅうぶん事足りる。
それよりも、一回読んだだけではわからないけれど、
ずっと心に残る本。
友人に話したくなるけど、上手く伝えられなくて、
「とにかく読んでみてよ」としかいえない本。
ぼくの孤独な時代を支えてくれた大切な本。
ぼくが死んだあとも残る、物としての本。
そういう本をぼくはつくりたかったし、
もし、つくることができたら、
ぼくの仕事はずっと続いていくはずなのだ、と信じた。
(島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』新潮社)
世間を騒がせるようなベストセラーが出たあとには、
雨後の竹の子のように、
似たような本が書店の一角を埋め尽くす。
けれど、うちのような小さな出版社が
そうした仕事に手を染めたら、終わりだろう。
それはだれかのための仕事ではなく、
たんに浅く広くお金を集めるための仕事だ。
そうした本を出すことは、
短期的な資金繰りの役には立つかもしれないが、
仕事を長く続けていくことを目的とした場合には、
マイナスにしかならないだろう。
お客さんはいつでも、
その会社の最新の仕事をとおして、その会社の価値を知る。
意思があれば、続くというのではない。
けれど、意思がなければ、
いつの間にか遠くへと流されてしまう。
安直な方へ。
抽象的な方へ。
より大きな声のする方へ。
それらが悪いとは思わない。
けれど、小さな仕事を長く続けるための
コツのようなものがあるとすれば、
それは手間暇のかかった、
具体的で、小さな声によりそったものだろう。
手間暇をかけずにつくった本は売れない。
どんなに表面をきれいに仕立ててみても、
そこには決定的になにかが足りない。
それよりも、不安に思いながら、
これでいいのだろうかと迷い、
ギリギリまで試行錯誤した本のほうが読者に届く。
不思議だが、
ものづくりとはそういうことなのだ、と思う。
読書というものは、すぐに役に立つものではないし、
毎日の仕事を直接助けてくれるものではないかもしれない。
でもそれでも、読書という行為には価値がある。
人は本を読みながら、いつでも、
頭の片隅で違うことを思い出している。
江戸時代の話を読んでも、遠いアメリカの話を読んでも、
いつでも自分の身近なことをとおして、
そこに書いてあることを理解しようとしている。
本を読むということは、現実逃避ではなく、
身の回りのことを改めて考えるということだ。
自分のよく知る人のことを考え、
忘れていた人のことを思い出すということだ。
世の中にはわからないことや不条理なことが多々あるけれど、
そういうときは、ただただ、長い時間をかけて考えるしかない。
思い出すしかない。
本はその時間を与えてくれる。
ぼくたちに不足している語彙や文脈を補い、
それらを暗い闇を照らすランプとして、
日々の慌ただしい暮らしのなかで忘れていたことを、
たくさん思い出させてくれる。
ぼくが本屋さんが好きで、本が好きなのは、
それらが憂鬱であったぼくの心を支えてくれたからだ。
それらが強い者の味方ではなく、
弱者の側に立って、ぼくの心を励まし、
こんな生き方や考え方もあるよ、と粘り強く教えてくれたからだ。
それは本だけではない。
音楽や映画やアニメーション。
喫茶店や中古レコード屋さんや映画館。
こうしたものは、人生を支えてくれる。
それは既に力ある人たちの権力を補うものではなくて、
そうでない人たちの毎日を支える。
それらは特効薬のような効果はないかもしれないが、
本ならば一冊の本を読み終える時間を、
映画ならば一本の映画を観るという豊かな時間を、
喫茶店であれば一杯のコーヒーを飲む時間を提供するものとして、
読むもの、観るものに、夢を与える。
それは、夢を叶えるという意味での夢ではなくて、
日常とは異なる世界で時間を過ごすという意味での、
文字通り、夢を見る時間だ。
たいせつなのは、待つことだ。
自分がつくったものを、読者を信じて、
できるだけ長いあいだ待つこと。
自分がつくった商品の価値を信頼すること。
自分の仕事をいたずらに短期決戦の場に持ち込まず、
五年、一〇年という長いスパンで自分の仕事をみること。
会社をはじめる勇気と、結果が出るのを待つ勇気があるとすれば、
後者のほうがはるかに難しい。
たとえば、発売したばかりの自社の本の売り上げが芳しくないとき、
ぼくは本がもっと売れるよう、イベントを企画したり、
SNSの投稿を増やしたりすることをひたすらに考える。
けれど、よくよく考えてみると、
それらが大きな効果をもたらすとも思えない。
むしろ、そうした短期的な戦術に慣れてしまうことによって、
自分の仕事の時間感覚が変質してしまうことをおそれる。
古くてあたらしい仕事島田 潤一郎/新潮社
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ガイア。
http://tsunagou.exblog.jp/33707679/
2024-03-07T06:41:00+09:00
2024-03-07T07:06:12+09:00
2024-03-07T06:41:44+09:00
907011
未分類
興味の対象も含めて、とにかく我が事がその場その場で第一優先で、
他者を想う行動などは後回しにしてしまう。
話しを聞く場面にせよ、頭のなかで思うことは
自分の学び、自分の知識になりそうだ、なっているようだ
という利己的な確認だ。
まず「私」がある。
態度も考え方も根本から悔い改めよと
頭のどこかで他人のような声がして
聴覚では感じられても芯までは届かない。
地頭の部分で利己的な根本が度台としてしっかりあるので
これは簡単には治らないだろうと諦めている節もある。
職業の幅までカットするほどのことなのか
我ながら謎ではあるけど、でもそれは
就職活動で面接に何度も落ち続けながら
「一生勤めたい仕事がない」と感じた自分の結論の一つでもある。結論の一つではあるけど、時間が経てば
また節操なく自分の考え方は変わるのだとも思う。
昨晩、認知症への寄り添い方を特集した
「ガイアの夜明け」をセガレと見ながら
そんなことを考えていた。
素晴らしい考えを持った人たちが登場して
その考え方のあまりの差異に感嘆した。
がしかし、途中から意識が離れて完全に違うことを考えだしていて、
「はっ!」と気付いたら
妄想のなかで、自分がグループホームにいて
でも集団行動のなかで心を閉ざして
孤立しそうな想像をしていた。
妄想老後。
人生が四度あれば、違うこともしてみたいが、
人生が一度きりであれば、
ぼくはいまの仕事をできるだけ長く続けたい。
それくらい、ぼくはいまの自分の仕事が好きだ。
大好きだ。
(島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』新潮社)
本というものは、果たして、
一対一の手紙に似ているのか、
一対複数の手紙に似ているのか、
どちらだろうか、と思う。
ふつうに考えれば、
一対複数の手紙なのだろうが、
ぼくは、一対一の手紙のような本をつくりたいと願う。
具体的な読者の顔を想像し、
よく知る書店員さんひとりひとりを思いながらつくる本。
親密で、私信のような本。
仕事もまた同じ。
一対一の関係でしか伝えられないことがある。
効率的に、合理的に仕事を進めようと思えば思うほど、
ひとりひとりの個人の顔が見えなくなってくる。
ぼくが求職情報誌を読んで暗い気持ちになったのは、
仕事を探していた過去の日々が思い出したくもないくらいに辛かったからでもあるが、
そこに紹介されている職種が、驚くくらいに少なかったからでもある。
ぼくはコンビニで働くことも好きだし、介護職にも興味がある。
必要とあらば、アマゾンの商品を配達する日々を送ることも厭わない。
しかし本音をいえば、世の中の仕事はもっと多種多様であるべきだ、と思う。
ぼくが学生だったころと比べて、求職情報誌に載っている職種が減ってしまったのは、
さまざまな仕事の場所と機会を提供していた中小企業が淘汰され、
あるいは苦境にあることと無関係ではない。
そうした現状を「経済構造の変化」という言葉だけで捉えるのは十分ではなくて、
必要以上に苛烈な競争社会が、このような職種の現象を招いた、
と考えるほうがぼくの実感に合う。
淘汰された企業を「努力不足」という人もいるが、
会社を経営している身からすると、それだけじゃないんだよ、と弁護もしたくなる。
どれだけ努力しても、どうにもならないことは世の中にたくさんある。
ぼくは、こうしたあらゆる巨大な資本から逃れて、
自分の仕事の場所をつくりたい、と願う。
幸い、その見本はぼくのまわりにたくさんある。
ぼくの髪を長年切ってくれた美容室を見ればいい。
近所の中華料理屋さんを見ればいい。
駅前の豆腐屋さんを見ればいい。
古本屋さんを見ればいい。
ぼくの仕事は本質的に、
彼らとなにひとつ変わらない。
これまで夏葉社の本を買ってくれたお客さんや、
目の前のお客さんを信じて、本をつくる。
彼らが、いい、と思ってくれれば、
ぼくの仕事は続いていくし、
これくらいでいいだろう、と
手を抜きはじめたなら、やがて食い扶持を失うだろう。
ぼくの仕事は、いつまでたっても安定とはほど遠い。
日々、試行錯誤だ。
それでも一〇年というあいだ、仕事を続けてこられたのは、
これまでの仕事が具体的であったからだと思う。
そういう社会を生きにくいと思っている人たちがいる。
彼らはゆっくりと生活をしたいし、
自分のペースで物事を考えたいし、
仕事はできるだけコツコツとやりたい。
それはつまり、ぼくのことだ。
ぼくの友人たちのことだ。
彼らは特別ななにかを要求しない。
子どものころから親と先生にいわれたことをきちんとやり、
社会に出たら出たで、会社にいわれたとおりの仕事をきちんとこなす。
彼らに、もっと会議で発言してください、とか、
あたらしいイノベーションを起こすための企画を考えてください、
とかいう人たちの気が知れない。
彼らには彼らの個性があり、
ぼくらにはぼくらの持ち分がある。
そういうものを低く見積もったり、損なったり、
壊したりするような風潮があるのだとすれば、
そういう流れに抗う存在として、本はあるし、
音楽はあるし、小さな店はある。
大きな声は要らない。
感じのいい、流通しやすい言葉も要らない。
それよりも、個人的な声を聴きたい。
だれも「いいね!」を押さないような小さな声を起点に、
ぼくは自分の仕事をはじめたい。
ぼくは本屋さんのある町に住みたいし、
古本屋さんのある町に住みたいし、
喫茶点のある町に住みたい。
できれば、そこには小さな映画館もあってほしいし、
チャーハンが六〇〇円くらいで食べられる中華料理屋さんもあってほしいし、
チェーン店のようなコーヒー屋さんもあってほしい。
コーヒー一杯に五〇〇円を出せるほどお金に余裕がないとき、
二二〇円のコーヒーはぼくの生活を助けてくれる。
そうしたひとりひとりの希望が町をつくるのだとすれば、
できることはたくさんある。
応援しているお店でお金を払い、
取り寄せられるものはそのお店にお願いして、
商品が到着するのをのんびりと待つ。
お金をどこに使うかによって、
その町の景色は少しずつ変わっていく。
自分から見たら「最前線」に当たる一人を
支援することにつながる仕事も、またある。
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アグリパス、募集中。
http://tsunagou.exblog.jp/33705800/
2024-03-06T06:16:00+09:00
2024-03-06T07:54:36+09:00
2024-03-06T06:16:45+09:00
907011
未分類
今年も継続して募集します。
是非。
昨日、イナカレッジカネコさんを囲んでミーティングをした。
アグリパスの運営について(要検討)、
ワークライスの継続について、
そのなかで企業研修的な受け入れをどう対処するか等々。
やってみなければわからないものも多々あれど
問題は解決の糸口だし
問題というよりは現象をしっかり見つめていきたいと思う。
問題という名の雪だるまみたいなものが
その都度都度に目の前に現れるから、
その雪だるまをよいしょーと押しながら
できるだけ前へと転がしたいと思っている。
短い間に大量生産をすると、
すぐに供給過多に陥って飽きられてしまう。
長い目で見ればその絶対量は多いとは言えない。
けれど一つのデザインを長期間に渡って作るという仕事は、
長い目で見れば大量に生産していることになる。
私たちはそうした仕事を手掛けたい。
それは工場にとっても良いことだし、
私たちのデザインが長く使われることにもなる。
10年後も100年後も作り続けているという意味での
大量生産であれば、それは私たちの目指す姿だ。
(ミナ ペルホネン・皆川明さんの言葉
『誰がアパレルを殺すのか』杉原淳一、染原睦美著・日経BP社)
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ここでやれば好い。
http://tsunagou.exblog.jp/33704687/
2024-03-05T06:18:00+09:00
2024-03-05T07:07:45+09:00
2024-03-05T06:18:29+09:00
907011
未分類
月1,2回のパトロールをする
「鳥獣保護管理員」という仕事を頼まれて
先週研修に参加して昨日簡単な面接を受けてきた。
上半期は月1日4時間程度、
猟期に入る下半期は2日ずつ、
その他ケモノが現れた際などには
その集落に出向いて情報収集をするという
(たぶん)気楽な仕事だ。
天気次第とか好きな日にできるのが良い。
月6400円~1万5千円くらい。
自分の「半X」はこういった農業に関係してそうなものを
いくつか組み合わせている。
ミツタカ先輩から引き継いだNOSAIの「予察調査」や、
ウケシゲさんが長いことやっていた北陸農政局の田んぼの調査員などだ。
高柳の直接支払い交付金の広域事務局のお手伝いもしている。
いずれも超非常勤で空いた時間にできるように組み合わせている。
考えてみると、自治会長というのもそうだ。
集落に居る方が事足りる。
自分が農家として暮らしていたいという想いがあって
山中に引っ越してきて、田んぼをやって
だから、集落に居られる時間が圧倒的に多い。
20年以上前に新潟市で渋滞に巻き込まれ続けていたときから
自分はどう生きるのかなとぼんやり考えていたことに対する
一つの答えだとも思う。
自分の家から半径数キロを循環するように働きたい暮らしたい
というのがまずあって、
だからこそ集落の仕事も請けることができる。
いまここに居るのは
長岡の農業体験施設で働いて
毎日気楽におもしろがっていた反面、
「もっと永く関われる『自分の土』がほしい」と
気付き出した末の選択でもある。
隣町が見えるくらいまったく平坦な町に育って
その風景を退屈に感じていた反動か、
田舎の農家さんやコミュニティを見たときに
農山漁村文化に対する憧れが湧いていた。
今も何を会得できたのかまったく自信もないし
人に自慢できることも無い。
自分の不器用さゆえに継承できずにいることの多さに目眩がする。
自活力なんてぜんぜん身についてないじゃないですかと悶々とする。
人は妙なもので、環境を変える選択肢を前にすると
「幻」を想いがちだ。
自分も桃源郷のような「幻村」を想い続けてきた。
偶然ご縁があって山中という集落に自分は暮らして居るけど、
暮らしながら、あらためて、
どこの集落も、どれほど遠くの地域であっても、
その豊かさや、過剰縮小を含めた現状は
相似形で、まあだいたい似たり寄ったりだなあと感じている。
どこにたとえ住んだとしても、
自分という人間はさほど変わらない進展をしたのだろうと思う。
学んで生きて、その時々で自分の弱さにつまづいたり。
だから、これまでのように
つまづくたびに
「環境を変えたい」
「あっちの選択肢の方がより豊かそうだ」
「生きづらい自分にはより合った環境がある」
などと隣の芝生を眺めても、
結局、自分の弱さを含めた人間性から逃れることなどはまったくの幻想である。
つまりは、どこに移動しようと、同じことを繰り返すだけだと
老いながら、今は思うようになった。
何度移住をしようが、自分にとっての問題も現象も
大差なく変わりはないのだ。付き纏う。
ならば、ここでやれば好い。
やれれば好いと思うようになった。
苦手な物事は絶えずあるし、面倒くさいなあと思ったり
小さな喜怒哀楽、毎日の一喜一憂はどこで何をしようが付き纏う。
ワタシの心身は波が激しいので
間違いなくこれからもその波に合わせて休んだり踏ん張ったり
自分に都合よくテキトーに生きるのだと思う。
と、静かな朝の時間を過ごしながら考えたり
自分の考えに詰まったりする。
自己肯定なしには生きることはできない。
話しは戻って、
自分の半X仕事(バイト)は、同じように農村で暮らしだす若者に
一つずつ手渡ししたい。
そういう人たちと会える瞬間を自分はずっと待っている。
本を熱心に読む人の数は、
往時と比べてもそんなに減ってはいないだろう。
けれど、本や雑誌を暇つぶしの選択肢のひとつとして
捉えていたような人たちの多くは、
スマートフォンに移行してしまった。
彼らはそこでニュースを見るし、
動画を見るし、買い物をする。
インターネット上ではすべてが数値化されていて、
どの店がもっとも安く、
どの出品者がもっとも高い評価を得ているかが、
瞬時にわかるようになっている。
そうした便利さが社会の隅々にまで行き届いた時代のなかで、
個人店一店がどれだけ努力したところで、限界がある。
それは、本屋さんだけではない。
CD屋さんも、魚屋さんも、八百屋さんも、
町からなくなった。
まず、価格競争のなかに放り込まれていた店が、
次々と町から消えた。
そのぶん、いろんなものが昔より安く買えるようになったし、
かんたんに手に入らなかったものが、
注文したあくる日に自宅のポストに届くようになった。
けれど、その代わり、仕事の選択肢が減った。
(島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』新潮社)
古くてあたらしい仕事島田 潤一郎/新潮社<三十三歳で、「夏葉社」という出版社を立ち上げた。 文芸書の刊行を中心とした、とても地味な出版社。 従業員はぼくひとり。 編集も、営業も、事務も、発送作業も、経理も、ぜんぶひとり。>
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雪ノオト。
http://tsunagou.exblog.jp/33703693/
2024-03-04T06:16:00+09:00
2024-03-04T18:40:16+09:00
2024-03-04T06:16:33+09:00
907011
未分類
無音のように感じられて
雪に降られながらしばらくあたりを眺める。
しかしこれはこれで
降る雪の音だけが鳴っているのだなとも思う。
宙ぶらりんのまま
特別に何をするでもなく過ごした週末だった。
予定のないことはとても贅沢だ。
日が射せば木の枝に積もった雪が
とけて水雪になって落ちてくる。
空になった木の頭々にふたたび雪が乗りだす。
薪を燃やしてやかんにお湯を沸かして
昨日買い足したコーヒーの豆を摺ってお湯をいれる。喫茶。
セガレは久々に創作意欲が湧いたようで
昨日は「ゆったり」という漫画を描いていた。
「ゆ」にはネコが、「り」には鶏が
象形文字のように模されていた。
画力は変わらないもののそのアイデアがおもしろいなあと感心した。
たくさん描いてほしいと思う。
一人出版社「夏葉社」の島田潤一郎さんの
『古くてあたらしい仕事』を読む。
出版業にも経営にも疎い自分にとって
ここにある文章は優しくて芯のある
丁寧で熱い仕事論に感じる。
社会ではチームで仕事をしているようでいて
しかしながら一人で多くの仮説を考え
取捨選択をして実行、実験をする。
雪が降った分だけ外は青く明るくなり始め、
また同じことを思う。
雪が音を吸収して無音のように感じるがしかし
これは雪が降る音が大きく鳴っているのだ。
時間空間を越えながら雪が降る。
現実に流れる時間とは別の、
もうひとつの肥沃な時間を心のなかにもつことができれば、
日々はにわかにその色を取り戻す。
本を読むことは、
音楽に耳を澄ませることは、
テレビの前でスポーツに熱中することは、
現実逃避なのではない。
その世界をとおして、違う角度から、
もう一度現実を見つめ直すのだ。
あるいは、そうした虚構のフィルターをとおして、
悲しみやつらいことを時間をかけて
自分なりに理解するのだ。
必要なのは、知性ではなく、ノウハウでもなく、
長い時間だ。
現実に流れる時間とは異なる時間を、
自分以外のどこかに求めること。
そうすることで、生きることはだいぶ楽になる。
素晴らしい作品は、
いつまでも心のなかから消えず、
それは内側から生活するものを支える。
(島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』新潮社)
ときどき無性に喫茶をしにどこかに出て行きたくなる。
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写活『ラッシュライフ』。
http://tsunagou.exblog.jp/33702739/
2024-03-03T10:21:00+09:00
2024-03-03T20:37:35+09:00
2024-03-03T10:21:55+09:00
907011
未分類
不景気、不景気と騒いでいるがな、
これだけ長い間不景気なんだ、
それがこの国の標準の状態なんだろう。
子供がテストで一度満点を取ったからと言って、
その後五十点程度しか取っていなければ、
その子の実力は五十点だろ。違うか?
この経済状態だってずっと続いてればそれが普通なんだ。
昔のまぐれ当たりを待ちつづけている馬鹿ばかりの国に先はない。
(伊坂幸太郎『ラッシュライフ』)
「『オリジナルな生き方なんてできるわけがない』
私にそう言った」
「そうだったか?」
「世の中にはルートばかりが溢れている、とね。そう言ったよ。
人生という道には、標識と地図ばかりがあるのだ、と。
道をはずれるための道まである。
森に入っても標識は立っている。
自分を見詰め直すために旅に出るのであれば、
そのための本だってある。
浮浪者になるためのルートだって用意されている。」
「俺は昔から、逃げてばかりだよ」黒澤は笑う。
「それにもう、抵抗するのはやめた」
「抵抗?」
「人生に抵抗するのはやめた。
世の中には大きな流れがあって、それに逆らっても
結局のところ押し流されてしまうものなんだ。
巨大な力で生かされていることを理解すれば怖いものなどない。
逃げることも必要ない。
俺たちは自分の意思と選択で生きていると思っていても、
実際は『生かされている』んだ。そうだろう?」
「それは君が学生時代に嫌っていた、『宗教』じゃないのかい」
「違うよ。人生は道じゃないと、そう思うことにしただけだ」
「道じゃない?」
「海だよ」
私憤でけっこう、私怨でけっこうだ。
公的な理由で行われる戦争や内紛に比べれば
よほど健全ではないか、とさえ感じた。
蟻や蜂は自分たちの巣や集団の維持のためには闘うが、
自分自身の恨みのために相手を倒すことはない。
個人的な理由による復讐は、
よほど人間らしいではないか、と豊田は思った。
人間なんてなおさらだよ。
何十年も同じ生活を繰り返し、同じ仕事を続けているんだ。
原始生物でも嫌になってしまう、その延々と続く退屈を、
人はどうやって納得しているか知っているか?
『人生っていうのはそういうものだ』とな、
みんなそう自分に言い聞かせているんだよ。
それで奇妙にも納得しているんだ。変なものだ。
人生の何が分かって、
そんなことを断定できるのか俺には不可解だよ
人生にプロフェッショナルがいるわけがない。
まあ、時には自分が人生のプロであるかのような
知った顔をした奴もいるがね、
とにかく実際には全員がアマチュアで、新人だ
「いいか、嫌なことだとか、
悩み事だとか、気になることがあるだろ。
そういうのは考えなきゃいいんだよ。
そういうのはよ、頭で考えるから深刻になるんだ。
胸にある時はもっと漠然とした気分なんだよ。
それが頭で考えるからまずいんだ」
河原崎の胸に、抑えきれない疑問が湧き上がっている。
それが頭に言葉となって現われるのが怖かった。
早く外に放出しなければ、と焦った。
父がバットを振り回したように、
自分は鉛筆で紙に絵を描きつづけなければいけない。
そうしないと、
自分の内にある疑問と向き合うこととなってしまう。
スケッチブックを再度開く。
塚本が、河原崎に何か言ったが、耳には入らない。
スケッチブックを捲り、足をデッサンする。
黙々と鉛筆を走らせた。
何も考えず、置かれた題材を次々と描きとめていく。
鋸の音がしばらくの間、続く。
ピアノが美しいメロディを鳴らしている。
隣の部屋で、ボブ・ディランが歌っている。
河原崎の動かす鉛筆の音はそれらの音と混ざり合う。
セッションでも行っている気がしていた。
ラッシュライフ(新潮文庫)伊坂幸太郎/新潮社
群像劇というのは、
それぞれ別の人生を歩んでいた人間たちが
劇的に後半で交錯する場合もあるし、
途中で交錯しつつもまた己が人生に戻り、
それぞれの道を歩む場合もある。
本書はどちらかというと後者で、
そのスタイルを踏襲しているけれど、
ただ作者の狙いは交錯のみにあるのではなく、
単行本のときの帯の言葉を使うなら、
五つの物語が”一枚の壮大な騙し絵”として
収斂するところにある。
それまでバラバラに進んでいた人物たちの物語、
読者が頭のなかで組み立てていた物語が、
終盤になって、綺麗に解体され、
鮮やかに再構築されるのである。
(「解説」池上冬樹)
”小説でしか味わえない物語、
文章でしか表現できない
映像よりも映像らしい世界を創っていきたい”
という強い決意表明そのままに、小説の要素が充実している。
(同)
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冬戻る。
http://tsunagou.exblog.jp/33701998/
2024-03-02T15:55:00+09:00
2024-03-02T16:33:22+09:00
2024-03-02T15:55:55+09:00
907011
未分類
ガクを連れてかんじきを履いて道を踏む。どこに道をつけるかは自由だ。
玄関を出てぱっと前を向くと雪と木と空はきれいなものだなあと眺める。
自由か不自由か、それが問題だ。
玄関の反対側、南側からは集落の2,3戸と除雪道、上にブナ林が見える。そこに居て立ち尽くす者だけが感受する自然の音だけの空間。空間は往還する。
昨日、確定申告の入力を11月末まで終えてみてあと一ヶ月だけを残して今日はふたたびやる気がしない。「今日は仕事をしない日だ。 何もしない日だ」と決めてメリハリというものをわざとつけてやればいいものだろうけどなんとなく続きをやるようなやらないような宙ぶらりんで過ごす。横になっても眠いけど暇だ。
薪ストーブで銀杏を炒る。コーヒー豆が切れる。
除雪が来るので公民館に置きっぱなしだった車を集落入口の共同駐車場にずらす。
荷台に乗せて走るとガクは全自動雪払い機となり軽トラをきれいにしてくれた。
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渚の思考から見る高柳町。
http://tsunagou.exblog.jp/33700528/
2024-03-01T06:31:00+09:00
2024-03-01T08:08:23+09:00
2024-03-01T06:31:43+09:00
907011
未分類
関原さんを追っかけてもう10数年になる。
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サボタージュ。
http://tsunagou.exblog.jp/33699357/
2024-02-29T07:06:00+09:00
2024-02-29T09:33:01+09:00
2024-02-29T07:06:42+09:00
907011
未分類
「質屋暦(しちやごよみ)」というものがある。
動画でもあると思うので聞いたことのない方は是非。
質屋との交渉が滑けいでオススメの一本です。
冒頭、太陽暦と太陰暦、
うるう年について、かなり細かくレクチャーされていて、
ワタシは何度聞いてもいまだにすべてを把握し切れていないのですが
丁寧に粘り強く?説明されています。
笑いは緊張と緩和のギャップで発生するそうです。
「うるう」の説明を聞くと、
その後の笑いの時間に一気に引き上げられていきます。
という、4年に一度の2月29日。
さぼれ、さぼれ、今日は気持ちよくさぼってみたまえ。
映画館に行け。脂っこいものを食え。人に迷惑をかけろ。
約束を破れ。変な服を着ろ。大事なものを捨ててしまえ。
帳尻合わせのような2月29日を、
いつもと違う何かでいっぱいにしよう。
(糸井重里「今日のダーリン」)
まずは落語を聴け。
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まつりおわる。
http://tsunagou.exblog.jp/33696098/
2024-02-26T06:43:00+09:00
2024-02-26T07:34:13+09:00
2024-02-26T06:43:22+09:00
907011
未分類
高柳は雪まつりの週末だった。
天気にも恵まれてにぎわっていた。
23日、閉園となる保育園が開放されて
久しぶりに中に入ってこれまでの累々たる写真などを見る。
ここも人がいっぱいでにぎやかだった。
にぎやかな場にいると眩しく感じてきて
一人踵を返して帰りたくなってしまうのが俺の陰な性格だ。
24日夜、雪まつりに行く。
かがり火にあたりながら
右手にラーメン万華さんのビール、
左手には負けじと石塚酒造さんの日本酒を持って楽しむ。
会場がじょんのび村と子ども自然王国になって
コンパクトになり、おそらく持続可能な最終形態でイベントは行われていた。
花火がパワーアップしていて楽しめた。
打ち上げ前に、
飲み干した梅チューハイの缶の捨て場を探して
ふらふらと足湯の方に行ってみると
”高柳のレオナルドダヴィンチ”と某紙で評されたカズオさんが
ポンプとヒーターで自作した足湯の前で胸を張って
一升瓶の「かめ口」を持って待ち構えていた。
顔を合わすと「オマエのコップはそれか?」と聞かれ
有無を言わさずに「かめ口」を350mlの缶いっぱいに注がれた。
祭りとは酒である、と花火を見ながらニッポン酒をなめる。
カズオさんは禅問答のように会う人会う人を捕まえ
「オマエのコップは?」と言葉少なに問うては
酒を注いでいた。
それぞれの楽しみ方があって良い。
来場者と同じように地域から参加した方が楽しむのが祭りだイベントだ。
石塚酒造さんのテントは来る人がほとんど熱燗を求めていて
カナザワ杜氏とコシバ君が燗をつけてもつけても追い付かず繁盛していた。
昨日25日。
荻ノ島のトシオさんに言われていた
「柏崎学シンポジウム」に遅刻気味で参加
(13時開始を13時半だと勘違いしていた)。
会場が変更されたこともあってとっても密な感じのする会場だった。
緊張しながら「農業を入口とした高柳での往還者づくり」
という題名で10数分話しをどうにかした。
良い経験値にはなったものの
話す仕事はいつまで経っても苦手で逃げたくなる。
現ナマはなかったが現物をもらって苦み走った面持ちで帰宅。
今日午前は高柳農業振興会の事務局ミーティング。
明日は塩沢集落のミツノブさんに頼まれて
鳥獣害巡視員?の説明会を聞きに柏崎振興局へゆく。
確定申告とか集落の支払を精算せねばならない。
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