山中記

2017年 04月 12日 ( 1 )

鶏と手づくり堆肥。

懸案事項だったうちの鶏どもの床
(鶏ふん、わら、ヌカ、米など)をやっと雪解けの野に積めた。
発酵を促すためふたたび米ぬかを混ぜ、加水しながらまた混ぜて切り返す日々。
今春の手づくり田んぼに間に合うか。

苗作りは来週あたりから作業にかかるので、
もろもろ終わって最後に6月入ってから手植えができれば良いなあと思う。
薪ストーブの灰もたまった。

家の雪割り(「歩ける道」づくり)もあとわずかで、
ようやく我が家にも車が入る(はず)。
鶏どもは小屋に近付くと、「開けろ。」と入口のガラス戸に飛び蹴りをしてくる。
新加入の5羽も気候に慣れ、よく卵を産み、
雪を食べながら雪上を渡って遠出したり、
冬眠中のカエルミミズを食べたりしている。

ヒトも鶏も一日の大半を機嫌良く過ごした昨日、満月。
マサコさんからいただいたノノバを食べて、飲む酒がうまい。


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<私の養生は医者だのみではない。食で養生なのだ。
  だから、私は「太陽があれば、国家はいらない」と考えてきた。
 大地と水と太陽が人生をかたちつくる。
 私は重農主義者だ。農業だけがまともな富をつくるのだ。
 重商主義ももちろんあっていい。
 だが、私は私の主体性として重農主義なのだ。
 これはもはや、信である。信は説明する必要はない。
 * * * 
 うちのカミさんは年をとったらもっとタンパク質をとれという。
 大きなお世話だ。人間は食べすぎて病気になってるのだ。
 不健康なものをつくり、不健康を食って病気になり、医者にいくのだ。
  健康なものとは「地産地消」だ。
 健康なものはみな、つくり手がはっきりわかり
 つくり手が責任をもって僕に手わたしてくれる。
 その責任のやりとりが重農主義という関係性に他ならない。
 重農主義とは関係性の意識化である。
 それがあきないであり、もうけなのだ。
 あきないは飽きないであり、もうけは信者である。
 飽きずにかせぎ、儲けを生みだす。
 その関係性が重農主義なのだ。
 原点だぜ。>
 (小松光一「あしたはどっちだ」農業共済新聞)





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by 907011 | 2017-04-12 05:30 | Trackback | Comments(0)