山中記

<   2009年 06月 ( 17 )   > この月の画像一覧

いいかい。

新しい活動が一つ増えた。
本業以外。

9月末から10月にまたいで、長岡駅前で4日間、
夕方立ち呑み祭りします。

遡ること12時間前。
地元の酒蔵や小売店、新たに出来る市の新庁舎、自分の所属先のNPOの理事たち。
総勢17名で会議。
「実行委員」、畑の土ぼこりつけたようなこの百姓見習いも居ていいんだろっか。

久々の市民センター。3階会議室302集合に懐かしくて思わず笑ってしまった。
一年前に働いていた空間が廊下一つ隔ててあって。
残念ながら電気消えていたけど。

濃い内容の打ち合わせ2時間。
皆、プロだと思えたし、頭数が多いから様子見に徹しようと、
思い付きを口にしないで踏ん張る2時間は消耗した。みんな、体力あるなあ。

立ち呑み。すごく賛同。心が悦んだ。
そして10月1日は「日本酒の日」。
JRはOK澄みで、あとは長岡の酒蔵17社(+1社)にどんなアプローチを描くか。
昨日来られていた酒造社長の意見が裏表なくて、すっぱりしていて気持ちよいくらいだった。

で、
「では」ということで、第二部。
ビールで喉の乾きをおさめ、そこから日本酒ナイト。
酒蔵社長の酒造りのウンチクを聴きながら、まさにその酒を注がれながら呑むニッポンシュ。
呑むまいか。
で、もらいタバコしたりしながら、
どぶろくづくりを手伝った頃の話とか、
自分の農についての考えとか、
なにを「美しい」と想うか、とか、
ひとしきり熱く語ったあと、体力と酒の限界を久々に感じ、23:00撤収。皆体力あるなあ。


昨日は休みだったけどお昼から自分畑の草取りにいったのでした。
ブヨが少なめだったので集中的にえいっとノコギリ鎌で3時間半。
ウコンも藍も胡麻もニラもカモミールも紅花も皆清々しかった。勝手に育て。

昔、よくご飯食べながらしゃべったままに
対談風記事をつらつら書かせてもらってたNAMARAの江口さんが、
しきりに、「まあ、全部、売名行為だから」って笑っていたのを思い出す。
潔く、すべては、売名行為。
最近の仕事での自分のキーワードも売名行為。
農に興味のある人が、農に触れる空間時間をつくりたい。
「やってみたい」は「やらなきゃいけない」よりも、どうやら強くて、
叶わないなあと、よく気付かされる。
そのための日常ルーチンワークにも意味を持たせたい。
一緒にやるニンゲンが楽しいことが、時として知識を越えるような気もたまにする。

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自分手帳や日経紙が気付くとまた滞ってしまっている。
今日明日30℃越えますね。
午前中は確実に毛穴から毎分数百ミリリットルのアルコール分が噴出するんでしょう。
で、ブヨがさらに寄ってたかって。

・・・明日はソーセージづくりの担当するんだった。相手はちびっ子集団。
久々の加工指導だし、ちびっ子だしで、午後にはぐったりしてるんだろうな。
空の蒼や雲や田んぼ、畑と山はどんな表情に見えるんだろう。

自分のうちの上の上の屋上で見上げる昨日の朝焼けがすごく綺麗で、
新聞そっちのけで「美しいなあ」って口にしてみた。
音化。
雪面のような雲面だった。

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どうにも頭でっかちになりそうだけど、
でも、因果と今日は炎天下で終日畑の草取り(予定)。
一雨ごとに伸びる草木。
今日は何を考えよう、何を頭蓋に再生しようか。
着の身着のままで寝てしまっていて5時起。
朝の時間がつくれなかったから、今日は種が古い。
”忘れる天才”なので引き出しが重くて引きにくいけど、
長靴履いて、えいっと畑に飛び出して、土に触れたら蘇るんだと想う。


<綺麗じゃなくたって 少しずつだっていいんだ
 この痛みをただカタチにするんだ>


”答えは空が教えてくれた”とか、”夜空を見ていたらわかった”とかいわれるけど、
それはそうだろうなあと思う。
ニュートンが林檎の実が落ちるのを見て万有引力を発見したといわれるけど、
でも、そんなニュートンの前に実を落として見せるのは、
林檎でも蜜柑でもすだちでもシークワーサーでも、
鳥の糞でも、自分の歯がぽろっと抜け落ちてでも良かったんだと思う。

そのくらいずっと考えて、すべてを懸けて想っていたんだと思う。

もうだいぶ前の文書だけど、中沢新一さんが
<観念的な思考はかならず、いったん人間を病気の状態にしてしまう。
 そこでほんものの思想家だけが、徹底的に考え抜くことをとおして、
 自分がおちいっている病気の状態から脱出しようとするのである。>
と書かれてあって、この「抜く」という言葉の貴重さを思い直した。

抜けるという状態はどういう状態なんだろう。
自分はもう長いことずーっと病気の状態のままだ。
草を抜きながら、だから、考えてみます。

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<そして、
 悪戦苦闘の末にようやく自分を縛っていた思考のシステムから自由になれたとき、
 その人の前には
 とてつもなくゆったりとした「普通」の世界が広がっているのが見えてくる。>
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by 907011 | 2009-06-26 06:47 | Trackback | Comments(4)

そのヒトの「美しい」について。


<一瞬の楽しさは 一生に値するのかな>


 * * *


先週だったか、お昼に手抜き弁当をつつきながら、
NHKの番組を眺めていたら、町工場を取材していて、
そこの職人さんが、作業場のことを指して
「”舞台”、とうちらは呼んでいるんです」と話されていて、
弁当(手抜き)つつく手を休めて、しばし感動。
「舞台」って、自分の立つ場所を呼べるだろうか。
敬意を込めて、愛して、やまずに。

考えてみたら、なぜだか、なんだかふと涙が出そうなほどになって、
午後から、「舞台、舞台」って、畑でえんえんと独りごちた。

小作人は畑で舞うのかな。
自分は、
自分の手がつくるものは、畑で舞えるのかな。


農業をする。
農業をしたい上で、いちばん大切なのは感性だと思う。
抽象的だけど、そう信じている。
信じて、やまない。
だから、好きな歌を繰り返し聞こうと思うし、
好きな人と酒も呑むし、話したいことがたくさんあるし、
若者にも刺激をもらいたいし、
絵や写真を見てはいちいち揺さぶられたり、
夕陽や雲を見ては、そこに何かを重ね見たり、
過去を振り返って美化したり、落ち込んだり、ニヤリとしたり、
この先も悪さだってするんだと思う。
日々、理想と現実の壁に頭ぶつけまくって、イライラもしている。


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この頃に想うのは、
要は、そのヒトが、
何を「美しい」と感じるかだなあ、ってもう永いことずーっとそのことばかり考えていて。

言葉づかいだって、容姿だって、取り組み方だって、
買物したり、酒呑んだりするときに無性に好む肴だって、
その個人が何を「美しい」と感じるかなんだなあとしみじみ考え続けていて。
考えて、積み重ねては、またばらばらと崩して一から考え直してみたり。


何かをふっ散らかしてでも優先したいことがあったり、
仕事さぼって道草してみたり、
明日のこともよく考えずに、会いたかったヒトと呑んだり、
風呂で一人涙したり、
それが嬉し涙なんだか悔し涙なんだか、よく自分でもわからなかったり、
こんちくしょーって帰りの車の中で打ちのめされながら、でもまた起きて畑に行ったり、
結局、そのヒトが「美しい」と想うことを、したいんだと思う。


なにかを食べて、「美味い!」と思える瞬間。
その一瞬の味覚は、
舞台や写真絵画を見て「美しい」と感じるのに似ているんじゃないだろうか。
味覚にとっての美しさ。
そういう野菜をいつかつくれたらいいなあと想う。
視覚を味覚が凌駕する瞬間だってある。

たとえば、クラシックには永く聴かれ続けるだけの背景があるのだと思うし、
レコードにはレコードの音色の美しさがあって、
デジタルでは出せない、ニンゲンの耳に心地良い音域が
アナログ版には吹き込まれているらしい。
『海の上のピアニスト』の録音シーンを彷彿。


最近、暑さ湿度のせいか、異なるものに苛々と反応しそうになる自分がいて、
その自分を少しだけ、俯瞰しようと目をつぶって、高みへ高みへ上昇して、
上から「点」になった自分を見下ろす。
居ても居なくても変わらないようなゴマ粒みたいなヒト。自分。
吹けば飛ぶような。吐いて簡単に捨てられるようなゴマ粒然。

そうしてなんとか落ち着けてなだめてみては、
そのストレッサーの言動そのものに対して、
「そのヒトは、それが”美しい”と思うからなんだな」と
無茶にでも解釈するようにしている。
まだ成功率は低いけど。


酒も、ロックンロールも、宗教も、農も、結婚も、ワガママも、言葉の選び方だって、
要は、それをそのヒトが「美しい」と想ってきっとやっていることなんだ。

だから、その彼彼女の「美し目線」に、やあやあと自分が干渉してはいけない。
その人生なりの背景があるからこその目線なのだ。

ヒトが美しいと想うモノゴトを、もう少し尊敬するヒトになりたい。


 * * *


本日モ二日酔イ。
重。

日曜日。
暑さで新人マツ君、ダウン。出勤するも返される。
代わりに、水やり当番の昨日月曜日。
負けじと自分の身体もまたよろよろしてきたので、帰りに温泉によくつからせる。
鼻歌など唄う。
そして呑んだ雨の夜の酒。
もう少し時間が欲しい。
もう仕方ないのに、切実に想う。
ヒトの背中を笑って叩けるようで居たい。
ニセの明るさでもいいから、別れ際はそう演じたい。
悲しみで花が咲くものか。


<全てを遠く追い出しては いつもの言葉で話すだろう
 今も何かを君に伝えては 何かを忘れていくのだろう

 全てを欲しがるこの僕を代わりに残していこう> (『欲望』)
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by 907011 | 2009-06-23 04:54 | Trackback | Comments(6)

「この世のすべて」。

自分がずっと小さなころ

うんざりしながら歩いたり走ったり
自転車をこいで目に飛び込んでくる範囲の風景が
「この世のすべて」だと思っていた

見渡す限り平地の田んぼの町
バスも滅多に通らなくて、夜になると道路で花火をしたり、寝っ転がれたり
駅も本屋もスーパーさえない、小さな町の記憶
「記憶」、と言葉にしてはみるものの、
思い出せる光景にいくら言葉を重ねてはみても
あのころの自分が見ていたもの、聴こえていた音、感じていたこと
暗い感受性も含めて、その記憶とこのいまの記憶は異なるもの

小さな町だから目に映る風景の変化の無さ
それが逆に、「この世のすべて」感を
子どもなりに読み取るにはちょうどよかったんだと思う

「お前はまったく手がかからない子どもだった」と母親に言われる
気付くと一人でどっかにいって勝手に時間を過ごしていたらしい

代わり映えのない風景のなかに
それでも怖さやどうにもできない非力感や厭世観がつきまとっていて
たとえば、進学と同時に、過去は過去として切り離して
まったく異なるステージに進んでいきたい
ここから抜けたい、という
退屈以外の感情も雑多に混ざっていた


犬がとても好きで
いつも犬と遊んでいた
犬を遊びに付き合わせていた
”しっぽ振るから喜んでいるんだなあ”と、雪上ですもうを教えたりされて
犬としては、つないで立たされる手を必死に甘噛みしていたのだと思う
犬にはいろんな言葉を話しかけた気がする
夕陽も朝陽もいっぱい見た
いまでも犬と暮らす志向は結婚と同じくらいの比重かもしれない

ヒトの死に触れる機会が人よりも少なかったせいか
犬の死やその直後の時間や感情の経過の方が色濃く残っている
臨終というものは何も感じられなくて
自分の目に映っている光景が、それでも脳まで届かないこともあるのだと知った
「信じられない」という言葉は後で知ったけど、それとも違うと思った

とかく小さな町の記憶
飽きることに飽きていたり
あきらめることをあきらめていたりしたんだと思う

言葉はいつも後付けでしかない。


* * *


けっこうずいぶんなオトナになって
あのころの自分と”親子”になってもなんら違和感ない歳を生きている


たくさんのヒトを傷つけたし、少しだけ傷つけられたりもした
自分の思春期にこころのバランスを崩した父親は、
いまは別次元のヒトのように、仏さまのように
ただただ脱力して無となって、いつもにこにこしていて、
たまに会うと、妙なくらい時間をゆっくりさせる力を
ああ、この人は持っているのだと気付いてはっとする

父には父の背景がある
自分には決して見えない、余程なモノを担いで生きてたんだといまは少し思える
この親にしてこの子かと、自分のこころについてはときどき遺伝子と対峙させられる

でも、そのときはそれも「この世のすべて」だと思っていた
悲劇のヒロイン然ともできなくて、
やはりどこかで、あきらめることもあきらめていた


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オトナになった自分は、
子どものころの自分がきっと想いもしてない時間を重ね、
「この世のすべて」のきっと何万倍もの距離と風景をなんとなく通り過ぎてきてしまった

大きくなった自分には
「すべて」だった「この世」が見えにくくなってしまっている
大切なことは、小さな町にいたころの小さな自分が思い出させてくれるのかもしれない

今日
これから目に映ってくる風景や時間を
この世のすべてなんだ、って少しは思っていたい
錯覚でもいいから


時間を止めることが
大きくなった自分にはできなくなったのかもしれないけど
立ち止まることもしたかったんだよなあと、そう思い出すことはできる


一つだけ、
小さいころの自分がちょこんと犬と一緒にそこに居たなら、
(俺は素敵なともだちにたくさん出逢って
 そして、ずっとそのひとたちのことが好きなんだと思う)
って、言葉にして伝えるんだろう。
間違いなく、つかんだ手を犬に甘噛みされながら。
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by 907011 | 2009-06-21 07:05 | Trackback | Comments(6)

境目。


視界全面真っ白な霧と、種々の鳥の鳴声。
栄養ドリンクと、ストレッチと、新聞の屋上4:30。
今朝は早起き志願者を2人起こすのに成功した、っぽい。
浅野次官、ぢゃなくて、
朝の時間は私的に貴重な時間。

 * * *

<何を食べようと、どんな生活をしようと優劣はない。
 多様性自体がこの世界の豊饒さであり、一方、それが危機に直面している>

”静かな時間”を殺して、優先すべき何かに向かうことが「ヒトとしての成長」なら、
その成長は私的には比較的貴重でもない。
頑固論ではあるけど、
結局、見るものや聞くもの、触れるもののその混沌や広がりを、
なるべく見失わずに、冷静に把握できるのは
自分が好きな空間、静かな時間で。
そこの先で創り、触れて、そうして広がっていく方が、
より強くて、柔らかいなあ、これはと、たまにお香など嗅いでいるとそんなことを想う。

 * * *

<「奇妙」と「普通」の境目が揺らぐような、めまいに似た感覚>

自分の「境目」という言葉への執着なのか、感覚というべきなのか、
いずれにせよ、「境目」がヒトよりもずっとぼんやりしていて、
小さい頃から、友達と帰り道に別れるとき、
なんでそれぞれのうちの屋根の下に入らなきゃいけないのかが、
心の隅まで納得して理解することができなくて。

学生のときは学生のときで、みんな大好きな者同士で家に住んだり、
就職活動(結局途中で佐渡に渡ってやめた)のときなら、
みんなで会社つくりたいなあと思ったり。
単なる逃避や依存かと自問すると、どうもそれだけじゃないなあと
10年経った自分は自答してみたり。いまだにそんなまま。

いまもそう。
誰かと別れるタイミング、別れ際が潔くない。
どうにも苦手。
好きなもの、ヒト。境目はいつも曖昧然。

 * * *

<量が質に転化する瞬間があるはず>

「毎年一年生」な農作業の量についてもそうだと思えるこの頃。
頭でっかちを壊すには、家帰ってぶっ倒れて寝てしまうくらいの圧倒的な量が要る、
・・・こともある。
昨夜も帰ってきて本能のままにご飯喰いちらかして、
気付いたらそのまま寝てしまってた。
風呂入るまでに2時間かかってしまってた。


Learn as if you will Live Forever,
Live as if you will Die Tomorrow.
(永遠に生きるかのように学べ、
 明日死ぬかのように生きろ。)

 * * *

<記憶が生きものである以上、むろん、日頃の栄養は欠かせない。>

記憶は化石じゃない。
風化する記憶と、
風化しない、させない、させたくない、その記憶との違いは何かなあと考えると、
その記憶の宿主や、その記憶に関わるヒトの、後付けの想いなんだと思う。

だから何の脈絡もない日常が、生きものとしての記憶にさらなる刺激を加えて、
呼び起こしたり、揺さぶったり、膨らましたり。
記憶のクリエイション。


新聞一つでもずいぶんな種が散りばめられている。
あなどれず、日経日曜。
またやってくるなあ日曜日。予想気温30℃。
日経日曜と農の作業量自体はこの頃少し相性が悪めで、
両者の媒酌人はぽりぽりと頭を掻き、こりこりとラムネなど食む。


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<そしてきっといちばんすきなものをみつける
 みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる>
  (谷川俊太郎「さようなら」)
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by 907011 | 2009-06-19 07:09 | Trackback | Comments(0)

カツブシナイト。

やっぱり湯船つからんと、身体の疲れは取れにくいのかも。
布団のなかで身体がいやだいやだと抵抗を試みる4:00。
脳みそは起きよう起きよう起きようと、起こる空中分解。
で、起こるべくして起きる。
朝は脳が主導。昼は身体。夜は交雑して、たぶんそれでもってまた朝になる。


昨日残業していたら、加工の師匠におもむろに、
「練習してみて」と鰹節と削り節マシーン(与板のかんな)を預かった。
唐突すぎてあわあわしながら、気付くとウオロクで豆腐と焼酎をかごに入れ、
逃げ隠れるようにアパートに一目散に退散。

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なぜ逃げ隠れようとするのかは別の議論として、
とにもかくにも鰹節。
かんなの刃の角度調整のアンバイなのか、
そうスルッとは出なくておがくずばかり。
おぼろ豆腐とおぼろカツブシで冷奴。


山の麓の職場では「手作り豆腐」も体験メニューにあって、
俺も昨冬に二回くらいお手伝いさせてもらいましたが、
なかなかに難しくて、硬い木綿豆腐になってしまってました。
豆乳へのにがりのトウニュウが鍵。
で、深まる愛着。

今年は自分豆もとれるし、
これで醤油と鰹節とかんなをつくれたら、手作り冷奴だなあなどとぼんやり考える。
カツオ、釣らねば。
酒、呑まねば。


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物心つき出した頃からアルコールなナニガシカを口にしていた気がしますが、
振り返ると、酒で広がる自分の”ご縁”の多さ深さには
ときどき我ながら「はっ」として、
正座のまま3歩飛び下がって土下座体勢をとるくらいに、
スロウな織物のような多様な人付き合いが綯い交ぜされてきました。
ご縁、感謝。

腹が痛くなるくらい、ただ笑った酒。
悔しいのと悲しいのとで何にも言葉が出てこない酒。
自分を酔わせる為に酔ったり、
酔いたくない夜だけど、結局酔っぱらってしまったり。

泥酔しては次々にものを無くして、翌朝に絶望的な心境になる繰り返し。
スーツの上着を捨てたり、財布ごと鞄をホームレス風の方に手渡したり、
「こんなのが悪いんだ」と携帯電話を投げたり、
鍵を落っことして家に帰れずに冬の資材置き場で朝を迎えたり。
自分の手の届かなそうなところにあるスイッチが突然入って暴言吐いたり。

その度になんだかんだすったもんだでも、笑ってくれた呑み友達。
オトコでもオンナでも誰かと絆を深める時季には、いつも酒がありました。
「自分が一番バカだと思えばそれでいいの」と赤塚不二夫さんは笑ってたなあ。


短い時間から永く久しい時間へ。
酒は燃料。
酒と農とは相性が良い。


 * * *


音楽や絵画で、ドラッグを用いられた状況で創られた作品に出くわすと、
そこの「不健全さ」に密かに魅せられる「健全な」自分らの奇妙さを思う。
精神の一線を越えた先のフィールドでの表現活動。
法の一線を越えるつもりはもちろんないけど、(酒は合法に呑もう)
異端呼ばわりされる宗教や違法ドラッグが、
健全視されるニンゲンの表現に及ぼす影響には興味津々。
ドラッグは違法だから、それに変わる合法な欠片を探すのが
嗜好や趣味というものかもしれない。
味わって活かされること。

<生かし、生かされている>


ファーマーズハイと酒と表現。
自分の身体を通した実験。
自分の身体を畑にしては、考えの種をばらまいて、
感じる、一日のなかの四季。
夜の収穫祭が自分の晩酌かもしれない、などと都合良く言葉を編集することが得意。

とかく夜はどっぷり更けて、また何も知らない無邪気な顔をしれっと浮かべては、
屋上で考えの種を刈り取っては播くんです。
昼は水やり、草取り、支柱立てのような時間かも。


永く遠くにあるモノゴトや誰か。
呑めばわかるさ。


<一時間幸せになりたければ 酒を飲みなさい
 三日間幸せになりたければ 結婚をしなさい
 八日間幸せになりたければ 豚を殺して食べなさい
 永遠に幸せになりたければ 釣りを覚えなさい>
  (オーサカのネーサンからの葉書にあった「中国のことわざ」より)
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by 907011 | 2009-06-18 05:36 | Trackback | Comments(2)

今日/1人で石拾いと捨てるのを5時間30分してた間に考えたこと。

読む言葉

書く言葉

話す言葉


一番先に手放すのはどれだろうと考えてた

最後に残したいのはどれだろう、っていうのも




最後に残るのは たぶん

話す言葉ではないなあと思った。
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by 907011 | 2009-06-17 20:26 | Trackback | Comments(2)

無謬。

「自分はムビュウだと考える」。

わかってるよ。
”わかっている”という思い込み。
だから、わかっていない。

出しゃばって知ったかぶりして、邪魔するのもまた自分。
自分が鎮まる「居場所」や、行き着きたい「先」が、
あとの自分を邪魔するものにならないように。


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<世界は、知らないことと知っていることで満たされている。
 しかし、知っていることのなかに、
 『知らないことがある』ということが含まれていないことが多い。>

 * * *

どれだけの記憶を重ねたら、ヒトは、自分は、
「知った」ことになるのか。
無知は罪だろと言われれば、
その罪から身を隠せるニンゲンなんて居るの、と聴き返したくもなる。

どれほどの哀しみや悦びを重ねれば、自分は、
自分のことを知ることが、少しでも、わかることが
できるんだろう。

自分について知らないことと知っていることに、”境目”があるんだろうか。
俺は自分のことがいちばんわからないまま暮らしている。





**************************
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by 907011 | 2009-06-17 07:59 | Trackback | Comments(6)

雫。

<胸に手を当てて思いいたせば、
 私たちは常に何らかの役割(人格)を自らに振って、
 その場その場を生きている。

 自分とはその意味で他人なのだ。>


明日の新聞が休みという知らせに気を良くして、屋上へ。
日経紙ではあっても”文化”が目当てで、真っ先に読み始める。
作家の久間十義さんという方の上記文章が目に留った。

あ、いいなあ、と赤い線をぐにゃぐにゃと沿わせた瞬間、
ぽつんと突然雨が落ちだして、
留っていた目の先にあった、<役割>という文字の上が
ぽたりと濡れた。
濃くにじんだ雫は、闇にぽっと灯った明かりにも似ている。


空から雨は無数に降れど、
いま、この<役割>という目の先に堕ちた雫は、
どれだけの上空から、どれだけの風圧と時間とをかけ合わせて、ここに着地したんだろうか。
”着字”。

この雫が、それでも留ったままの目に映る”雫”の形になる前は、
もともとどういう水だったんだろう、などと新聞から顔を空に上げて想う。
嬉し涙か、悔し涙か、
誰かの熱燗の湯気かもしれない、
亡くなった誰かの肉体の水分だったのかもしれない。

「恵みの雨」といわれるけれど、
それは今に生きる動植物の為の単なる言葉だけではなくて、
そうした、ヒトや草木や他の動物、土、人工的なモノが形を変えたり、
なくなったりすることの”取り換え”を目に訴えることかもしれない。

そういう、物言わない物語だってあると思うし、
そっちの方がむしろ、響いて染みるもんだなあとも感じる。
読み手の数だけ、その悲しみや悦びも、
記憶の数だけ、触れた手の数だけ、
物語は生まれて、そうして紡がれていく。

この屋上があって善かった、と今日もまた思う。

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by 907011 | 2009-06-14 05:39 | Trackback | Comments(2)

種。

屋上にて朝陽と鳥と新聞と栄養ドリンク。
早起き志願の人にメールを送るAM4:55。
朝の時間は、自分にとって貴重で静かな時間。

昼の時間はやるべきこととやりたいことがわりと明確なので、
それは安定した惰性のようなもの。
夜はいろんな角度からビールが襲ってくるから、あー忙しい。
朝はそれに比べて、即興演奏のような時間。
読み物、書き物。
インプット/アウトプット。
吸って、吐くこと。

そして、昼間の考え事や夜の戯れ言や妄想の種は朝に摘んで、播いておく。
一日をそういう四季のように送られたらと想う。
自分を土にして、今の自分がその土壌でできる最大限の実験ができたらなあと想う。

<知識への投資には、常に最大の利益がついてくる>
         (ベンジャミン・フランクリン)

 * * *

昨日は炎天下でかなりハードだった。
ブヨが大量過ぎて山傘に防虫の白いネットを装着。
・・・首から上の部分が、平安貴族の女性みたいだった。

「ブヨは水が綺麗なところに出るすけな。汚れていると蚊がわく」。
どこからかわしわしと入ってくるカメムシも水が綺麗だかららしい。
土の中にミミズを見つけるような気分、少し嬉しいかも。
それにしても山のブヨは強力で、
長袖と軍手の隙間から刺されまくりの手首が、1割くらい太くなってることに、
昨日、「ろくろく」の打ち合わせをしながら気付いた。

 * * *

そんな(どんな?)「ろくろく」の若者が素敵で、
瑞々しい”伸びしろ”を感じては、いちいち感心します、長老は。
一方で、朝から夕方まで一緒の時間を過ごす、
畑の若者1名がなんだかどうにもふにゃふにゃしていて、
私的にものすごく難解な宿題。
明日、同い年のNPOスタッフと呑むのでたぶんグチも少し垂れ流すと思われる。

なるべくグチや陰口というのは言わないようにしてます。
言葉を選び、言い換えてそれを直に伝えることで、
グチは提案に、陰口は意見に変換可能だと思うから。
でも、なかなかその言葉の選び方が苦手で、だから黙然としてしまう。


同い年の朋輩とは農に関してじつによく話を重ねてきたのだけど、
最近、自分は畑に、彼は”頭脳兼手足”として企画会議から備品購入まで、
なにせ人が少ない組織だからわらわらとしていて、
すっかり歩みを止めて話しができずにいる状態。

昨日の夕方に畑に酒の話を持ってきて、
2人で要話し合いということで、NPOの方から経費を頂いた。
ちょうどNPOのボスが自然畑を見に来て、
デジカメに続いて、パソコンとプリンター、無線LANも畑作業場に整備してくれるらしい。
器、OK。

半年前の面接の時に、
帰農という「先」と、情報発信という「先」、
その二つの「先」を両立させたい、というような話をした。
した以上、ここまでお膳立てしてもらった以上は、
その皿に持てるものを表現する他にない。

「そして、それをおもしろがってくれる人たちがいる」。

体力つけねば。
酒呑まねば。

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今日も暑くなりそう。
「祈念」植樹したクルミの苗が根付いては、自然畑を見守ってくれてます。鎮守。
いつかの木陰スペースに。
ぐんぐん伸びて、少しずつその影の面積を広げていってくれるんだろう。

自分の内側にもいろんな考えの種を持って、山の畑へ。
畑内畑。
自分の身体の外と内を想う。

まず、かせごう。
土に触れよう。


<嫌なこと、痛いこと、傷つくこと、
 恥ずかしいこと、笑われること、
 が一番、自分が成長していくことだと思います。>
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by 907011 | 2009-06-13 06:50 | Trackback | Comments(2)

借景。

休肝日明けの金曜日。金の日。
善き朝。屋上で新聞を読む5:00。
今日は29℃にまで達するらしい。
気をつけよう。

昨日は「入梅」。
午前中、そのものすごい雨にばちばちと降られながら、
上下オレンジの支給雨具を着て、黙々と自然畑に初の定植。
子どもの頃からなぜかカッパ上下を着て、雨に思い切り降られるのが好きだった。
「もうどうにでもなれ」と思うと、ニンゲン、笑うものである。
泥んこ祭りと通ずるものがある。

植える前の自然畑の畝には、刈った草を敷く。
本来は持ち込まない、持ち出さない、なので、畝に生えた草を生えた場所に刈り倒すけど、
ない場合は近所の草をよっこらせとノコギリ鎌で刈って(根は残す)、畝に敷く。

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昨日、たまたま親方が枝豆救出のために自生した蕎麦群を刈っていたので、
全面的にそれを頂戴して、畝一面蕎麦だらけ。蕎麦自然畑。

オレンジカッパ3人集。
親方は草刈り機を振り、マツ君は有機畑で有機的実験、
クローバーを摘んでは苗の間さに嬉しそうに植えていた。
クローバーも豆系なので、
空気中の窒素を吸っては根っこに根粒菌として還元してくれる。

豆でもクローバーでも根っこをよく見ると、小さな粒がある。
それが根粒菌、善い奴。
草木はなかなかに奥が深い。
土の中の根っこを想ったり知ることは、
自分にとって見えない何かを考えるきっかけ。

 * * *

誰かしらの人生でも、語れる部分、あるいは知人によって語られる部分って、
その人の「見えている人生」に過ぎなくて、
その一方で、その人自身が、一人で酒呑んでぼけーっと考えたり、
イライラを人に言わないように口をつむんだり、
風呂に入って暖かいなかで涙したり、
音楽聴いたり、屋上で風に吹かれたり。

別に誰にも言うことじゃなかったり、
あえて、誰にも言わなかったり、
そういう時間や空間が、その人の「見えない人生」、
見られていない、見られない人生だと思う。

背景。
その人の背景を知らないくせに、その人をとやかく言うことは、
卑怯だから、なるべくしないようにしたい。
でも、してしまう。

 * * *

昔、取材仕事で記事を書いていた頃。
いつも〆切時になると、
一緒に深夜組になるベテラン記者さんがいて、朴訥然としていてとても素敵な方だった。

たまに夜中に集中力が切れるタイミングがお互いに重なって、そのときにふと
お茶を飲んだりラーメンすすったりしながら聴かせてもらう話がまた贅沢だった。
25歳くらいか。

今でも時々思い出すのは、辛口な記事についての話になったときに、
「アイツのここが悪いとか、敵対しているニンゲンは好き勝手言いたい放題に言うけど、
 でも、本当に悪い部分、あらためなきゃいけない部分ってのは、
 わざわざ言わなくたって、当の本人の方が一番よく自覚していることだからね」
という言葉だった。

さも知ったかのように、鬼の首でもとったかのように、
自分は手柄を示したい欲があったけど、どうもそうでもない力の抜き方があって。
変な例えになってしまうけど、腕が一流の剣客が斬ったら、
その切り口は美しいものかもなあと思う。
ずぶの素人の自分が斬っても、おそらく切り口は美しくない。
鈍。なまくら。
その見てくれをごまかそうと、ごにょごにょとさらに何かしようとするとなお乱れる。
たまに台所で美しい包丁で野菜を切っているとそんなことを思う。

「いいこと」をしない、ことが、農業でも大事。
「いい」と思って重ねるヒトの手が、育ちを狂わせてしまう。
必要なことは、いざ弱る兆候を見抜くこと、
どうしたいのか、毎日様子を見ること。
親方の言っていた「苗と話せ」って、そういうことだと気付いたのが最近。

とても、難しい。


話は戻って。
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その有機畑(長岡野菜であるところの「かぐらなんばん」)。
昨日は、かぐらなんばんと鷹の爪、巾着なす、千両なす、梨なす、ピーマンを畝に植え、
一番下方の崖に地這いのキュウリを植えた。

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比較。
自然畑。同じかぐらなんばん。
蕎麦の敷き草の中に一応ちゃんと植わっている。

ずらーっと一息に書くと、
敷き草は、遮光して雑草の発育を防ぎ、
地温の上がり過ぎを防ぎ、湿気を逃がさないことで乾燥を防ぎ、
土の下にミミズや虫を呼び、捕食し合い、土の中を有機的に循環し、
雨が落ちた時に葉っぱに泥の跳ね返りを防ぐ。
葉っぱに泥がつくとそこから病気になりやすい。
「雨の日はトマトに触るな」。

 * * *

今日はキュウリの続きからトマトの定植。
水が好きなキュウリと、太陽が好きなトマト。
緑と赤が一つの皿に並ぶのを想像しながら、今日も畑に出ようと思います。


今日考えたいこと。
・農業芸術というもの
 宿題:「美味しい」という食感は、味覚という受容器にとっての”美しさ”といえるかどうか
・座標軸というもの
 宿題:立つ畑からグーグルアース(?)みたいにどんどん上へ上へ上がっていて
    山や長岡や日本のなかにぽつんと点で生きている自分を俯瞰イメージできるかどうか
・アナログという持続性


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<カラダが喜ぶと、気持ちが落ち着いた。>
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by 907011 | 2009-06-12 06:46 | Trackback | Comments(0)