山中記

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本当に続くことか。

おととい、キャベツの葉を食べる青虫を駆除するために殺虫剤をまく。
きのう、サツマイモがつるを這わせそうな先に除草剤をまく。

利益を生み出す農業法人と似て非なるものながら、
チームの一かけらとして、やむなくな心持ちで農薬散布。

自分が選んだ末の現在とはいえ
気分が重い仕事時間の一コマ。


 * * *


理論はすべて正しい。

もし、その本人が、本気で伝えたい想いがあるのなら、
その想いはすべてその人なりに正しくて、
その想いをもつ背景を知らないままに
それを否定してはいけないんだろう。

でも、否定や論破したくなる性も
自分の頭のすみでちくちくっと感じることがある。
否定しないように、否定しないように。

とにかく事実として、農薬が食糧の安定(?)供給を支えている。
現実の後に理屈がある。

朝昼晩、自分が口にしているもの、
さかのぼって自分が選んでする買い物、
その後に自分から出るゴミのいろいろ。

・・・、と噴霧器を担ぎながら、農薬を肯定する堂々巡りな自主トレ。



でも。
実際に、自分がやってみて、
「これって本当に続くことか」、っていつも思う。


『20世紀少年』の中で、
巨大な細菌ロボットが東京の街を壊しながら細菌を振りまいて、
人を滅ぼすという場面があったけど、
噴霧器を背負って、次々にスプレーしていく自分とほとんど同じだよなあ、
滑稽な姿だなあと我ながら思った。

自分が足元の虫を殺しているつもりでも、
俯瞰したら、
その自分の頭の上にも、また何か降らせているんだろう。


 * * *


先週の仕事時間。
雨降りの中、かっぱを着て手で草取りをしていた時も
ふと、そんなことを思った。

自分が育たせたい作物があって、
それを手助けするのが農業という仕事ならば、
その字の通り、
「手」でできることが、その時の自分の現状であり、
自分の手の届くところが、その時の自分の持ち得る範囲だと思った。

自分の手にできる空間/時間があって、
それを増やしていくことが、自分なりの努力なのだろう。


ぬかるみの中での雨の日の外仕事は難儀だけど、
かっぱを着ての作業は、自分の内側に没頭しやすいので好きだ。

草を取る自分にしても、俯瞰してみれば、また妙なもんだ。
規模こそ違っても、
一方では、緑化や食糧問題があって、
こっちは目の前の野菜がだめになるからと草を根こそぎ取って、土を裸にする。

矛盾も感じるし、
そりゃあ天候も狂うわなという循環も感じる。


 * * *


その土壌環境に生えてくる草には、
それぞれ意味がある。

たとえば、
スギナは酸性度の強い土に生えるといわれる。
根っこが地下でびっしりつながっていて、
春先に1本のつくし(つくしとスギナは一体)から100万もの胞子が出される。
密生されるとなかなか手には負えない、手ごわい草。
「地獄の三丁先から生えてくる」といわれ、ジゴクグサという別名まである。

でも、地上部で枯れたスギナの葉には、
土の酸度をアルカリ性に向かわせる効能がある。
酸性土に生えて、その土を中和させてくれる、スギナなりの生きっぷり。

スギナを除草剤で除外して、
固くなった土を科学的な速効肥料ではいどーぞと偏らせて作物を作っても、
自分の中ではやっぱりつながらない。

(「否定しない」は嗚呼難しい。)


 * * *


「美の観賞能力の問題」と誰かがいっていた。

持続可能なことに魅る美。
大きなもの、形が均一にそろったもの、虫食い穴のないもの、
出荷の基準に沿わせるというのもまた、美。
それぞれあると思う。

古い建物の残る街に感じる気持ちにも似た感覚。
ビルが新たに建つことよりも、
スギナ一本の方が、「続くこと」だなあと思う。

草や虫の名前や姿かたちを細々と勉強中。
その環境にあった草や虫があらわれては生きている。



「生えたい草に、生えるなという方が無理な話だなあ」
と、この頃に俺は思います。
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by 907011 | 2010-06-03 07:08 | Trackback | Comments(8)

居ること。

水曜日
夜の街へ久々。
飲み歩く。

考え中の考え事を、それでも考え中のそのままに話せる相手が、
自分にとっての掛け替えのない人なのだろうとビール片手に思う。


居る場所で、居ること。
翌日二日酔いの頭でそんなことを考えていた。

好きなひとたちと居られる時には、
ただ、
居る場所で、居ることが感じられればそれで善い。

電波でつながっていなくとも、
自分が何をしているのか、誤解を恐れて具体的に一から十まで報告をしなくても、
ただ、「居る」というのを感じられていたら、それでいいなあと。

一緒の空間にいて、
必ずしも話し続けなくても、
近くに座ることで、居ることを感じる。

その、相手が居ることを感じている自分を、
向こうも向こうなりに感じているものだな、と
この頃に鶏たちを眺めていて思う。

鶏たちもヒトたちもおそらく、同じようなもの。
言葉はやっぱり後付けに過ぎなくて、
存在や出来事はいつも、そこにある。

理論は常に現実に従う。
「そこ」に、言葉のかわりに
ただ黙ってビールがあれば、それは素敵なことだ。


静かな今年なりに、
静かな自分なりの、スイッチがやはり静かに入った感。


 * * *


雨あがりの週末。

鶏たちを山中に里帰りさせ、
実の親とひなを対面させる。
故郷に錦。

ワラをとるついでに小屋から引っ張り出されただるまストーブでたき火。
いかなどを炙る。
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男は火が好きだ。
自分の手に負えないもの、見えないものへのあこがれと、
それを自分でコントロールしてみたいという火遊び欲求。
なんにせよ、酒がすすむ。


夜がふけて、もう一人の坊主頭が山中へたどり着く。
差し入れのビールをすみやかにいただき、ゆるやかに話す。

昼に少しだけ人の土をいじり、
こんなにゆっくりと畑ができたらいいなあと感じた。
この頃想い続けている単純な考え事/惑い。

ゆっくり草や虫を見て、その音を聞いて、土に触れていたい。

ゆっくりだけど、一日は感化に満ちている。
鳥の声も、虫の羽音も、風の音も、
そこが静かだからこそ、耳に入ってくる。
静けさは最高の贅沢だと思う。
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by 907011 | 2010-06-01 06:44 | Trackback | Comments(0)