山中記

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おぬし。

昨日。
昼からうちの横の畑で敷き草をしていたら、
玄関先にて抱卵している”お嬢”が外に出ていた。
しょうがないなあうちのお嬢さんは、と一応卵が割れてないか確認しにいったら、
段ボールのなかに青蛇がいて、6つある卵の一つにかぷっと噛み付いていらっしゃった。

家人(蛇好き)に電話をしたが、イトー家の柱として現金稼ぎ時間中につき通じず。
1分くらい、固まる。参った。たまげた。
でも、やらなきゃならぬ。

覚悟を決めて、
ゴム手袋を探してみたり、長い枝を両手に持ってみたり、
頭の中を多面体のサイコロが回り続ける。
とりあえず、生まれたばかりのヒナたちを避難させて、
ヘビ(漢字よりカタカナが親しみやすそうだ)在中の箱にふたをして外に出し、
しばらく格闘して摘出。
あっけにとられている間に、結局ふたたび家の下へと潜り込んでいった。
バックホーム。


お嬢をふたたび箱に入れてカゴでふたして、玄関から定位置の板の間に戻し、
興奮のままに家人に報告のメールを送りつけ、畑に戻る。

陽も傾いてきて、18時に流れるエーデルワイスの放送を聞いて畑を切り上げ、うちへ。

玄関の戸を開けたら、(おそらく)先ほどお会いしたばかりなのが玄関にいて、
さあもう今日は上がり酒にしようぜーと先導するかたちでうちに上がっていくのを目撃。
衝撃の光景でした。
なぜお前が俺より先にうちに帰る。
主(ぬし)なのだろうか。

いま、玄関に隣接する仏間で我らは寝ているのですが、そのベットなどの下にするすると。
しばらく葛藤した後、これは覚悟が決まらず、ふすまなどを開けたまま、問題を先送りすることにした。
ヘビが苦手なものにとって、屋内でのこの状況はだいぶつらい。
まして薄暗く古いうちなので、コードやらヒモやらが皆それに見えてしまう。

疲れたので気分転換に風呂に入り、
お嬢の箱の様子をのぞこうと、ふたを取った瞬間にお嬢が飛び出る。

飛び出すお嬢。その腹の下で卵にまたも噛み付いているヘビ。後ずさりする湯上り卵肌なワタシ。
3者3様のそれぞれの思惑が交錯し、気配を察した他の鶏も鳴き出す。
とりあえずバスタオルを干し、甚平を甚平以外の服に着替え、
また頭の中でサイコロを回し続けながら、外で格闘。


鶏はもともと爬虫類だったそうで、足を見ると確かに似ている。
なので、現在うちの群れのボスであるところの”ピヨ彦”を同席させて摘出したものの、
ピヨ彦君は逃げるばかりでまったく役に立たず。
今度はなるべく遠くに運びだしたかったが、それもかなわず、ふたたび軒下へ。
デジャブー。
幸い卵は今のところ無事です。

湿度が高いとヘビがよく出るというし、卵があるとヘビが呑みに来るとも言われたけど、
貴重な経験をさせてもらいました。
まだ何にも解決してないけど。

唯一、かぷりと卵に噛み付く姿は、少しだけかわいかった。

蛇は寸にして人を呑む。
できるだけ、ドントカモンスネーク。
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by 907011 | 2011-06-30 08:03 | Trackback | Comments(12)

新潟。

久々に新潟市ビジネスホテルにて薄型テレビに食い付き、月刊やさい通信を見る朝。

今日(昨日)のほぼ日の糸井さんの文章は素敵だった。
やりながら考えるということについて。
「馬鹿」というのは情熱的に狂った状態じゃないとなれない。
世間体が親類がという意識が頭のどっかにあるとそうそう「馬鹿」には成れない。
馬鹿という言葉は常套句に使われるが馬や鹿の仕事はニンゲンにはできないよ、あれは実際は。


昨日は5月の連休に高柳の子ども自然王国でバイトした時に知った(嫁さんはてんつくまんつながりで知ってた)、
自然出産の吉村医院さんの話を聞きに新潟に来ました。
俺は安曇野パーマカルチャーの本を読んで自然な出産に憧れを持っていたけど
場内は圧倒的にわたしナチュラリストなのという30代女性のエネルギーが強くて
軽い目眩(睡魔という悪魔)さえ覚えました。

昔がすべてではないけど、促進剤などを使わない昔ながらの出産。
妊婦さんたちがとにかくその時の間際までよう働く。
板戸拭きやら薪割りやらでスクワットにして300回におよぶ人もいるらしい。
少し前までは「ツルツルっと産まれていた」という話はかつての百姓仕事量、
とにかく何もかも日々の生活のために働いていたことが自然なお産につながっていた。
すべての方を代表した意見ではもちろんないけども、
病院で出産したヒトの「ただただ怖いものだった」という言葉がとても生々しく聞えた。

会場には王国でご一緒したからころ堂の方や自然農仲間が居た。

自分なりに百姓に近づきたいと想ってやってみることの内側にも、
できることややるべきことがたくさんあるなあと思いました。


夜は市役所近くの「わかさや」で酒。
急なお誘いに快く集まってくれた酒好き仲間ありがとうございました。
相変わらず、何も変わらず気持ちよく酔っ払わせていただきました。
懲りずにまた馬鹿話をしましょう。


こじんまりと飲むことは難しい。
つい、あの人もこの人もと身の程知らずに拡声したくなる。

こじんまりでしか話せない言葉がある。
それにしたってサシで飲む酒にはかなわない。
自分などそんなことばかりでサシで酔わないと話さないことばかりで頭の中ができている。


 * * *


この長雨でだいぶ作物を死なせてしまった。
いざ降り続けられたら畑には入れないもので、
自分の足跡さえ畑のためには邪魔になってしまう。
この時ほど自分の無力を感じることはない。
ここ2日ほどカッパを着て、ただただ畝の手前で立ち尽くして見ていた。
この植え方が、そこの敷き草が甘かったなあと山中に点在するそれぞれ小さな畑を
おろおろあわあわと自戒して歩くばかり。
自分のいい加減さに泣けてくる。そんな数日です。



温められた卵10個ほど。
うち2つが6月23日にまず孵りました。
ムツミ(623だから)と梅雨子(つゆだから)、
メスであってほしいゆえの願望ありき命名です。エゴイズムですが。
むっちゃんつゆちゃん。
むっつゆ。


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30日に8ヶ月の雄鶏二羽をしめます。
前にも書いたように、葛藤は尽きないし、飼い方についての後悔ばかり先に立ちます。
酒なしでは俺のようなニンゲンはやりきれません。
でもやるしかないんです。
肉も結局まだ食べるし。


思い切り馬鹿話をしたり泣いたりというような行為ができなかったら、
自分だってテレビに出てるような罪を犯す人と何ら変わらないなあと感じることが時としてあります。

そう、時に思い切り表現する空間や時間がないと、
”自分は充実してないのだ”と勝手に妄想して、その代償を無性に欲するんだと思います。
何か目に見える証を、早急にその場で欲しがる、やっぱり欲求なんですね。
大なり小なりそのようなものだと思う。
早急さを求めすぎると罪につながるのか、紙一重だけど、
たぶん待っている自分が思うもう少し先なんですよね、証って、果報って。
最善手を尽くして、寝て待てというくらい先のこと。


二日酔いながら今夜は地元の消防団の公民館焼肉飲み会にいきます。
即入団会見??らしいです。


昨夜飲んだ皆さんにも良い報告ができるよう、
また山中に帰って、畑に残った生き物を見て頑張ろうと思います。
雨水のことはやっぱり雨に降られなきゃわかんないです。





***************






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by 907011 | 2011-06-26 07:25 | 携帯から。 | Trackback | Comments(6)

梅雨来りなば夏遠からじ。

もうダメだー、とあきらめた日が何度もある。
自分にはもう続かない、と来た道を引き返したこともある。

何がどうしてこうなってしまったんだろう、くどくどと後悔して自分を責める朝も少なくない。
卑屈な気持ちが続くと、謙虚さや素直さを忘れてしまいがちだ。

開きかけたドアを閉めたこともある。

こんなことで悶々とするのは、この世で自分だけじゃないのかと悲観しては、
一方で、いやいや万人共通の悩みのはずだと、意識的に自分を楽観させてみたり。


でも、どうしてでしょうね。
元の鞘に結局戻るのは。

たしかにあきらめかけたのに、また道を引き返して続きを始めようとする。
けっつまずいて転んでケガもしているのに、
また立ちあがって、「まいったなあ」と笑いながら頭をポリポリかいて歩き出す。

好きなものは逃げない。
自分がそのドアを勝手に開閉しているだけのことで。
ただそこに、静かにある。
そのドアの向こうに、あるべき場所に、いつも居る。
探せば、探し続ければ、必ずあるのだ。


誰かがこんなことを言っていた。
「ある日、世の中すべてのことが信じられなくなったとしても、
 自分の好きなものや好きなヒトを、好きだなあと思えればそれでいい」って。

立ち止まりたくなったら、いつでも足を止めればいい。
少し離れてしまったなあとそう思ったなら、自分の足で近づいていけばいい。
熱くなりすぎたなら、その熱を少し冷ましてやればいい。
辛味も苦味も、すべて自分の体験をまるごと味わい楽しむための感覚の一つだと思いたい。

想いは力だ。
そのヒトの想いの力こそが、そのヒトの好きなものを持続可能にする。


 * * *


どれだけひどい二日酔いになっても懲りずに夕方にはビールが呑めてしまうのはどうしてでしょう?
という日記。
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by 907011 | 2011-06-21 04:42 | Trackback | Comments(2)

おもつらい。

運動会の翌日、わずかな時間ながら久々に成願寺に行って来た。
4月まで借りていた家の畑にニンニクなどを植えたままで、
家主さんのご厚意で収穫までそのままにしていただいている。
着いたら隣の畑の彦ぜん(屋号)さんに再会し、すぐさま野菜をたくさんいただく。

ネギがだいぶ大きくなっていたので収穫。
高柳~成願寺~高柳へと、再び移植。故郷にネギを飾る。
自家採種して、「自分のネギ」をつくる計画。
ニンニクも思った以上に成長していて、来月あたりに採ることに延長。

家主さんから”タケノコがあったらイトーさんどうぞ持っていってください”、
とメールをいただいたので2本ほど。時期が終わり目で小さめ。
と、またすぐさま彦ぜんのお母さんに追加でタケノコとぬかをいただく。
ありがたく、相変わらずもらってばっかり。

夜にお寺さんにてありがたくご飯をいただき、集まった成年部有志とお酒も少々。
自分はたかだか1年半ほど家を借りただけで、しかももう離れてしまったのに、
「お金をかけずに成願寺で式をやろう」と成年部の面々が仏前式と披露宴を企画してくれている。
当初、飲み会で発作的に盛り上がった話なので、
俺はどうにもこっ恥ずかしくて聞き流していたのですが、
お寺さん(若い住職が成年部メンバー)や、その檀家さんの着物屋さんなどの全面協力により、
紋付き袴・振袖でお寺さんで正式なものを催してくださる運びとなりました。

式自体はたぶん30分程度で、その後公民館を貸していただいて、全員倒れるまで飲み会をします。
おそらく夜は意識不明のまま公民館に雑魚寝で一泊。
いま人数など確認中ですが、来れるヒトがいたら一緒に泥酔雑魚寝しましょう。
ありがたし。


 * * *


という、また2週間前の日記。

昨日、門出でだいぶ前衛的な農業をされているキヨシさんに誘われて、
渓流釣りに連れていってもらいました。
ハヤしか釣れなかったけど、
ひじょうに贅沢な時間をいただき、ワタシいろいろ感動しました。
キヨシさんの話す言葉やモノの考え方、行動は、
変わり者の多い高柳人の中でも群を抜いて力強い。

ワサビを摘んで(香りが素晴らしい)、河に入って1時間くらいして、
ふと、キヨシさんが「あー、熊の(足跡)だな」とつぶやいた。
俺は見てもわからず。
さらに10分くらいしてから、キヨシさんが竿を入れたまま、ぼそっと「最近のだな」といった。
…、「最近のだな」とぼそっといった。

でもこのヒトなら熊が出ても五分五分くらいに渡り合えそうなのでその間に逃げようそうしよう、
などとイメトレしながら後を追う。


キヨシさんのところには様々な世代の変わり者が門をたたいて集まり、
勝手に「弟子入り」していく。
俺も昨日勝手に弟子入りした。
夜は地元の月湯女で山椒をテーマにした食べ飲み会(そのための岩魚釣りだったがハヤしか釣れず)に参加。
本日も二日酔い。

そんな贅沢な一日でしたが、河に入る前のものすごいガケでカメラを紛失。
失せもの、とうとう見つからず、予期せぬ不法投棄にだいぶ落ち込む。汚してどうする。

俺ももっと真剣に百姓に近づこう。
月湯女で飲んで、田んぼの話、もう一歩進んだ。

「本当の技術というのは、誰彼に教えても真似できないもの」とキヨシさんは話していた。

ものすごく偉大な先人たちも、じつはみんな手探りでやっている。
そうやって、先を歩いている。
その手探りの量こそがものすごく、そしてあきらめない手を持っているのだ。
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by 907011 | 2011-06-20 08:24 | Trackback | Comments(0)

運動会とぼっとん。

もう2週間も前になりますが。
5日日曜、山中の運動会に初参加させてもらった。
柏崎に出張中のばーも藤美屋(ここの屋号)に戻り、ご飯を食べて棚田の中にあるグランドへ。

これまではグランドに向かう途中のお墓のあたりからみんなで入場行進をしたそうだが、
村のヒトが少なくなってしまったのとあわせて高齢率が高すぎて(妙な日本語だ)、割愛。
かつてはヒトも多くて、運動会でケンカ沙汰(怒り収まらず組ごと運動会から退散)もあったという。

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運動会といっても、とにかくじさばさばかりが圧倒的なのでおゆるり和やか。
油断して、前夜に石黒で田植え後に深酒(前々回の日記参照)してしまった。
大橋さん、マサカズさんと我ら二人で最後は焼酎飲みながら、
「ぼっとん便所」を巡って2時間くらい論議してた。
じつはこの藤美屋のぼっとん便所が、いろいろな補助金などの絡みで
水洗式+共同浄化槽(ここに補助金)付きに改修されることが決まった。

ぼっとん便所を残したい気持ちが我らにはあって、
だいぶ抵抗も試みたけど時勢世論その他もろもろに勝てず。

じつは山中は浄化槽(下水道?)の普及が遅れていて、
たとえばうちはトイレには汲み取り車を呼び、
風呂トイレの水はそのまま外の排水溝に流れ出る。
一見すると、緑が多くて豊かに時は流れる、嗚呼花鳥風月というような光景だけど、
いわゆる垂れ流し状態で少なからず汚水が外に排出されてきた。

秋田の実家も”ぼっとん&くみとり”式だったので、
ワタシも特にぼっとんに抵抗もなく、
昨夏から東京の小学生を夏に「民泊」として受け入れており、
むしろこの家の売りの一つだろうなあと、
ぼっとん容認派の一人として日々活動(?)しておりました。
「下肥」を土に循環させたいということも、鶏ふん循環の延長線上で検討してもいました。

ちなみに、大橋さん&マサカズさんは「ぽっちゃん便所」と呼んでいて、
ぼっとんVSぽっちゃんの構図で、勢い焼酎もどんどん投入されてゆく夜でした。
汚れた言葉連発でスミマセン。

そんな翌日は運動会の終盤までひどく二日酔いのままで、
しかもプログラムの流れ上、最後の最後に
日本酒早飲み競争に参加し、迎え酒をしてから棚田を走るミニマラソンに参戦。
山中唯一の中学生ヒロム君(野球部所属)にぶっちぎりで負けて3位。
何せ山の田を縫う道なので上り下りがきつく、死ぬかと思いました。
来年はビール早飲み競争に落としたいと思います。
ばーはマメ拾い競争に出て、いきなりマメたちの中に転んでいた。

さぜん(これも屋号。正式にはさざえもん、とのこと)のじさが
左手に杖を突きながら前に進み出て、「山中、ばんざーい」と万歳三唱。
成願寺の宴会後にされる万歳も良かったが、山中の万歳もまた素敵。

終了後にそのままグランドで焼肉を喰いビールと日本酒を呑む。
いいなあ、これはすごくいいなあと思った。やっぱり酒はいいもんだ。

飲んでる席で、山中生産組合(主に年配のお二人が手の回らなくなった田10枚程度を受託して生産)の、
畦の草刈り作業に声をかけてもらい、さっそく8日朝からお手伝いしてきた。

手植えしてみてやはり「自分の田が持ちたい」と、この頃に強くそう思っていたところに、
山中のこの田んぼやってみないかというありがたいお誘いを親戚筋からいただけた。


多くは「運」だと思うけど、
自分が、アナタが、何処に住むかは重要だ。
根を張ろうと覚悟を決めたら、その瞬間から
その根の周りの土とずっと付き合っていけることになる。
これは最高の贅沢だと俺は思うし、
以前にも書いたけど自分はそれをずーっと探して七転八倒してきた。
自分が好きに実験だの観察だのできる土を。
持続可能な環境を。
それは体験として余所にいくら土地があったとしても難しいものだとも思っている。

浮浪人として居候など繰り返し、根なし草と揶揄されたりしてもなお、
いちばん大事なのは根っこだと思っている。

目に見える枝や葉や実は、物言わぬ丈夫な幹から派生するもの、
幹(軸)は地中の根っこがつくるもの。


 * * *


また別の酒席にて、高柳の山で釣りができるというので、
なおも誘われるままに今から行ってきます。
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by 907011 | 2011-06-19 04:57 | Trackback | Comments(2)

なれ。

今年はどういうものなのか、鶏が抱卵態勢にならない。
それでも先日、やっと名古屋コーチン3羽のうちの一つが、
何かふと「ワタシ、思いついた」という顔で箱の中にごそごそ入り、抱き始めたので、
腹の下に4つ卵を入れて温めさせ、放任している。
来週か再来週あたりに今年もヒナが産まれる予定だが、どこで育てるかは未定。

去年5つ孵ったうちの、じつに4羽が雄鳥。
ある未明、
布団の中で、耳慣れない雄鳥の鳴き声を聞いて、
「あー、アイツも雄だったか…」と嘆いたものです。
生き物には群れの秩序やルールがあるもので、
物の本によれば、オス1羽にメス10羽くらいが適当らしい。

オス同士が顔を合わせていれば必然ケンカが絶えないし、
ボス以外のオスはほとんど生殖活動ができず、
エネルギーを持て余したあげくストレスからか弱い者いじめをしたり、血の気が荒くなる。

今月に昨秋生まれの雄鳥2羽をしめる計画が我が家で秘密裏に進んでいます。
こういうのは日付を決めないと踏ん切りがつかない。
ここ数カ月、とりわけ攻撃的になってしまい、
群れから離して育てていて、時々手や足を血が出るくらいに噛まれることもある。
溺愛こそしてないけど、それでもやっぱりまだまだ愛着はある。

この愛着という心の状況は、いつまで感じるものだろうか。
鶏をしめるという行為を、自分はまだ2回しか体験したことがない。
当然、一人でやったこともないし、そうできるのは何年先かもしれない。

「やりたくないなあ」と正直、直前まで尻ごんでしまう。
誰か他のヒトがやってくれないかなあとも、本当に直前まで思うのだ。
恥かしながら、いやまっとうなことのか、おろおろと葛藤してビクビクする。
でも、肉を食べる、肉に限らずとも命をいただくって、
本来これらすべてをひっくるめてのことかもしれない。

自分たちが育てた鶏をしめるのは覚悟がいることだ。
疲れている時や状態の良くない時には避けた方が賢明だ。
ただ、いざ事が始まり、その鶏の身体からその血が流れ出た瞬間、
すべては静かに進んでいきます。
自分たちの手ですることに畏れもあるけど、とにかく静かに進んでゆきます。


自分の内側に起こる、それらすべての葛藤に、
慣れて、慣れて、前進(何への?)したいという気持ちもあるし、
それ以上に、慣れない方が望ましいのかもしれないとも思う。


愛着はいつまで持ち得るものなんだろうか。
そしていまのところ、ワタシは肉も喰う。







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by 907011 | 2011-06-18 05:28 | Trackback | Comments(6)

報告。

「人間が欲を出さなければ、稲は病気になんかならない」とマサカズさんは話していた。

先週の土曜。
高柳で『じょんのびだより』という本を発行している大橋さんからお誘いをいただいて、
いっそう山深い石黒にある棚田で大小9枚の手植えを手伝わせてもらった。

石黒地区はかつては石黒村として独立していたが、
後に高柳村と合併し、現在は7つの集落に約60軒が暮らしている。
集落の一つ棚田の入口にある大野はわずか3軒。
それでもここの人たちは田んぼをつくり畑もやる。

その一つ、花坂の棚田で関東方面や名古屋、秋田(!)から
毎年集まっている方々10数人と一緒に一日田んぼに入り、
昼夜には素晴らしい石黒のごっつぉと酒を、申しわけないほど喰い呑みさせてもらった。

大いなる秋田から来ているカズマさんと高柳の田ん中で秋田弁が交わせて面白かった。
そんな秋田訛りのカズマさんが一服の時に手にしていた、
ヨモギとイタドリの葉を刻んだ手づくりタバコがじつに素晴らしかった。
うちの嫁さんもこれなら吸っても良いと言った(確かに言った)し、
なぜだかキセルを持っているのでぜひ真似したい
(去る6月2日、山中で生まれ育った石塚麻衣子さんと入籍しメオトとなりました)。

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土に触れている静かな時間というのは、
さまざまなものを見て、あらゆる音を聞く時間。
そして、目の前のことも、ここじゃないとこのことも、
考えたり気付いたりする時間なのだと思う。

手植えのように手に全面的に頼る作業をしていると、
その時間はいっそう濃くなるものかもしれない。

例えば、苗箱って、昔はどんな材質のどんなカタチのものだったんだろう?
今の苗箱は田植え機に挿していくための機能が最優先される。
苗を植えるということにしても、
田植え機が入り、収穫のコンバインが入るための行程という意味合いが強い。

苗の間隔や育成法については
これまでもこれからも脈々と研究がされ、品種の改良がなされているし、肥料薬もこれしかり。
機械の方もぐんぐん繊細化している。

「病気になんかならない」という上記の言葉には、
あらゆる角度からありとあらゆる意見があるのだと思う。
理論はすべて正しい、のだからそれが当然だとも思う。



 * * *


ただ、俺がその時マサカズさんの話を聞いて感じたのは、
すぐに調べられるか手元にそろった、どこぞの平均値かわからない統計よりも、
この山でずっと生きることと並行して田をやってきたヒトの言葉というのは、
正しいであろう数値や異論を跳ね返しこそしないけど、
言葉の強さとして、より確かな強度を持っているということ。

マサカズさんが暮らす板畑もまた高柳の西端に位置する小さな集落。
わずか7軒ばかりの板畑にも、
山を越えた柏崎の鵜川の田をいまだに続けられている方もいるという。

その土地の風や土や雪から生まれてきた言葉と、
背景の違う言葉を同じ土俵で見比べる必要はない。


この山の中で育ったヒトが、この山の中に居ながら語る言葉。
それはヨソモノの自分にとっては、
ずっと目を閉じたまま、その目の前に広がっている風景を言葉で描いてもらっているようなもの。
熱や力を加えて造作する言葉ではなく、山から降りてきた言葉たち。


山で生きる人たちが伝える、あまりに純朴な具象画は、滑稽なことに、
いらぬ知識や見栄で凝り固まった自分の目にはまだまだ抽象画にすら見えてしまう。


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いやいや、機械は早い。
機械は効率がじつに良い。
トラクターがあればどんどん畑が広くなる。
田植え機があれば乗っているだけで田植えが終わる。
それは事実俺もこの頃にうっとりとそう想ったりしているし、
何より現状の光景の大部分でもある。

ただ、
手植え手刈りは、機械化された行程よりも自由度がだいぶ高いなあとそれも思った。
いくら機械が手のように作業できるようになっても(スピードはもちろん断然違う)、
手にはなれない。手の感覚にだけは。

といいつつ、
おそらく自分の田を持てたとしたら、
絶対にああしたい、こうつくりたい、
で、こうするからにはこのくらいつくりたい、という欲が必ず出る。
結果、栄養過多にさせるんだろうと思う。
欲を出して苗どうしが近づけば風通しや日当たりは悪くなるし、
土中の根っこが重なってストレスも起こるだろう。

余計な人知を必ず加えようとするし、
その人知が自然に勝ると信じて、上っ面の見た目で一喜一憂を繰り返すのだとも思う。
ギャンブラーみたいに。


「人間のする一切のことは無用だ」、と福岡正信さんの本を見てだいぶ脳天をどつかれた。

たぶん、する、してしまうのだ。
この肥やしをとか、この微生物をとか、
年々更新されるたびに、いろんな新農法のいずれかに「我が意を得たり!」と飛びつくのだろう。

だから、ときどきはマサカズさんの
「人間が欲を出さなければ、稲は病気になんかならない」という言葉を思い出そう。


 * * *


とても質素な言葉だ。
素朴だけど、より美しい言葉だと俺は思う。

葉っぱの裏に、土の中に、素朴で美しい言葉は宿っている。
見えるようになるか、聞えるようになるか、
それが何十年先のことかどうかは分からない。
出会えないことの方が多いのだと思う。

分かることよりも、分からないことの方が多いけど、
素朴で美しい言葉はただ静かにそこここに宿っている。

大げさな力は入れない方がいい。
「見出そう」なんて意識は捨てた方がいい。余計に視界を濁すだけだ。

ただ静かに寄り添うことができれば、
何をすべきかは時間をかけて自ずと見えてくる。

自然に寄り添うとは、そういうことだろう。



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by 907011 | 2011-06-13 07:05 | Trackback | Comments(4)

その火が続くために。

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晴天のあるうららかな日に摘んで干していた柿の葉は、
風邪のひき始めが飲み始めとなった。
奇しくも、「ビタミンCが豊富でレモンや緑茶の20倍以上」だそう。

効能のことは、たぶん飲んでいるうちにいずれ後回しになるんだろうと思う。
好きで飲んで続くかどうか、という曖昧な嗜好はヒトそれぞれだから、
効き目を集めて並べて眺めるよりも、飲んでる心地の方が主導権を占めるものだもの。

何にせよ続けることって容易なことじゃなくて、
だからこそ、続いているモノやヒトは周囲からあるいは遠くから尊敬の目で見られるんだと思う。
何事も熱しやすく冷めやすい自分の場合、そういうまなざしはことさら人一倍。


 * * *


何かよくわからんが興味のあるものにある日こつんと出会う。
好きな空気を漂わすヒトと出会う。

そして、一目ぼれしたそのものにもっと近づきたくなって、
着火剤のような情報と、そこに着火すべく「知ろうとする」行動は、もちろん大切。

でも、着火後にそれをなおも「続けること」に必要なのは、
もっと知ることよりも、もっと感じることの方なのかもしれない。

ともあれ、風邪のひき始めが飲み始めとなった柿葉茶。
枝豆のような香りがしてうまいです、と俺は感じてます。
そのあたりの葉っぱをmyお茶に変換することに興味のある方は、
ここのページが善き着火剤となってくれると思います。






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by 907011 | 2011-06-12 08:22 | Trackback | Comments(0)