山中記

<   2011年 12月 ( 8 )   > この月の画像一覧

冬眠る。

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昨日。
8時に屋根へ上がる。
細かく下ろす方が雪掘りは気分的にも肉体的にも良いと教えてもらった。
とはいえ12月のうちに2回はなかなか快調な出足らしい、今冬。

昨日はお仕事を11時まで雪掘り休みにしてもらい、
時間になって屋根からいったん下りて仕事おさめに作業場へ。
1時間くらい来年についての話しをした。鬼、笑う。
昼過ぎに戻ると屋根の残りをおとうさんが片付けてくれていた。
ふじみやの屋根の形はなかなか入り組んでいて、面白い。
雪が積もると「開かずの戸」が増える。
身体もあちこち重たい。重力の交換。

屋根の雪堀りもまた、生きるための暮らし。
時間とカネという変数とで、
生きるための最低限はどれだけかを考えるための、いちばん小さな経済。
10年も昔にもらった『ザ・ゴール』という厚い本を、雪が降ってから手にとって一気に読んだ。
自分が小説の舞台となる工場やプロセスに一緒に居合わせたかのようで、
面白かったし、考えさせられたこと多し。

ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か

エリヤフ・ゴールドラット / ダイヤモンド社



私たちが探し求めているものは、いったい何なんだ。
三つの簡単な質問に答えることのできる能力じゃないのか。
『何を変える』、『何に変える』、それから『どうやって変える』かだ。


もし、自分たちで苦労しながら答えを探すことがなかったとしたら、実行する勇気を持てただろうか。
おそらくノーだろう。
自分たちで苦労して学んでいなかったとしたら、自分たちで苦労して練り上げた答えでなかったとしたら、
こんな途方もないことを実践してみる根性など湧いてこなかったであろう。


暮らすためのカネを得るために働くのではなくて、
暮らすために働きたい。
時間と身体こそが資本で、思考の方はまだとうぶん役には立ちそうにない。

自分の好きな道に足を突っ込むことができればできただけ、
反面、自分の弱い部分ともっとも向き合わなくてはいけなくなる。
好きな道にある必然だと思う。

自分の弱さを見るたびに悪循環を繰り返す。

親類にも村の人にも現状から特に報告できることがまだ何も無いと思っているので、
ついつい避けたくなるし、集まりの輪の中に居ても(勝手に)緊張する。
緊張するとも違うなあ。
言葉がそのものの意味を伝える力を持たないまま、ただ口から出る、
それが嫌なので口をできるだけ開かないように恐縮する。

冬になると、アルコール依存の精神にときどき共感する。
(破壊したい)という欲望は、同時に欲求不満ともいえる。
出来るぎりぎり健全な手法で。
今夜もたぶんそうして寡黙に酒に逃げる。

ただ、
今夜23時過ぎから山中の小さな神社で雪見酒でもしながら番をする役を与えられたので、それは楽しみ。
雪の中、二年参りの人らが登って来るころには神様のもとで酔っ払っているんだと思う。
そうして年男に成る。


今まで見えていた外が雪に覆われ、
今まで見えなかったもの、見ないふりをしてきたものが見えてくる。
自分の内にある影と光。

屋根の上で、
竹を伐り出しにずぶずぶと入っていく林の奥で、
裸電球2つとやかんのせるストーブ、水が凍る作業場で、
一人過ごす空間は、「反省の時間」になる。
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by 907011 | 2011-12-31 04:52 | 携帯から。 | Trackback | Comments(4)

シロとクロ。

昨夜は塩沢の重左衛門で忘年会。
送迎までしてもらえて大いに酔えました。


”想像したい”という欲求を、最後に突き動かすものって何だろう。
ニンゲンがたとえば2人いたら、2つ別々の生まれ育ちがあって、
毎日毎時間、目の前にそれぞれ無数の選択肢がならぶ。
そのバラバラな時間や空間のどこかでぽつりと運があって縁があってそこで出会う誰かと交差する。


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「汗なんかふいたところで何になる?」と門出の父ちゃんが言っていた。

タオルや手ぬぐいを首に巻いて機械を使うのは危ないから止めろという話だったんだけど、
汗をぬぐおうが垂らそうが、別に汗なんか勝手に出るものなんだから構っても何も変わらないだろ、
構わんでいいって。

春先の話をふと年の瀬に、あーまったくだなあと思い出しました。


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あやふやな記憶と勘を頼りにして、
20日ごろにようやく終えたうちの冬囲い。

土曜におとうさんが来てくれて一緒に屋根に上がったけど、
この週末の寒波でそれ以上に積もった。

玄関の中はこんな感じで日が射すと少しだけ雪が明るい。

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冬は回覧板が回る以外に人も来ない。
雪がなくなるまで車は入れないし、人が一人歩ける分くらいしか道もない。
仕事を15~16時には終わらすので明るいうちから早々と風呂で本を読むか酒を飲むかしている。
と、油断してたら先日麦麦さんたちが家人を飲み会前にうちまで迎えに来てくれて、
「おー、うちに人が来た!」とあわてた。



本日も二日酔い。
頭痛い。
かんじき履いて道つけないと。

”生きている道”、我ながら的確な表現だなあと思う。
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by 907011 | 2011-12-28 07:07 | Trackback | Comments(2)

いろいろあったけど。

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冬の夕暮れに、雪はわずかに赤く染まる。
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by 907011 | 2011-12-26 19:11 | Trackback | Comments(2)

冬囲い、遅々・・・。





あずきのさやのなかに、
あずきが並ぶしあわせ。

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by 907011 | 2011-12-11 12:33 | Trackback | Comments(4)

のまかき、ぐみあみ、雪だなづくり。

3日土曜は門出の古民家「おやけ」を会場にして、
じょんのびツーリズムの会の初の体験会(と交流会)が行われた。

7月7日に立ち上がったこの会のテーマの一つに、
「なつかしい未来の里」という言葉がある。
(検索してみると「なつかしいみらい」って言葉は意外に多用されていてたまげた)


「なつかしい」という感情だけが持つ力があると思う。
「どこかなつかしい」という感情が呼び起こす力があると思う。

古いもののなかに、新しさを見ることがある。
なつかしさという感覚は、世で言う「オンリーワン」よりも、もしかしたら、
穏やかだけど、強いんじゃないだろうか。

なつかしさという感情を、未来へつながる力にしようという話を、
じょんのびツーリズムの話し合いではよく耳にする。
もう一つ、「なんぎぃがあるすけ、じょんのびぃがある」という言葉も。


今回は会員の勉強会として、また今後展開される”百姓に学ぶ大地の学校”構想の初の具体化でもあった。
大地の学校の目的は二つ。
一つは「百姓のすごさ、知恵を学ぶこと」。
厳しい季節のなかで、こなさなければならない仕事は百に及び、
これらをこなせる人に百姓の称号が与えられます。
百姓の、季節と会話するくらしは五感を豊かにし、人間本来の人間力を育むと同時に、
からだで憶える実体験は、知識ではなく”気付く”ことを与えてくれ、心も育んでくれます。
(大地の学校構想の説明より)


かつての山に生きた百姓の暮らしを掘り起こし、話し合って、再現することで、
「なつかしい未来」を探る第一弾。
集落の名人たちに教わりながら、昔の記憶を手繰り寄せる、伝えてもらう会となった。

日記のタイトルにある「のまがき」「ぐみあみ」「雪だなづくり」。
自分には言葉で説明するのがとても難しいので、今回は下の写真を見て、察してください。


 * * *


で、もう一つの目的は「百姓仕事の記録と保存」。
この風土に残る、あるいは消えかけそうになっている生活文化をどうやったら記録し、保存できるか。
その上で受け継いでいくこと、あるいは望む人に伝えていくことにつなげたい。

俺はこの記録担当班となり、カメラを首から下げつつ、
初めて触るビデオカメラを持って作業に張り付かせてもらった。

8時半おやけ集合。
9時、何班かに分かれて開始。
俺は田代~松代に抜ける県道(?)にて茅刈りを記録しながら、少しだけ手伝う。
使う茅にも良し悪しがある。

縄をもらって、茅をしっかり縛ってみたら、これは仮留めだから
はさがけの時にみたいにまるけて、軽トラに積めればそれでいいんだよと教わる。
次の作業の流れを知ることが大事。
ついでに、スノーシェッド(=片側の眺めの良いトンネル?)の上が平らだということを初めて知る。

一時間半ほど茅を刈っておやけに戻ると、
すでに玄関の前に「雪だな」のための木組みができていた。
この木組み(の一部?)は「ふかぐら」と呼ばれ、ここに茅を縛っていく。

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縄を解いて、刈ってきた茅から悪い茅を外しながら運ぶ。
横に竹を2本渡し、その間に茅を挟んでいく。

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同時並行で雁木の中では名人が、「のま」をかいている。
のま(ぬま)とは、わらで編んだ雨よけのことで、のまを編む作業を「のまかき」といいます。
のまはいろいろな場面で雨よけとして使われますが、冬には玄関が雪で埋まってしまわないよう、
玄関先に回廊のように立てて、雪が入らないようにしました。


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by 907011 | 2011-12-06 07:00 | Trackback | Comments(0)

山の肥やしは人の足跡.

10月18日から始まった林業講習では、
林業と山村地域の現状の話から始まり、
植えつけ、下刈り、除伐、枝打ち、間伐、造材と林内作業車の操作を森林組合の現場でやらせてもらった。

現場での実習は一カ月を通して天候に恵まれなかった。
ある日はただただ身体が寒かった。
そうかそうかそうきたかと思って、厚着をして臨めばちょっと作業しただけでたちまち汗をかいて、すぐさまそれが冷えてくる。
自分にとっては、冬の毎日の仕事が例外なくそうであるように、
秋の林内に入るのにも、どのくらい着込んでその上に雨具をつけたらいいものやら見当がつかず、
また寒くなったり、またまた汗をかいたりをくり返した。


 * * *


<かつては「村山」と呼ばれる、それぞれの村の燃料を確保するための山があった。
 しかしあまりにも急速に、人は山からいなくなってしまった。
 循環を作り出すニンゲンが必要だ>


国土の66%は森林が占める日本は、
森林比率の高さではフィンランド(69%)に次ぐ森の国。


<山の肥やしは人の足跡>



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刈羽村の現場で行われたヒノキの植栽。
2メートル真四角あるいはチドリ(互い違い)に図りながら目印をつけて、
植えつける周りの草と木の根を刈った後に、トウガ(唐鍬)で穴を掘る。

苗木は2~3年生を植えるのが多いそうだ。
小さな葉の色付きを見て苗木を植える表と裏(日が当たる側/当たらない側)を教わる。
根を広げながら、根と土に隙間ができないように細かな土からかけていく。
土がかかったら立ち上がり、3本の指で苗木を上に引っ張りながらぐるぐる回り、足で踏み固める。


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「谷スギ尾根マツ中ヒノキ」。
杉はある程度湿度を好む。
対照的に松は乾燥に強く、ヒノキも耐乾性が高い。

地形、風土を観察した上で、どのような森をつくることができるのかを考える。

<私の家のすぐ裏手に150年生の林がある。
 その山を見ることで、山づくりのイメージトレーニングを行っている。

 150年生のスギの枝。
 枝はどれくらい伸びて、樹冠はどのくらいなのかを実際に見てイメージを固める。>


 * * *


植栽の後、一本一本ごとに、下草刈りの時の誤伐を防ぐため、目印になる棒を立てていく。
下刈りをやった際に、たしかに草の中で育てるべき苗木を探すのは至難の業だった。
プロの方たちはやぶの中から苗木を即座にとらえる目ができている。

同じ斜面を同じ角度から見ていても、素人が目を凝らしてもほとんど分からない。
見る目ができてないために、刈り払い機を持ったまま進むに進めず立ち往生した。
その辺でビーバーを振り続けて草を刈るのと全然違う。
視覚からの情報から必要なものが探せないまま、手足が停まる。

目の前に全部の景色がそのままにあるのに、頭でもよくよく分かっているのに、
それを見る目、読みとる感覚がなければ、
いくら良い道具があっても、それを役立てることはできていないのかもしれない。
未経験は無知だ。


 * * *


下草刈りは植えつけをして以降、できれば10年くらい必要だそうだが、
補助金の関係で多くの森林組合で7年目が打ち切りの目安となるらしい。
時期は梅雨を挟んで、最初のうちは二回、樹が伸びた後半は1回になる。
作業の流れで梅雨明けの炎天下でやる組合が多いらしく、一カ月以上に及ぶ作業になるので、
山の仕事のうちでも下刈りが一番きつくてしんどいという人が多いそうだ。

草を刈ってあげて光を十分に受けられるようにして成長を促す。

<ただ草木を除くだけなら、草木が伸びきった7月末から8月にかけて刈るのがよいのだが、
 下刈りは植栽木が光を受けるために必要なのだと考えると、もっと前の時期に行うのがよくなる。
 なぜなら、樹木がもっとも成長するのは雨が降って夏至がある(日がもっとも長い)梅雨時期だからである。>


資料をふと眺めていたら、下草の養分とタイミングのことも書かれてあって、
以前、門出のとうちゃんが「クズを絶やすなら梅雨の時期に切れ」と言っていた話を思い出した。


<クズの処理は梅雨の直前と梅雨明け直後の二回刈り払うのが効果的である。
 クズは根に蓄えた養分を使って成長を始め、ある程度育つとその根に養分を送り込んで次の成長に備える。
 クズ対策のポイントはこのサイクルを絶ってしまうことで、効果的なのが梅雨の直前・直後の刈り払いである。
 養分を使わせ、貯めさせないようにするのがコツである。
 何年かくり返すと、クズは根に貯めた養分を使い果たして勢力を弱め、
 ほかの植物に生育空間を奪われて急激に衰退していく。>


自分も目にするようなそこら辺の林でも、
クズとフジが樹をらせん状に上りながら徐々にわずかずつ絞めあげていて、
まるで蛇がそうするように、大きな木であっても締め殺されて息絶えているのを見る。
まさしく葛藤。
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by 907011 | 2011-12-05 07:17 | Trackback | Comments(0)

無。

前職を辞める最後の日に、頼んで親方から譲っていただいた本が3冊。

一つは木村秋則さんの『奇跡のリンゴ』。
残る2冊が福岡正信さんの『わら一本の革命』と『無Ⅲ 自然農法』でした。

無〈3〉自然農法

福岡 正信 / 春秋社



もとより400ページ超の分厚い本は、夏季以外の恒例となっている風呂読書を経て、
しかも自分に響く文章に出会うたびに興奮してページの角を折るので、よりパンパンに膨れ上がりました。


実験と称して畑をやってみるものの、どうにもうまくいかない。
落ち込んで帰ってきては、湯船につかってこの本を読み、鼓舞されて翌朝また出ていくの繰り返しでした。

自然を科学の視点でとらえることの限界を説くあたりは、 ひじょうに合点がいきます。


人間が何もしなくても、深山の土は年々深く肥沃になる。
逆に農薬によって土地は荒れ公害が生ずる。
鎮守の森は栄養学で育ったのでも、植物生態学で守られたものでもない。
斧と鋸を注連縄(しめなわ)で封印したから、森の樹はおのずから大木になっただけである。


人間は時間の短縮と空間の拡大に狂奔しながら、かえって真の時間と空間を失った。


原因には無限に原因があり、その根源を尋ねていくと、真の原因というものはわからなくなるものである。
土壌中の酸性化を問題にした場合、ふつう石灰が欠乏したからと簡単に決められやすいが、
その石灰が欠乏した原因は土壌になく、除草により裸地栽培を続けたために土壌が流亡した、
あるいは雨水や気温などの関係がより根本的原因となっていたということもありうる。
また、石灰が欠乏したから酸性になったと考えて石灰を施す場合など、
逆に石灰施用で、アルカリを好む雑草が繁茂しすぎて土壌がより酸性になったというようなこともありうる。
と、このときは原因と結果をとり違えたことになる。


自然は分解してみてはならない。
分解した瞬間から部分はもう部分ではなく、全体はもう全体ではない。

部分を寄せ集めたものは全部であり、全体とは異なる。
「全部」は数学的形式の世界であり、「全体」は生きた内実のある世界を表現する。
自然に即する農業は生きた世界であって、形式の世界ではない。


「現代文明」というものをよく見直してみて、
それが狂っているとすれば、それを狂わせた人知も狂っているということになるはずである。
人間の主観が倒錯していたから、病める現代が生じてきたと言えるのである。
現代を狂っていると見るか否かは、あなたが狂っているか否かの判定基準となろう。


この世に、なんの統一もなく、支離滅裂の活動が氾濫しているということは、
誰も自然を本当に愛しているのではなくて、
自然の中の自己を愛しているにすぎなかったと言える。
自然の山川を描く画家は、自然を愛しているように見えて、自然を描く自己の職業を愛しているにすぎない。
大地を耕している百姓も、自然の中の田畑で働く自己の姿を愛しているだけである。
農学者や農政家は、自然を愛しているつもりで、自然を科学する学問を愛しているにすぎず、
自然を耕す農民を研究したり、批判して喜んでいるにすぎない。
人間はただわずかに自然の一部を覗いただけで、
自然の本態を把握したつもりになったり、愛しているつもりでいるだけである。


路傍の雑草には雑草の意味があり、価値がある。
それは園芸品種が侵すことのできないものである。
雑草は雑草でよかった。
やはり”野におけレンゲ草”で、レンゲはレンゲのままでこそ価値がある。

山路のスミレは、誰がために咲くのでもないが、人々は見過ごすことも、忘れ去ることもできないであろう。
そのとき、その人が知る。
人が変わらねばこの世は変わらない。
農法もまた変わらない。
私は米と麦を作っておればよかった。
麦の立場に立って、麦の話を聞こうとする者にだけ、麦はその人のために人間がなんであるかを説くであろう。



無農薬無化学肥料を思考錯誤している人には、とても勇気づけられる本だと思います。
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by 907011 | 2011-12-04 17:50 | Trackback | Comments(2)

備忘録。



※メモ、雑感など書き起こしていたら親のかたきのように長くなったので、
 雨風の強い朝などにまとめ直してみることにしました。


 * * *


秋の終わりに一カ月ほど、お仕事を休ませてもらって、林業を学びに出ておりました。



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自分たちの暮らしのなかにできるだけの”循環”を描きたいと想うとき、
考えようと思っても、その考え方すら分かっていないのが、山のこと、木のことでした。

一カ月間。
その毎日、毎時間が、
いかに「自分が何も知らないか」を知る、貴重な時間となりました。

山を見ているようで、山を見てなかったこと、
木を見ているようで、木を見られていなかったこと。

知っていることと、分かっていることは違う。
知ってはいても、分かってはいないことがある。

目の前を見ているようで、目の前を見てはいないことに気付かされる。

講習で使ったテキスト『森の技・山の作法』にあった言葉、
「造花に匂いはない」。

<苦しい時を過ごした人のみに、技も知識もついてくる。
 人前で自信をもって深みのある話もできるようになる。
 頭や言葉が先行している人は花にたとえれば所詮造花であり匂いはない。>



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<どんな小さな花でもよい。
 本物の匂いのある花を咲かせてほしい。
 そして蕾から花への変化を知ってほしい。
 匂いのある花には必ず実が結ぶ。>
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by 907011 | 2011-12-03 06:10 | Trackback | Comments(2)