山中記

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再生。

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by 907011 | 2012-04-22 06:02 | Trackback | Comments(0)

修業中。

今週。
柏崎に弁当持って通って、炭焼きを習っています。

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親方であるコウダさんが一人でつくった炭焼き小屋の片付けや補修をしながら、
2日間火を焚き続けて窯をひたすら暖める。

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炭焼きが始まるまで
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by 907011 | 2012-04-20 06:29 | Trackback | Comments(6)

ふじみや。

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雪解けの早い(?)斜面の木の下で、フジの実を拾った。
フジ(藤)はマメ科の植物で、これも炒るとおいしく食べられる。
フジの花からこんなごついさやができてぶら下がっていたとは。

土が出てきたら発芽実験してみたい。・・・食べるかも。

藤美屋の藤。


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たぶんあと一カ月くらいはうちの道は出てこなそうなので、
車を公民館に停めさせてもらって、歩く。
歩いていると途中に、たぶんノカンゾウ(ヤブカンゾウ)と思しきものが生えている。
ユリ科でこの若芽も食用可。
でも、「ビシっ」と確信が持てないので、俺のようなど素人は
一年目は花が咲くまで待って照合するというのが確実らしい。・・・食べてみるかも。

食べられるものはそうでないものに比べてがぜん興味がわきやすい、と実感。
鶏どもなどはそれなら毎日が興味の塊だろうなあ。


頭の中で「好き嫌い」を扱うのは扁桃体というところでして、
「この情報が要るのか要らないのか」の判断は海馬というところでなされています。
 海馬と扁桃体は隣り合っていてかなりの情報交換をしている。
つまり、「好きなことならよく覚えている」「興味のあることをうまくやってのける」というのは、
筋が通っているんですよ。
感情的に好きなものを、必要な情報だとみなすわけですから。
(池谷裕二・糸井重里『海馬』)

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by 907011 | 2012-04-18 06:48 | Trackback | Comments(0)

朝火。

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昨夜もどうにも眠りの浅いままだった。
朝からよく陽が射していたので、6時に鶏の寝床の戸を開放する。

家の周りを少し歩いて、雪の上に落ちている杉っ葉を二つかみ拾う。
玄関前、コンクリを出したところに朽ちた一斗缶を引っぱり出して火を起こし、
この冬大量に出た竹の切れっぱしを燃やしてみる。
鉈で細裂いてくべたら素直によく燃えてくれた。
空気と湿気と火の燃え方をもっとよく観察しておこう。

とかく焚き火は、春夏秋冬いつやっても夢中になる。
男は火遊びが好きな生き物だ。
今日のは杉っぱと竹だけなので畑にばらまける。
雪解けが少しは早まるし、土にも良い。

煙はどうしてあんなに、逃げても逃げても見事にぐるぐると自分を追っかけてくるんだろう。
フリースがすっかり臭くなり、目を涙ぐませながらも、
煙を眺めていると、一斗缶の上でトルネード状になっていることに初めて気付いた。

家の外壁の板や、ひさしの下をくぐって昇っていった。
煙はカメムシなどの虫が嫌うところ。


7時の鐘が鳴ったので家にあがってどんぶり飯と卵焼きとふき味噌をおいしく食べた。


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by 907011 | 2012-04-17 08:12 | Trackback | Comments(0)

考える種。

陽気が出てきて、早起きがまたできるようになってきた。
そういう風に、心身ともに単純にできているんだろうに、
ただ、自分の頭のなかがいちばんよく分からない。
この冬に買った『海馬』という本がこれまた実験の仮説や展開が面白くて、
風呂にのぼせながらも静かに興奮して読んだ。

海馬―脳は疲れない (新潮文庫)

池谷 裕二 / 新潮社



だいぶ若い年の頃からだったけど、
突発的になぜか早起きが趣味になって、
しかし、そのせいなのか何なのか、飲み会ではほぼ毎回つぶれるようになった(言いがかりか)。

この頃、鶏の朝鳴きに睡魔が負けるようになってきた。
今朝は4時前に目ざめてしまったが、
昨日私的に衝撃的なことがあって、今日は単なる寝不足で悶々としながら朝日を見てきた。

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「JT広告大人たばこ養成講座」や『ウンココロ』で知られる寄藤文平さんが、
この『海馬』のブックデザインを手がけていた。
昔ほぼ日で目にした、寄藤文平さんの読んだ本にまつわる話が
いまだに印象的で、ときどき思い出しては考えることにつながっている。

奇しくもこれまたサルとヒトの比較の内容で、
自分が何となくイメージしていた「デジタルとアナログ」がひっくり返ってジタバタとしたのを覚えています。

デジタルだ、アナログだ、っていうのが
どう違うのかっていう話が出てくるんですけど、
デジタルってのは
1、2、3、4という数字で分けられるような
細かな単位でモノを数える考え方で、
アナログはそれがないっていう話だったんですね。
その意味で、サルがデジタルで、
人間はアナログなんだっていうことが書いてある。
それが、僕なんかすごい新鮮に感じて。

外からの反応に対して脳に入った信号が
ある径路を辿って「こうしなきゃいけない」って
アウトプットとして外に出るときに
サルは1信号に対して1アウトプットを出す。
これが、デジタル的な構造。
一方の人間は、
例えば、そうやって入ってきた信号を
「これはもしかしてこうなのかな?」と思ったり、
言葉というひとつの情報にまとめたりするじゃないですか。
それこそがアナログであると。
(寄藤文平さんの本棚『サルとヒトのあいだ―精神はいつ生まれたのか』)



自分の考え事の大部分は本よりも「ほぼ日」で目にしたインタビューなどから起因しています。
吉本隆明さんを知ったのも、坊さんのものの見方って面白いなあとか、
そもそも農業を体験してみたいと感じたきっかけも、そうでした。

いつかパソコン離れできる日というものが果たして来るのか来ないのか。
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by 907011 | 2012-04-16 06:33 | Trackback | Comments(0)

読書反省文。

ケータイを持ったサル (中公新書)

正高 信男 / 中央公論新社






「ひきこもり」など周囲とのコミュニケーションがうまくとれない若者と、
「ケータイ」でいつも他人とつながりたがる若者。
両社は正反対に見えるが、じつは成熟した大人になることを拒否する点で共通している。

現代日本人は「人間らしさ」を捨て、サルに退化してしまったのか?
気鋭のサル学者による、目からウロコの家族論・コミュニケーション論。



ひきこもりは決して若者全体の二%に限定して生じている現象ではない。
むしろ反対で、ルーズソックスをはいたり、靴のかかとを踏みつぶしたり、
地べたに平気で座ったり、歩きながら飲食をする者すべて、
本質的には自分の部屋に鍵をかけて閉じこもる暮らしと変わらないように、私には映る。

 両者に共通しているのは、「家のなか」すなわち私的空間から公共の場に出ることの拒絶である。
「家のなか」の範囲をどれだけの広さと自己定義し、自分が活動する領域をどこまでとみなすかだけであって、
いったんその縄張りを決定してしまうや、そこからなかなか足を踏みだそうとしない点では、
双方とも見事に一致しているのである。
(「ひきこもり」の本質)


 自分で思い描いたように自己実現できない自分を許せないと否定的態度を取ったならば、
ひきこもり系へ向かう確率が高くなる。
反対に、思い通りにならなくとも、それは非が自分にあるわけではないと徹底的に居直り、
「家の外」という環境までも「家のなか」とみなすことで今までどおりやっていきましょうという態度を貫くと、
ルーズソックス系に属するようになっていくのかもしれない。
(「ひきこもり」の本質)



 相手が視界から消え去った時に、社会関係を維持するために
おしゃべりをし合うというのが、きわめて高度な社交術であるのはあらためて指摘するまでもないだろう。
目下のところ動物ではヒヒとニホンザルの仲間だけで報告されている。
しかも両者とも、時として数百頭という例外的に巨大な規模の群れを形成することが知られているが、
それはこの社会性によってのみ可能となったと思われる。
他の霊長類の群れは、大きくても五〇頭を超えることはない。
対面して関係を維持するためには、このあたりが限界なのだ。

 ただし、彼らの出す音声そのものには、メッセージが含まれていない。
仲間の所在を確認して、反応が聞こえなくなる事態を防いでいるにすぎない以上、
やっていることは下等と言えば下等かもしれない。
だが最近の日本人と比べてみた時、あまり差がないように思えてならないのだ。
(おしゃべりによる集団の大型化)


 いつもいつも、個体間のきずなを深めるのに攻撃行動を必要とするのでは、
群れ内に軋轢(あつれき)の種がつきない。
そこで、あたかもその場に第三者が居合わせているかのように想定し、
そこで攻撃行動を共同して注ぐかのごとく両者が「笑い合う」ことで、お互いの結びつきを確かめるように発展して、
笑いは誕生したのではないかと思われる。
それゆえ私たちはいまだに、ふたりが談笑している場に出くわし、その理由が把握できないと、
あたかも自分が笑われているかのような印象を持ち、かつ不快に感ずる。
むろん、笑い合う動因が攻撃的なものでは困る。
そこで、「おかしみ」という感覚を作りだした。
作りだしたけれど、まだ成立してから日が浅いので、内実は曖昧模糊(あいまいもこ)としている。
有史以来、哲学者や思想家がおかしさについて考察を試みても、
もうひとつ答えがはっきりしないのは、そのためである。
(サルは笑うか?)


言語の、必要な情報を伝達することと、
相手と情緒的に結びつくことという二つの役割には、ジレンマがある。
公共性を発揮するためには、誰にでも意味のとれるものでなくてはならない。
しかし仲間とのきずなを深めるためには、相手にしか理解できないような形を取るのが最適なはずなのだ。
だから通常どんな言語体系も、コミュニティのなかで、
公共性への需要と、集団の凝集性を高めるための私的な「乱れ」の圧力とのあいだで揺らいでいる。
(ことばの「乱れ」)



あの「3・25事件」で、紛失していた携帯電話が発見されたのである。
それも、雪の中から一部が表出していたところを、
じつに五日間の後に、たまたま家にやってこようとした知人が発見してくれたのだ。
(久しぶりに読み返したらひじょうに面白かったので感化されて、本の言葉尻など真似てみるのである)

現在自分を取り巻くコミュニティにおいて、
「携帯電話を持たざるを得ない」状況というものもあるが、
同時にまた一方で、携帯すること自体が非常に面倒なシロモノでもある。
私的時間が、瞬間にして公共の時間へと変わることが必然となる。そのことが億劫なのだ。
こと自分の場合、私と公があまりに乖離しているために、切り替えが鈍いのであろう。


ちなみに電話が雪中貯蔵されていた5日間は、もう出てこないだろうと居直り、
いざなくなってみると、「こりゃいいもんだなー」と考察したのである。
いつかは簡単に連絡が取れる手段を携帯せずに、
健康的に、かつ引きこもるような暮らしに退化したいという願望に揺らいでいる。


だがしかし、
雪の中で寝て動けなくなり、身体をブルーシートに包まれ引っ張られて帰宅するほど、
酩酊してはいけないと自戒するのである。

・・・、死ぬとこだったぢゃないですか。
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by 907011 | 2012-04-15 19:21 | Trackback | Comments(4)

雪に花。

軽トラで石黒のさらに奥にある落合集落へ。

落合は現在住んでいるのがわずかに3軒、
皆さん百姓をして暮らしている。
「高柳産そば粉100%」にこだわるふかぐら亭とのつながりも深く、
契約農家として落合でも蕎麦をつくられている。

中でも、大橋いとしさんご夫婦は
冬もビニールハウスを維持して、野菜をつくっている希有な存在。
高柳で冬にビニールハウスを目にすることはまずなくて、
毎日四方八方の相当な量の雪を投げないと、
重たい湿り雪ですぐに骨までつぶれてしまう。

いとしさんが冬の野菜栽培をはじめて今年で3年になるそうだ。

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春菊、水菜、かぶ、はつか大根、ブロッコリー、白菜、レタス、チンゲン菜、
あと勝手に自生しているらしきフキもあった。


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水菜の花。
はじめてみた。かじった。あまかった。


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この冬、ふかぐら亭でもいとしさんの採りたて野菜が毎日提供された。
間もなく稲の育苗が始まるので、野菜を全部片づけて土もぶつということで、
軽トラ山積みの野菜をいただいてきました、人にも鶏にも。
(入口の先に写っているのがイトシ師匠)

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山中に戻ってからが大変だった。
相変わらずの雪壁でうちは車が入れないので、雪道を10往復くらい。
良い運動になりました。
怪しい光景だったのか、途中隣のちよさんに「山菜か?」と聞かれる。

疲れてきたので家の手前の雪掘り通路に並べたら、
「いいとも」みたいになった。(たとえが伝われば嬉しいです)


 * * *


鶏たち、大喜び。
それを眺めながら昼のビールを一つ飲む。

残りは家の西側と東側へ。
積極的に雪をかまいたいエリアに穴を掘って貯蔵した。

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by 907011 | 2012-04-13 07:56 | Trackback | Comments(2)

雪割り日和。

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冬の放し飼い。
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by 907011 | 2012-04-10 09:29 | Trackback | Comments(0)

一週記。

4月1日。日曜日。
特にトリッキーな嘘が思いつかず、雪を少しかまってから日本酒を飲む。

知人が新潟から南魚沼への引っ越しを無事終えたとの連絡をいただく。
そのうち酒を持って遊びに行こう。
友達はあちこちにいた方がありがたい。
離れていても、境遇の近い友達は大切。
20時就寝。


月曜日。晴天。
新年度感をうっすら感じる。明けましてどうも。

オノダさん(仮名・しかも2人分合わせて)が、「ふかぐら亭」に蕎麦を食べに来てくれた。
仕事の昼休みに合流して、そばセットと瓶ビールを頼む。瓶ビールは無論友達のために。

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嫁さんがこの蕎麦屋さんのお手伝いをさせてもらっているので、
俺もこの冬はご飯持参でふかぐら二階のこたつ部屋で昼飯を食わせてもらい、昼寝もきっちりできました。
”ふかぐらの居候”として、ごろごろと持ち時間いっぱいできるだけの怠惰を尽くしながら、
「ここん家の子でよかったー」などとこたつでつぶやくのでした。

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そんな(どんな?)、「ふかぐら亭」のそば粉はすべて、高柳の個性ある農家さんたちが育てたもの。
この蕎麦がひじょうにうまい。
しかも、そば粉だけでなく、野菜などの食材も高柳産がそろっています。

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うちの鶏たちの卵もよく使ってもらっています。
あと、卵のばら売りも置かせてもらってます。
かけ蕎麦に入れる方もいるけど、皆さん持ち帰ってお土産にしてくれる方が多いみたい。
日によってはふかぐら亭の向かいの「麦麦ベイク」さんに置かせてもらったりもしてます。
けっこういろんな方のブログなどで出てきますが、麦麦さんのパンもうますぎます。
だいたい買って車に乗ってから、目的地に着く(もしくは家に戻る)間にほぼ全部食べてしまっています。

そんな(?)麦麦さんの向かいのふかぐら亭に戻りますが、
鶏によるブログが最近始まりましたのでぜひのぞいてみてください(ちょくちょく更新されてます)。
http://hukagura.exblog.jp/

その後、仕事を終えて帰宅するとオノダさんたちがうちの雪壁に上がって小鳥の観察などしていた。
俺は仕事の途中から下腹部に謎の鈍痛があったので余力なくはしゃげず、
でも余所から来た友達の新鮮な”山中観”を見て、厳しかった冬を一人感慨深く振り返るのでした。


火曜水曜。
暴風。
ドリフなみに、うちのこことあそことそことこことここがひっぺがされて壊れるんじゃないかと
布団の中で目が冴えに冴えわたり、ひじょうに寝不足。
しかたないので本でも読もうかと思ったら、停電した。
暗闇の中で、「なすすべないんだな。」という、あいだみつを的な言葉を全身であらわすようにただ朝まで横たわる。


木曜。
嵐、去る。
が、二階の部屋で雨漏りが発生。
漏るんだな。

でもたぶんこっちは雪の方の影響。
今年早くもバケツに落ちていくリズミカルな雨音を聞く。マイナスイオン。

夜、門出で手ぬぐいをつくるのを手伝う。
誰かがつぶやいていた、「ものをつくるっていいなー」という言葉に共感。
ことぶきやさんも素敵なつくりだった。人の家は皆素敵に見える。
みんなすごいなあ。すごい人ばっかりだ。


金曜、土曜。
雪。

歩き見た月が、綺麗だった。

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by 907011 | 2012-04-09 07:28 | Trackback | Comments(4)

あまりに太宰な。

この前の暴風が過ぎ去ったと思ったら、
雪は今朝も高速降りをしていて、
荻ノ島でやる予定だった「春山、春木」は、あまりに冬山なので今日は中止になった。

久々にかんじきをはいて道をつけた。

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昨夜は酒飲んだまま寝てしまったので、
そのままのんびりと朝風呂に入って『人間失格』を読む。


人間失格

太宰 治





自分はいったい俗にいう「わがままもの」なのか、
またはその反対に、気が弱すぎるのか、自分でもわけがわからないけれども、
とにかく罪悪のかたまりらしいので、どこまでも自ずからどんどん不幸になるばかりで、
防ぎ止める具体策などないのです。


どんな本もどんな雑誌もそうだけど、読み返すと内容は一切頭に残っておらず、
残念ながら、いつも新鮮な言葉が続く。
損してるような得のような斬新な物語。

(自分は、ひとの暗示に実にもろくひっかかるたちなのです。
このお金は使っちゃいけないよ、と言っても、お前のことだものなあ、なんて言われると、
何だか使わないと悪いような、期待にそむくような、へんな錯覚が起って、
必ずすぐにそのお金を使ってしまうのでした)


今回久々に読み返してみたら、
「道化」と称した他人との接し方にひじょうにうなずいてしまった。

あまりに人間を恐怖している人たちは、かえって、
もっともっと、おそろしい妖怪を確実にこの眼で見たいと願望するに至る心理、
神経質な、ものにおびやすい人ほど、暴風雨の更に強からんことを祈る心理、
ああ、この一群の画家たちは、人間という化け物に傷めつけられ、おびやかされた挙句の果、
ついに幻想を信じ、白昼の自然の中に、ありありと妖怪を見たのだ、
しかも彼らは、それを道化などでごまかさず、見えたままの表現に努力したのだ




それにしても、これはやっと春めいてきた今だから読めたのだと気付いた。
自分の場合、一年でもっとも人との距離を置きたくなる冬のうちではたぶん読めないと思う。

人間の持つ「弱さ」の掘り下げ方というのは、
東北人の重たさみたいなものであるなあと(勝手に)感じます。

すすめられて、それを拒否したのは、自分のそれまでの生涯において、
その時ただ一度、といっても過言でないくらいなのです。
すすめられて拒否すると、相手の心にも自分の心にも、
永遠に修繕し得ない白々しいひび割れが出来るような恐怖におびやかされているのでした。





『如是我聞』という太宰治の評論にあった言葉。
<本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である。>

トイレや風呂の中で本を読むのが好きなのは、
ここでいう「孤独」になれる希有な時間、空間だからだと思う。


唯一の例外は長岡で借りていた古アパートの屋上
朝日の昇る時間、夕陽がかげって暗くなるまで、ほとんど毎日屋上にあがっていたなあ。
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by 907011 | 2012-04-07 17:09 | Trackback | Comments(4)