山中記

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昨夜は鍋でした。

はじめての自分の田んぼ。
六日町から駆けつけてくれた助っ人マツキさんと共に一日かかって稲刈り、無事に終了。
3時頃に(二日酔いで)目ざめると全身に心地よい疲労感。

4時半に家の前に出てまた懲りもせずに稲の匂いをかぎながら星を眺める。
イスにもたれて首をもたげて空と平行になってみる。山中で見る星空は美しい。
遠くの山の上に、「青い時間」がきているのが見えた。
どこか何かに似ている。
毎朝くり返している飽きない時間帯は、
たぶんキャンプの朝に目が冴えて一人ごそごそと外に出て過ごす感覚に似ている。
山の中だなあ、山中って。

「こうやってかく汗はやっぱり気持ちいいよね」と、
軽トラに稲を積んで上る山の途中でマツキさんが言ってくれた。
激しく揺さぶられたらほどけそうな把が多少あるのと、台風が来るらしいのでそれは不安。
稲刈り手伝いの合間の時間にまたいろいろ用心しなくては、週末。
日本農業新聞は水曜日のからたまってしまって困った。

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昨夜は久しぶりにじょんのび村の温泉につかった。
眺めは悪いものの、暗闇の露天風呂もまた良し。
それにしても、じょんのびの内湯の天井はすごい。あれだけでも一見の価値ありだと思います。

なかなかにのぼせて洗い場で冷たい水を浴びながらぼーっとしていたら、
鏡越し(鋭い角度で)に一人のおっちゃんが上がって脱衣所へ行くのが見えた。
見ようとして見ているわけでもなく、ただただぼーっとしていたら、
無意識のうちに焦点が合ってしまっていたらしい。
なおもぼーっとしながら、鏡を通して、その先の脱衣所のガラス戸を通じて、
おっちゃんがこっち(洗い場)向きにパンツをはいていく様などにフォーカスが自動的に合ったままだった。

ニンゲン、視線を感じると、その感じた先をふと見るもので、
ガラス戸を通して、鏡を越して、ぼーっと口を開けたままの自分と視線が合った気がした。
単に好意もなく、もちろん悪意もなく、ただのぼせていたのだけど、
そうして目が合ってしまうと、悪いことをしたような妙な気分になってはっと我に返る。
何ら意味のない時間と妙なタイミング。
散歩中の”運古”をしている犬と目が合った時みたいなやるせない気分になる。
何となく意味がありそうで、でもまったくない「両者の焦点の一致」。
意味がないまま、互いの失意が交錯した。

15分くらいしてから自分も上がって脱衣所でパンツを履き、
曇ってよく見えないガラス戸の先を眺めて、ふと思い出し笑いをしながら綿棒で耳の穴をほじくった。

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今年はくん炭が焼きたい。
いっぱい焼けたら、畑だけでなく、来春の雪の上にまきたい。花咲かじいさんの雪上版。
秋は有機物がたくさん出て、食べること以外にも実りを体感できる。

雪につぶされながら冬を越す大麦とのらぼう菜をまいて、
あとは古い余り種を泥団子にしてばらまいてみよう。

今日はマツキさんと一緒にできる範囲で高柳ぶらり一周して、昼から少し事務仕事で静養。
マツキさんとは去年の秋に林業の講習で、二人掛けの座席が隣同士になった。
年齢こそ離れているものの、似たようなところがあって(失礼)、馴染みやすい。

台風が来る模様。
できる備えを少ししてあとは成るように。ごゆるりと。

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by 907011 | 2012-09-28 05:24 | Trackback | Comments(0)

雷及収声

かみなり すなわち こえを おさむ。

吐く息白く、布団から出づらい季節になった、早くも。

夜明け前の青い時間があらわれるのが遅くて、日暮れも早い。
4時半に外に出ても暗く、星が瞬く。山中で見る星空は美しい。

家の前が稲の香ばしいにおい。
朝露を吸ってなおさらなのか、闇で何も見えないから嗅覚が澄んでいるためなのか。
近くに虫の声、少し遠くによくわからない生き物の鳴き声もした。
ケモノの気配を感じながら、稲の香りと星空をどこまでも自由に堪能。

9月25日にヒナが一つだけ孵った。
命名「くにこ」。
とりあえず雌の名前を付ける慣例。どうかクニヒコに変わりませぬように。
夏に生まれたヒナ4つも、すでに2つは尾が長くて雄々しい。

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天気予報は難しい。
雨にやられながらの週はじめ、遅ればせながらの稲刈り農繁期。肩が張る。
昨日は初めてコンバインに乗った。ヲクサのでっかい田んぼを気持ち良く刈っていく。機械は早い。

もうすぐ助っ人が山中に駆けつけてくれて、ツキヨメの田を二人で手で刈る予定の今日。

田んぼのない非農家の家で生まれ育った自分が、
こうして田んぼを借りて、自分の米をつくることがなんとも感慨深い一年。
仮に自分が一人で田んぼをやりたいと駄々をこねたとして、
本当に何もないところからやろうとしてもできない。
木を切って、根っこを抜いて、岩を運んで、石を拾って、平らに均して、水を求めてetc.

ご縁あって住んだこの土地の、累々の先祖やそれを受け継いできた村の人たちの生き方があって、
そこにふらりと自分が来て借りて、苗を植えてわいのわいの言っている。

自分にはこれから何ができるんだろうか。
とりあえずわいのわいの。



思い出したら、思い出になった。

糸井 重里 / 東京糸井重里事務所






 「集中」というのは、
 他の人が他のことに「集中」してくれているという、
 ある種の依存関係によって成り立つ。
 つまりは、「集中」というのは、
 「分業」というしくみのひとつの部品なんだ。




月曜の雨に当たりながらお父ちゃんと少し予行練習をしてはざがけしてみたら、
かけ終わった稲の美しさに感動。そのまま見とれながらもたれながらビールを呑んだ。

明日の朝はさらに感動的だろう。
1年後はどうなっているんだろう。
来年の今日の自分の姿は想像しにくい。
得意のゆるやかに、でも相変わらず節操なくあれこれと。

自分もまたお天道様の下でくるくるあわあわと回っている。


「考えればおもしろくなる、
 考えないとおもしろくならない」
これを、覚悟しなきゃいけません。

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by 907011 | 2012-09-27 05:16 | Trackback | Comments(0)

鎌を研ぐ。

ここに来て雨降り続く。
お天道様、風神、雷神。
ここらの人たちは雷のことを「かんなさま」と呼ぶ。

同じ一つの国にあって、さまざまに方言があることが面白いなあといつの間にか思うようになった。
ついこの間までそんな感覚は全然なかったのに不思議とそう思うようになっていた。
それぞれの呼び名で指される”そのもの”や”このこと”についての想いや肌触りのようなものが、
微妙にそれぞれ違うように感じられる。それが何だか少しずつ面白い。

方言なんてものを、昔(進学して県外に出た時など特に)は、「面白いなあ」とは感じるはずもなくて、
むしろ逆に、「滑稽」に思えた。
滑稽なもの。けっこう恥ずかしいもの。うとましいもの。
同じものを指す言葉と言葉が、同じ線の上には立ってなくて、距離が開いている感じがした。

違うということは、恥ずかしいもので、
同じということは、安心するものだった。

「面白い」という言葉を眺めて、字の通りに考えてみれば、
”目の前が明るくなるようなこと”なんだと思う。
だから、「面白さ」は、「知ることの面白さ」なのだろう。
好奇心とか関心を持って、それが満たされていく感覚。

方言を面白いなんてように思えなかった自分の方がはるかに時間が多いから色濃くて、
でも、そう思うようになってみると、その時間の迫り方はもっとずっと濃くて、
たとえば山菜についてもそれは似たような感覚にすとーんと落ち着く。

 * * *

昨日はコミセン主催の高柳町縦断駅伝大会でした、第27回。
見事な雨降りの中、石黒をスタート。
以降7区間に渡り、からむし街道~じょんのび街道をタスキがつながれた。
雨降りだったけど、各集落の沿道に応援の人たちが出て傘をさしながら応援し続けていた。
地元高柳中学生3チームは、なるべく自分の集落を走るように区分けしているそうで、
そんな姿を見ていると、駅伝大会も存在意義のあるものなんだなあとしみじみ感じた。

先週までそんな駅伝関連の仕事で、『はじめてのイラストレーター』という本を片手に、
すでに勤務時間超過で10月分を働いていた。
今週からどーんと休もう。
「いったん山中から出てきてください」と言われるくらいに田畑にはげもう。
・・・という矢先の降りやまない雨。まいった。

それでも今日は昼から数時間だけ、手刈りを始める予定なので、
玄関前に置かれた桶にたまった雨水で鎌を研ぐ。
鎌をじーじーと研ぐといつも、子どもの頃に読んだ(聞いた?)、”やまんば”を思い出す。
思い出してはまた忘れる。忘れてまた砥石を使ったころに思い出す。
頭のなかのほとんどのことは、自分の場合そういうものかもしれない。
そういうようにできているのかもしれない。


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前回の雨降りで黒ゴマの若いさやが知らないうちに発芽黒ゴマになっていた。黒ゴマもやし。

去年絶えたと思ったところに数本残っていた黒ゴマを自家採種して春に播いた。
種採りは自分のやり方として続けたいもの。去年のゴマとは見違えるゴマが育った。
ただし、種採りはちょっと手がかかるし、
俺みたいにごく少量栽培だと、まともに育ったものは種採り用になるので、食べるというのは後回しになる。

だから、いまだにここの畑では、「収穫」は種を採ることを指すようだ。
毎日もらう野菜や総菜や、その他恩恵に預かって、食べ物を食い飲みする。
これでいいのか、本末転倒じゃなかろうか?と、たまに自問するけど、
それでも続けてみたいことだから、ひっそりと静かに続けてみる。

「続けたいもの」という動機は、強い。
時間とか重さとか軽さとかいろいろすっ飛ばして、静かに淡々と、ただ強い。

続けたいと面白いは似ている。
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by 907011 | 2012-09-24 10:45 | Trackback | Comments(0)

位置エネルギーと質量保存。

もう先々週のことだったか、”ソウジロ(そうじろう)”にもらいものの梨を2つ届けた。
杉の木の間と畑を抜ける、昔からの”歩ける道”をけっこう下って、けっこう上って、
ちょうど等しいくらいの高さにある、ソウジロの玄関にたどりつく。

 * * *

今朝。
ソウジロに呼ばれて、ナスとピーマンを1袋と、梨を2つもらった。


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たとえばウチがどっさりと梨をかかえこんだところで、いずれ腐らすのがオチかもしれない。
原始的な狩猟生活で、獲った肉を腐らすように、
需要を供給が上回って。

自分なりに貨幣とか通貨とかを考えるときには、
イメージとして、原始的な石の通貨(マンガで目にしたようなヤツ)を考えることが少なくない。
毛皮をまとった人が、でっかくて丸い石をゴロゴロ転がしながら、
マンモスの肉的なものと交換するような。

あの石の通貨があることで、「保存」という意味がぐっと色濃く出てくるんだよな。
買い手はその当時としての価値ある石通貨を差し出すことで、代替としておいしい肉が手に入る。
(ついでに狩りによる危険も避けられる)

狩りした人は、肉を余して腐らせずに、しかもいったん石通貨として、
ケモノの肉(狩りのリスク等を含む)の「価値」を保存できる。
石通貨、腐らない。肉、おいしい。冷蔵庫、いらない。お互い、よろこぶ。日本語、片言。

で、狩りして石通貨を手に入れた人は、後日それをゴロゴロ転がしていって、
別の食べ物を手にすることができる。
自分は狩猟生活でなかなか採りにいけない山菜や果物、田んぼの米、
狩りに出ないときには、別のケモノの肉を買うこともあるかもしれない。

その際、通貨(価値ある石)は「保存性」という意味で、
確かに信頼できるものとして強く存在し得る。

立ち位置や時間を超えて、価値が移動する。


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なーんてことを、
『ナニワ金融道』全10巻を読み終えては、矢継ぎ早にまた1巻から読み返したりしながら、
思ったり、思わなかったり。
マンガにすっかり感化されて、我が家ではニセ関西弁が横行しています。

写真は糸魚川のヒスイの源流。
先日、半分仕事(移動費負担)・半分遊び(自腹で海の民宿)で行ってきました。
すごいね、糸魚川のジオパーク。
東北日本と西南日本を分ける壁。おもしろい文化の融合点、文化衝突のような列島の断層。

フォッサマグナミュージアムという石の博物館もありました。
家庭菜園、盆栽などを経ると、ニンゲン、最後は石にたどり着くらしいです。
「ほ~、この石は」、となるらしいです。
墓に入るのと根源的につながっているんだろうか、石。


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by 907011 | 2012-09-20 20:09 | Trackback | Comments(0)

トウキチ豆。

ここ二日ほど強い風。
いよいよ稲が寝転ぶだろうかと気をもんで、何度も見に行ったけど特に変わり無し。
健康的な良い稲ができたなあと、じつにこの一カ月ほど毎朝見に行くたびに感慨にひたりながら眺める。
正味10分くらいの朝のひととき。

よそはすでに稲刈り最盛期を終えている。
今年は年寄りいわく、「今まで見たことないような夏だった」らしく、
田植えは少し遅かったのに高温無雨で充実が早まった。

うちは今週の土曜か、来週平日に稲刈りの予定。
またお天道様とよく相談して。
ここに来て、まだ青い穂が後から後から出てくるけど、えいっと刈るより仕方ない。
小屋の一番奥に眠っていたバインダーを引っ張り出してもらったけど、
結局、手刈りしてはさがけすることに決まった。

分からないからこそ手で、というのはここ何年か作業の際に意識してきたことなので、
やっぱりそれがいいと思う。
特に力仕事でもない限り、なるべくあらゆるものを素手で触れるようにしている。

繰り返し繰り返し触って、指先や皮膚からできる記憶がもしあるとしたら、
それをなるべく防ぎたくないなあと思うと、我ながらなんとなく腑に落ちるので。

鈍感な自分なりに、もしそうして五感を通してできる記憶があるのなら、
それはただ見たり聞いたりして、言葉あるいは情報という形でする記憶よりも、
後後には存在としての強度が確かな気がする。




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田の畔に植えた、「藤吉豆」。
山中在来の晩生(おくて)の豆で昔、”トウキチ”のじさが出稼ぎに行ったときに手に入れて、
それから以降、100年以上(家人いわく)、この山中でつくり、受け継がれてきた種。
甘みと香りのある枝豆。

何でもうまいものは晩生のものが多い、と誰かが言っていたけど、
たしかにその土地の在来種は一般のものと比べてみて晩生が多いように感じる。
「大器晩成」というありがたいフレーズにありがたやとすがりながら一生を終えるんであろう自分には、
在来種とか固定種とかこうした晩生の作物という方が、(毎度ながら勝手に)親近感を抱きやすい。

朝に田んぼを見に行ったついでに藤吉豆を刈って、軽トラに積んで家でさやもぎ、選別。
袋に入れて、百姓の蕎麦屋「ふかぐら亭」(昨日から稲刈り休み中)で売らせてもらった。

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もともとの種は、春に”そうじろ”のトクイチさんにもらったもの。
苗をつくって、畔にただ植えただけなので、手間以外、お金も資材も何も掛かってない。
「無農薬・無化学肥料」という字面が良かったのか、おかげさまでみんな買ってもらえて良かった。


今年の種をとって、
自分なりにしっかり受け継ぎ、遺して、手渡していきたい。
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by 907011 | 2012-09-19 05:37 | Trackback | Comments(0)

長月。

「夜長月」が短くなって長月になったのだという。

酒をくわぁーっと飲んで、かーっと寝るもんで、
夜が長いとはとくに感じないけど、
夜明けが遅くなっているなあとは切実に思う。

すごく久しぶりな感のする机での仕事や、
(俺にしてみたら)不特定多数の人たちに会って話をする仕事。
解決したらいいよなあ、改善できればいいなあというお題は、
どの職場であってもそうであるように集積している。
でも、まあどこにあってもそうだけど、マイペースに働かせてもらってます。

星と月の下のまっくらな4時に外に出て座ってみたら、
カボチャやオクラの花を毎朝ていねいに回る蜂や虫も寝ているようだった。

静かにストレッチをして身体を確かめるように、
ここ数週間にあったこと、精進時間のことなどを振り返ってみる。


「みんな」という言葉の内にふくまれる、「ひとり」という単位。
それぞれ、”ここ”に居ながら、
居ながらにして、でも、日常のここで話すことや、想うこと、眺める先や、思い出すことというのは、
けっこう「遠くのこと」や「外」なのだなあと気付く。

選んでいる言葉が、やっぱりそうだもの。

遠くのことを想ったり、思い出したりしたいように、
ひとりの脳みそそれぞれは、そういう風にできているのか、つくられてきたのか、そうつくってきたのか。
案外、そういうものなんだなあと思った。

ひとりだから、すこし遠のくのか、遠くまで飛ばすのか、
みんなだから、ひとりとひとりとを、こことこことを引っぱり縮める力があるのか。

食べ物だって近くも遠くもあるのだもの。


ぼんやりとした、夜長月の朝の鎮まる時間。
虫どもに続いて、蜂の群れに出遅れて、
ニンゲン、ひとりずつとみんなの朝がはじまる。
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by 907011 | 2012-09-05 05:48 | Trackback | Comments(0)