山中記

<   2014年 11月 ( 13 )   > この月の画像一覧

オクサ水利組合。

小さな自治を重ねていく。
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山中集落の低いところに溜め池があって、
「どう」と呼ばれている(洞?)。
集落の側溝を血管のように脈々と下った水がこの大きなどうに集まるが、
夏になると一度干上がる。
昔は鯉やフナも泳いでいて泥すくいをしたらしいが、今はザリガニが居る程度で、
夏に枯れる頃、タヌキが夜中にザリガニを食べた残骸が脇に転がる。

 * * *

そもそも、自治という言葉それ自体が「小さく」在ることを意味している。
大きな自治には「自」の理も利も薄らぼんやりしてしまう。

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このため池の水が、山中一の団地化された大圃場「オクサの棚田」にポンプアップされる。
オクサには近代化された田んぼが並ぶ。
しかし、水が少な過ぎて棚田の場所によっては水がまったく回らず、
不足した分を溜め池からのポンプアップで補う。
「水代」は安くない。

山中に居ながら、現実化しているという世界規模の「水戦争」も頷ける。
昔の水喧嘩(と雪喧嘩)の話は今聞く分には面白いけど、
当然この溜め池のようにポンプなどなくて、朝昼晩に天水を待ちわび胸をかきむしったわけだから、あまりに切ない。
相似形ではあるにしても、昔に聞く文化が同じ村落内での水争いと、
異文化世界どうしでの喧嘩(大雑把な「否定」の上書き)はあまりに異なる。

戦争のことはいったん置いといて、
前回の晴れた午前に、水利組合長のニイチロウさんと二人であれこれ冬支度をした。
ポンプは凍結破裂しないように、いろんなバルブを開いて水を抜く。
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下の溜め池から、山のオクサの棚田のてっぺんまで
ごっつい管がつながっているわけだから、
この水抜きも相当に時間を要するので、
その時間にオクサのてっぺんまで移動して用水の掃除をする。

日陰は途端に寒くて、ぐっと身が縮まる。

全然関係ないけど、
山中に来る前、長岡に居た時に冬は味噌づくり教室のなんちゃって先生をしたりしてました。

話の流れの中で決まって
「昔の台所は北側にあって保存食に向いていた」というフレーズを口にしていたけども、
口にしながらも我ながらその意をよく実感しておらず、虚しく思っていた。
我が人生の内なるテーマ「自己矛盾」。

そんなこんなを忘れていた先日、
たまさか目にした織物工場(製紙工場?)の記事にぴしゃっと膝を打った。
その辺一帯の工場群ではすべての窓が北側の天上についており、
それは東でも西でも南でもなく、唯一
「北側から入る日光は強弱の変化が少なく安定しており、製品にブレが生じにくいから」だという。
写真家がこだわる入射角と反射角のような話だった。

自分がひそかに真意を知らぬまま繰り返していた「昔の台所、北側」トークには、
家の中で光が射さない暗い印象を勝手に持ってましたが、
さにあらず。すげえぜ、北側。
これからはもう北側には足を向けて眠れない。となると、北枕率が3分の1まで上がる。

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「オクサ」という圃場の名について、想像を巡らせてみる。
現在の棚田がつくられる前には、
養蚕のための桑畑が山一面に広がっていたと聞いた。
重要な収入の一つであった蚕のことは「おかいこ様」と崇めて呼んで、
家の天上やあちこちがお蚕様やその餌となる桑の葉のために使われたのだという。
つまり、オクサは「御草」であるかも知れない。
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小さな自治をする。

何しろその季節に一回ずつ、
つまり年に一度きりの作業が輪転されて自治を成しているので、
毎年それぞれ任に当たる”我ら”ではありながら、
「はて、こうだったっけ?」と話しあいながら遅々として作業する。
(一つの終盤になった時に「あ!違う。逆だった」という元戻しパターンもよくある)

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小さな自治を重ねていく。

そのための備忘録でもある。
一つが終わり、一つが始まる。
冬の季節の中に来春を重ね見ながら、今日も淡々と暮らしは紡がれていく。

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by 907011 | 2014-11-28 20:32 | Trackback | Comments(0)

新しい『三方よし』。

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                              「住んでよし」

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                              「訪れてよし」

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                              「出てってもよし」


山中が生んだ「地デザイナー」イサオさんのメール。
高柳では「住んでよし、訪れてよし」をキャッチフレーズにしてきましたが、
近江商人の三方よしにならうともうひとつ足りません。
もう一つはなんだろうと友人たちと飲みながら話していると
「出てってもよし」はどうかとなりました。

「出てってもよし」とは
高柳を出ていっても
そのことを恨んだりしません。
いつでも帰ってきて顔を見せてくださいとの気持ちを込めたものです。



大センセイからの返信。
「出てってもよし」
スバラシイ!!!!
「逆説」・「毒」・「ユーモア」がちりばめられ
「住んでよし、訪れてよし」のメッセージを
10000倍にしています!
ぜひ!使っちゃってください。
(梅原真)
  <『役場のイサオさんと梅原先生との往復書簡』(未刊)より引用>

是非!
使っちゃってください。

Good balance triangle!


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by 907011 | 2014-11-26 07:52 | Trackback | Comments(0)

山中葱。

前回の晴れた日。
旧居と新居(徒歩10秒)の引っ越しの合間に、
2つの家の真ん中にある畑でネギを起こした。

(色々やることが多くて、引っ越しは遅く緩くぼちぼちやってます。
 まだまだお茶も出せません。)
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写真右上の白い物体はモミ浴びをしながら昼寝する弱雄鶏もみお。
「弱さゆえの自由」の権化。

春にマツナエさんから苗をいただいた”山中葱”。
思っていたより、いいネギになりました。

いつかアイガモどもに縛りつけて、
「それはカモがネギを背負ってやってくるようなものだ」を具現化したい。
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土寄せの代わりに畑で刈った季節ごとの草ともみ殻をどんどん重ねて、
白い柔らか部分が伸びた。
そのまま食えるんではなかろうかと思える、ええ土となった。
鶏たちを眺めていると本気で「この土、ニンゲンのお父さんもちょっと食ってみようかしら」としばし熟考。

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やおら昼寝から起き上がったもみおがネギとネギとの間で草を食いミミズを食い土を食う。
草虫を食らわば土まで。

しかしこれこそまさに、動く「ねぎま」。
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新屋敷は眺めが良い。
山をじーっと眺めるのに良い、というか山しか目の前にない。
これぞ山中に暮らす醍醐味であり、下界に下りるのは「野暮用」となり、
いかにしてなるべくこの山のものを享受して山中で暮らせるだろうかと思案する。
思案の山。
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古屋敷(家人が自らの生家をすでにフルヤシキと呼んだ)の二階で我が子・ガクは黒豆と遊ぶ。
この子の記憶にはこの屋敷ははたして残るだろうか。
その頃まで頑張って継ぎましょう、山中豆(黒)。

ワタシが子どもだった頃、
秋田の実家ではおせち料理(黒豆煮とか?)は正月に食べるものだったと記憶してますが、
高柳に暮らしてみたら、大みそかに食べる風習らしい。
最初見た時はフライング(早弁でつまみ食い)感覚が凄かったですが、そういうお節もあるらしい。

 * * *

ガク1歳半は生まれて以降、高柳の首都・岡野町で暮らし、
ワタシは山中で一人、山に話しかけたりしながら暮らしておりましたが、
間もなくガクも晴れて山中で暮らす運びとなりました。いきなり冬。

アナタの一膳が、山中8年ぶりの育児を後押ししてくれます。
買って。山中米。
・・・こういうのは思わしくないか。(関原講話にあった「利己的」文句になってしまう)。


思えば、高校の時に「大屋敷」君という同級生がたしか居たはず。
今思うと、すごい姓だぜ大屋敷。
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by 907011 | 2014-11-25 06:23 | Trackback | Comments(0)

売れてます。

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昨朝。
「山中米」を精米しました。

実は梅原真デザインの山中米ラベル。
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塩沢の「麦麦ベイク」さんにちょっと配達。

看板せがれ・カズ君が現れ、「はいっ」と鼻紙を手渡されたかと思いきや、
自作のお花でした。
麦麦さん入口のネコもよく見たら可憐な花が飾られておりました。

カズミチの乙女な部分を垣間見た。
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無農薬、無化学肥料(自家鶏ふんをぱらぱらっと)、天日干し。
人と鶏とでつくりました。
「山中米」、今後もごひいきにお願いします。
2kgサイズなのでお歳暮、遣い物に是非。

「安心」のために、袋の裏面に精米日を記して貼ることにしましたが、
俺の手による達筆(超個性的)な字体で書かれているので、
マスキングテープ(貼ってはがせる)を使用してます。
ご安心を。

 * * *

小型の精米機を買ったので、
いま話題の胚芽米から、8~2分づき、無洗米、もちろん玄米まで
数量も含めてリクエストしてもらえれば適宜精米してお渡しできます。
大きめの犯罪以外は何でもやります。

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我が家でいまもっとも弱いであろうオス鶏、もみお君。
もみおは弱い(活発には動き回らない)がゆえに、
自由にネットやゲージの外に放され、ゆっくりと散策を楽しむ。

一通り日向ぼっこなどをしながら、徐々に玄関にやってきて、
「引っ越したのかな」とのぞく。その後、上がって畳に座っていたりする。

弱いから、好きに動けることもある。
ちなみにニンゲン界の半径数キロメートル内ではワタシが最弱なオスであります。
弱い、かつ自由。

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「入っていいのかな」と新しい玄関ものぞくもみお。

”隣りの空家”は新たな住居と成り変わり、
我らの家は「隣りの空家」に成った。


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by 907011 | 2014-11-23 06:34 | Trackback | Comments(2)

memo

18日。村普請。
午前(8:00~):取り付け道路の草刈り。
午後(~15:30):村内の冬支度(二班)。

草刈り作業は個々の空間となることが多いので、
日曜日に視察に行った「かみえちご山里ファン倶楽部」での関原剛さんのお話を
いちいち反すうしながら進む。

3月までの仕事で使っていた鞄の中に一枚、
農業新聞のコラムの切り抜きを帯同していて、
それがこの日講話のなかでも触れられていた関原さんの「シェルター」論だった。
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自給(可能)性を持つ村落がいかにして消滅から存続の道を探すか。

 * * *

1000年以上続いた「口伝」の生存技術
(個々の暮らしだけではなく、例えば山から引く簡易水道などの村落を保守・維持するための共同活動)が、
今の暮らしにもつながっていることこそが、その村の「個性」。
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それらの生存技術をノスタルジアで博物館化せず、
合理的なものとして再評価し、今に「使われる場」を創生(新再生)する。

「場」の持つ力がある。
その場所での間尺に合った生き方がある。
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かつて村落は「きたない」「きつい」と散々にののしられ傷つけられた。

そこから地元学の出発点として良いものを掘り起こし、「片目の再評価」がされてきた。
活動を瞬間性から継続性へ展開するためには、
もう一方の片目を開いた再評価をすることになる。
「良きもの」だけでなく、「悪しきもの」を
驚きだけでなく、痛みを
快と不快、光と闇を。

それが抽象でない「具体の土地の力」。
その村落やニンゲンの具体。
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場の力はたしかにそこにあり、
それを小さく活用していって、地域の人(記憶)にあらためて感じてもらう。

観光交流として、その土地が持つ「地力」以上のことをした瞬間に逸脱する。
実村の周りにイメージの「幻村」をつくってしまう。
編集された幻村は、(退避的な)憧れを持つ者のイメージと合致し、
観光的にイメージだけが消費され、
具体としての実村の生活は相容れないもの(ミスマッチ)となる。
編集性は幻村をつくる恐れがある。

経済合理性よりも、生存合理性を。
単なる娯楽を提供するのではなく、生存技術習得の場になりうるか。
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「逆シェルター」

いま、村落は
過剰(非自然、非風土性)な都市化による文化の浸食を避ける
”シェルター”に成り得るのではないだろうか。

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素朴な観点でいること。
やがて「善し悪し」すら持たず、具体を見る。
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「箱舟」

山間地棚田のように、
稲をつくる場という「船」の中に、
多様な文化・民族が乗りこんでいるさま。




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by 907011 | 2014-11-19 06:10 | Trackback | Comments(0)

始末の極意。

雨降りが続き、
二階の部屋でストーブに背中をあぶられながら豆を選るこの頃。
ただ、豆の始末をするというよりは、その傍らで流す落語を聞くのが楽しい。

竹の水仙
阿弥陀池
坊主の遊び
火焔太鼓
茶の湯
青菜
包丁
始末の極意
禁酒番屋
猿後家
新聞記事
子は鎹
はてなの茶碗

動画を引っ張り出して、出てきたのを上から順に聞く。
目から脳への情報は雨降りの外の景色と、豆の枝と鞘と種ばかりなので、
こんな日ばかりは”聴覚”が主導権を握って、
頭蓋の暗闇に座っている脳へ情報を送り続ける。

かくして脳は、かの時代の長屋の世界に順応しようとする。
愛すべき長屋の住人たちの、手違いとユーモアにあふれた社会。

豆の種子を指で挟みながらときどき、(フフ)と笑わされ、
同じ文句を真似て言葉にしてみる。
よくよく聞けば、元来笑かす話ばかりが「落語」ではなくて、
人情味あふれる言葉の綴られ方に感動する。

落語はどうしようもない「ニンゲンの業の肯定」だとも言い換えられていた。
愛すべき自他の下手もカネも犬猫も死もすべてひっくるめた、肯定していく世界。
こうして物語は伝わっていくのだと、クラシックの中にモダンを観る。
古いもののなかに新しいものを重ね見る瞬間の感覚が好きだ。
ヒトを笑わせるというのは、ヒトを泣かせることよりももっと難しくて奥の深いことだと思う。

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青豆、黒豆。茶豆と藤吉豆。
枝豆で食べて美味かった豆は種採り、ほかは味噌にしてもらおう。
来年は豆をつくり、またこの時期にでも腹いっぱい愛すべき長屋の世に没頭していたい。

 * * *

牛や果物の育成にモーツアルトの曲を聞かせる農家がいました。
うちの米はときどき名人の落語を聞かされてます。
買って。山中米。

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by 907011 | 2014-11-16 06:51 | Trackback | Comments(0)

吸って、吐く。

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土木部の毎日。
ニンゲンは自然に内包されている。
今日は雨風が強いので休部にしたい。
寒くなると、ストーブの反射された火に背中をあぶられながら
聞く落語に興味津津となる。
そしてだいたい何かをつまみながら寝落ちしている。ダイエットは明日から。
俺も箸をもたずに扇子だけ持ってれば良いのか。妄想晩酌。

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先日の「狼煙部」でつくった草木灰を山の畑に還す。

大根の種採り用にと掘られたものを、
他の環境からやや離れた小さな孤高の畑に移植した。
孤独と孤高は異なる。

ものの本では植え戻しは北向きに寝かせてやると良いらしいが、
果たして雪が消えていかほど残られるか。
ただ、火遊びは楽しい。
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石黒に行く釜坂峠の紅葉の色々に今年も圧倒された。
戻って山中。
ふと手を停めて顔を上げてみて、見たり聞いたりした木々の話が面白い。
ブナは根っこが浅いので山の表土を流れる水を吸って蓄えるのだという。
根を浅く張り巡らすために、ブナの木の周りには下草が茂りにくくなる。
いわれて山に目をやれば、たしかに遠目にもブナの周囲数メートルは綺麗に見える。

「その代わりブナが倒れる時は、折れるんじゃなくて根ごと倒れるからなあ」
と御義父は煙草に火を付けながら、付けくわえた。

すでに新しいシーズンが始まった山の田んぼ。
今季は山の木々の観察をしながら倒木で薪をこさえて山中資本主義の習い初め。
木々が含む炭素は、その木が育つ過程で吸い上げてきたものなので、
燃やして放出されるCO2は本質的に環境に対して増えるものではない、
と薪ストーブのカタログに書かれてあって、腑に落ちた。
燃えよ、山中。
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月ユメ田んぼの貴重な隣人・”ブンキチ”さんの橋の上が終われ、骨組みだけになった。
いよいよ冬。

その後、一昨日にブンキチさんがビーバーを担いで骨の上を渡り、
上の田んぼで「スズメバチリベンジ草刈り」に挑んでいた。
(先月地面に巣を組んでいたスズメバチに、見える範囲で11カ所刺されて医者に行き回復)
御歳八十。
屈強すぎるカラダだからだ。

 * * *

眠りの浅いこの頃。
ふと、下田村に居候した頃のことを思い出したAM3:00。
とある住まいを借していただき、洗濯機がなかったので風呂で足踏みして、
二階の窓辺から水滴を垂らしながら干した秋の夜だった。
(下の階が託児所だったので夜は不在だった。)

「不確か」な自分の拠りどころの無さに、
いま想っても人生でいちばん底辺の感触を確かめていた時期となった。
10年ほど前、当人としては「挫折(大)」と自負しガンジガラメになっていたのに、
後に知人に「挫折のちっちゃい方のやつ」と指摘され、まあ10年経てば笑い話かと納得した。
自分で自分の「機嫌」が認識不可能な状態であったのだと思う。
あれから何だかんだで毎年ワタシは冬を克服できないまま過ごして居る。

あの底辺の冷たさ暗さに比べればすべてに恵まれた環境に居る中で、
だからなのかどうなのか、脳みそが何か「私的に孤高な自虐ネタ」をたまに欲しようとしている。
のど元過ぎれば熱さ忘るる。
自分はサディストであり、同時にマゾヒスティックでもある。

 * * *

「上機嫌」であれば大体のことが上手くいく。
いろいろな感情が自己処理されることも含めて。
決して遠くもなく、近くもない、「ていねいな暮らし」は、
憧れでも夢の向こう側というものでもなく、そんなジョーキゲンの鍵と見た。

「丁寧」という字の順がすでにていねい。
鍵カッコの多い文章はあまり丁寧な印象を受けない。
「ていねい」は難しい。

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by 907011 | 2014-11-13 05:53 | Trackback | Comments(0)

秋冬春夏。

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自分の主戦場であるところの月ユメの田んぼ。
稲始末が終わって一段落すると、
そこから来春の田植えに向けて新しい”今季”が始まる。

秋冬春夏。
およそ一カ月近くも稲刈りに難儀したので、
特に苦しんだ田の排水を改善すべく土木部の日々。

山のてっぺんから山肌を出たり入ったりしつつ縫った水は渋りながら田に入り込み続ける。
山と田んぼとの仕分け作業。
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山と区切りを付ける。
山にそのまま米を人工することはできないから、
山の中につくられた田んぼを、ヒトは山と区切りながらつくる必要が生じる。

ひたすらスコップや鍬で田畔(土側溝)を深くする。
田んぼの土よりもぐっと深く低くしたいが、
最終的な水の落とし口やジョイント箇所の土中に埋まっているパイプの位置に合わせ、
完璧には深く掘り切れずに駒を進めたり、妥協も時に生じてくる。
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すごーく地味な仕事なので取りかかるまでに(特に精神的な)アイドリングが要る。
俺であればこうして何か考えを文字に綴りながら現実逃避的にまた違うことを考える行為だったり、
鶏の水を替えたり執拗に追いかけ回したり、
必要以上にいっぱい山着を着て身体を暖かくすることだったり、
小さな畑を一周歩いてブツブツつぶやきながら眺めることだったり、
徐々にそれらの「ルーティン」(型にはまった手順、やり方)は儀式化されていく。

地味な作業ではあるが、
実際に難儀をした田んぼの排水がわずかずつでも改善されようとするのが目に入って来るので、
やり始めるとすぐに時間を忘れて没頭する。寒いから休憩も要らないし。

本当に微々たる変化であり、大きな泥沼にスコップ一つでちょこちょこ何かしている状態なので、
決して前人未到一目瞭然空前絶後的に上手にはいかないだろうけども、
また雪がとけて以降にも少しずつ季節を重ねながら繰り返していくことで改善されるでしょう。

自分の手でする作業の一部始終とその効果(水がちょろちょろ動いたとか)を見ながらすると、
手の仕事の進み具合が少しずつ新たな情報として目から入り続けるのが面白い。
大きな改善ではないけど、「改善したいという意志」の可視化であり、
その目の前の泥と水のせめぎ合いを見ながら、さまざまな抽象概念を重ね見ることができる。
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別の田んぼのあるオクサで山中の小さな巨人・フミオさんが
刈った草やU字溝にたまった草木をさらって山にしていたので、
軽トラに積んで鶏たちの遊ぶところにまいてもらった。

腐葉土になる以前に、厚くしかれた草木の陰に虫がどんどん潜り込んでくるので、
鶏たちもだいぶ嬉しそうに毎日葉っぱを足蹴りしてほじくり返している。
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岳ももみ殻や泥に汚れながら鶏をやはり執拗に追いかけまわし、愛でてくれている。
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土木部への精神的アイドリング儀式の一つに、
山の畑の杉っ葉を燃やすという行為がある。
一人狼煙(のろし)部とも言われる。

最近、この漫画を目にして以来、狼煙のメッセージ性が気になっている。

男は火遊びが好き。
狼煙部の活動はつい夢中になって軽く3時間は費やしてしまうので、
身体は温まって良いが次の作業のためのアイドリングには向いていないと思われる。


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by 907011 | 2014-11-10 06:24 | Trackback | Comments(0)

自然村跡。

familyという単語は「farmer」からできたらしい。
一緒に耕し、一緒に食べる者たち。

明治初期。
日本は7万もの小さな村でできていた。
村は今でいうところの「大字」くらいの単位で、
ほとんどが60~70戸。平均人口は370人前後だった。
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1834年(天保5年)。
越後には4051の村があり、122万余りのニンゲンが暮らしていた。

これは、北陸の他の国と比べて突出して多い
(加賀768村23万人、越中1376村40万人、越前1533村39万人)。
東北と比しても然りで、羽後(秋田)1239村46万人、羽前(山形)1204村45万人。
なぜここまで圧倒的に越後に村が多かったか。

村は田を開いた結果としてつくられていった。
田が先にありきで、つまりは水のあるところを求めて山に田をつくり、
開墾に追随して住むための村が山中に開かれていった。
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この当時の村は「自然村」と呼ばれ、
現代の下流域における平場の暮らし・文化とも一線を隔す。

明治に7万あった自然村は、その後1万5千の「自治町村」となり、
昭和30年代には3472市町村へと合併が重ねられた結果、
平均人口は8千人以上の広大な自治体へと縮小(拡大)した。
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かつての地域とは、一緒に耕し、一緒に食べる者たちの集まりだった。
「文化」とは、仕事が一区切りをした際に皆で一緒に楽しむモノゴトを意味した。

付加価値とは、安易に付け加えるものではなく、”本質”の見える化である。
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<地域再生を目指す若者が戒めるべきこと>

「どうせいなくなる人間」に参加権は無い
「自分探し」に村人を利用する傲慢
「経歴」にするために時限で関わる傲慢
「してあげる」という思い上がり
「巻き込む」という言葉の不遜
「いいことをしている」という勘違いの自己愛
「温情を消費するだけ」の甘え
「環境という抽象概念」の押し付け


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「地域再生を目指す若者が心がけるべきこと」
■よく話を聞く。
■理屈の押し付けをしない。
■その土地を勉強する。
■約束を守る。
■規律を守る。
■歴史を尊重する。
■既存組織を尊重する。
■仁義を尊重する。
■しっかり挨拶をする。
■しっかり謝る。
■しっかり説明をする。
■常に筋の通った立場をとる。
■公平である。
■共同作業をしっかり行う。
■少しは何かの役に立つ。
■継続し続ける。
■こころから笑う。
■その土地の未来を信じる。


<かみえちご山里ファン倶楽部・公開セミナー「地域づくりとは何か」資料集から>

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by 907011 | 2014-11-08 07:10 | Trackback | Comments(0)

異能。

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『ピンポン』に没頭する未明(後述)から朝を迎える。
山中のもみ殻と米ぬか+じょんのびのオカラでの堆肥づくりは、
たまさか家の裏を掃除した落ち葉を混ぜたらよく発酵していた。

一つは隣りの空家にあったコンポストに入れてぎゅうぎゅうにして嫌気性発酵を、
残りはその辺に山積みにして空気に触れるままの好気性にしたら
オカラから少し変な匂いが出そうな気配だった。
これまた、たまたまその辺にあった昔の竹酢液を希釈して混ぜてみたので、
今日どうなっているかのお楽しみ。

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一次発酵がうまくいくとその発酵熱は70度を超えるらしいので、
うちの鶏たちもあまり食べてくれないもち米の”いりご”をミルフィーユ状にコンポストに挟んでみた。
久々に分解してみたら、板麹になって菌糸がもみ殻にも回ろうとしている様子。
微量の実験ですが前年までに比べると概ね良好。
試行錯誤。自分の心身を通してやってみないと何もわからない。
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昨日午前は天気良。
ニンゲンのお父さんは一喜一憂的にブツブツ言いながら堆肥を醸しており、
鶏たちは鶏たちで気持ち良く過ごしていた。
鶏たちの床も主にもみ殻。

山中米はさがけバージョンの水加減をぎりぎりまで少なくしたら、
理想的な歯ごたえ(白米も枝豆も固めが好き)の炊きあがりになった。
卵を一つ失敬して目玉焼きでどんぶり二杯食ってしまった。
ダイエットは明日から。
美味い米というのは喉を通して呑み込む瞬間に、性欲にさえ近いような快楽が感じられるという実感。
いわゆるその「喉ごし」は、アルコールの比ですらない。(私的にはじつに残念ですが)

もう一つ。田んぼに入るものが少なくなっていくと、
米もまた水や田の土に近づいていく傾向があるかのように食ってみて感じる。
味噌でもそうだけど、余計なものを省いていくことで、
生成りというかそのままの、より透明な方に行くのだと思う。

甘い飲料もいいかもしれないけど、毎日口にするならお茶になり、
お茶よりもさらにただの水を飲むことに似ている。

メタボ的な「うまい!!」の方が経済を生みだしそうだけど、
自分の想う「透明に近い」おいしいは、栽培のことを語り教えてくれそうなので、
まだまだ軸がない自分は後者の指標を大切にしたいなあと思った。
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大麦が芽吹いた。
今年は何カ所かの畑に深く播いた。
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去年までの種採り六条大麦。
これまであまりに浅く播き過ぎていてうまくいかなかったので
深く播いて親の敵のように踏んづけまくった今シーズン(梅雨前が麦にとっての秋)は
少し期待してよいのではなかろうかどうだろうか。

 * * *

『ピンポン』のことを書いてからなお熱が醒めやらず、
動画のアニメ編と映画を行ったり来たりしながら見てはウルウルっとするAM4:30。
アクマの真っ直ぐな言動、スマイルが静かに待つ姿、ペコの受け止め感にそれぞれ涙する。

「才能は求める者にのみ与えられるものではないからな」と映画ピンポンの中でドラゴンはアクマに言う。
松本大洋の『ナンバー吾』や『花』(見た目も中身も大きくてすごーく真っ黒い本)を見ても思うのは、
センスとか才能と言われるものを持ってしまった”選ばれた者”が持つ孤独や悲しみが
さまざまな言葉や偏った行動で表現されていて、
同じく映画ピンポンの中で努力の塊であった凡人・アクマには
「飛べねえ鳥もいるってこった」と言わせる一方で、
「凡人にしか見えねえ風景ってもんがある」とギャップを見せて非凡を浮き彫りにする。

「特別なヒト」の周りには、無数の特別でないヒトたちがいて、
その誰もがそれぞれの思惑、欲や野望や、自己矛盾や自己陶酔を抱えて生きている。

若い時分に記者として話を聞かせてもらった時、様々な経営者たちも一様に、
「トップに立つというのは想った以上に孤独なことなんだよ」としんみり話していたのを思い出す。

数多の凡人と稀有な非凡、異能のヒト。
ぼんくらな自分のこれまでと今とこれから。友達のこと。
そしてワタシはもうしばらくピンポンにウルウルしてしまうのだ。

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by 907011 | 2014-11-07 07:17 | Trackback | Comments(0)