山中記

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秋祭。


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10月19日、山中の秋祭。
会議と重なって前日の準備には出られなかったが、
朝行ったら神社の入り口に旗がどすんと立っていた。


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朝の「賽銭取り」の番が回ってきたので、
一家で6時に神社入り。
山中18戸のうち、神社に上がるのが困難な年寄りも増え、
地区行事は緩やかに簡素簡略化されている。
「どうにか参加しやすいように」と会場や内容を変えて徐々にハードルを下げることで、
いろんな工夫に知恵を回し合うが、
同時に、変化を重ねるために原形の記憶や意味が薄れてしまったり、失われたりすることに、
新参者の自分などは危機感を感じやすい。

とはいえ、最大にして唯一の目的は、
「続けること」にある。


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今秋も無事と収穫に感謝し、
祝詞の後にヤシロ神官さんのお話を聞く。
お神酒をいただいてからようやく「祭」の心地になる。
今年はシゲルさんが奉納してくれた地酒『高柳』が振る舞われた。
神社のなかで飲むお酒は、春・秋祭礼の2回だけだからなのか、特別にうまい。
うまいけど、お片付けがあるので適量で踏み止まる。

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立てた旗を、立てたときの新しい作業から逆回転して、ほどいて下ろしていく。
なにせ年に2回だけの作業なので、
毎回その都度皆のうろ覚えの記憶をつぎはぎして、この旗は立ったり下ろされたりしている。
その持ち寄った記憶の合わせ方が、集落の協働作業の際に繰り返される。

モノや手を動かしながら、記憶を手繰り寄せて、
そのいくつかが合わさって編まれていく行程は、
公民館に集まって会議だけをするときよりも、強固なものに感じられる。
というようなもっともらしいことを想いながら、
今年は春に区の総会をしただけで、その後一回も役員会さえ開いていない。
じつは俺が5月からためまくったままの会計に手をつけねば、
山中はいまだに春のさわやかな金銭感覚のままだったりしている。


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神社の手すりも片付けられて、
会計は5月のまま、集落のあちこちが冬支度を迎えている。

例年はこの後、公民館で男衆が入念に「一杯」に移行するところだけど、
今回は静かに流れ解散となる。
この秋は皆なかなかくたびれている。
が、それぞれ自宅で入念に自主トレに移行する方もこの中にいるはず。

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解散後、岩野のほこらに上る。
少し掃除をしてからお参りして、落とし板をはめ、また来年の春祭へ。

翌日、稲上げ。
「山中米」をはさから下ろし、脱穀した。




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by 907011 | 2016-10-20 06:35 | Trackback | Comments(0)

これまでの「狐」(とワタシ)。

2011
2012
2013
2014
2015(行けず)

山中移住から5狐。
だんだんと傍観者になりつつあるここ数年。

そうか、その前は長岡で普通に暮らしていたのだと、
過去の自分文を見て他人事のように思い出した。
いつも、なんでも、人ごとのようにして、忘れ流されて、暮らしている。

たまに、ヒトがだいぶん昔の文章を見たというレポートになぞって、
自分もふとあらためて長岡での体験記を読み返すことがある。
変わるようで変わらず、変わらぬようでいて変わる不安定さ。

 * * *

いろいろ挫折した後、復興という言葉になんとなく依りすがって、
長岡の不動産屋情報誌をコンビニで読みながら、車中泊してアパート探した日を思い出す。

その頃の自分にとってはものすごーく大きな失敗だとしか思えなかった挫折経験は、
他人事のように分析すれば、
「挫折(小)」くらいなのだと少しずつ切り口を替えながら眺め直すようになった。

無計画さゆえ、思い付きに等しい理想、
それと現実のギャップに割って入って進んでいくためには、
心身の体力はもちろん、手持ちのお金もまた体力と同じ。
ベランダと屋上(後に私物化する)と駐車場のついた安アパートで、
悶々とした時間が何年も続き、
否定と肯定の両方でブレまくりながら、目のまえの事務仕事を通じて、
自分の挫折感は大ジョッキくらいだと(勝手に)思っていたのに、
せいぜいジョッキ(小)かグラスビール程度の、
まだまだ挫折としてもスケールが小さいのだなとある日思った。

時間だけが何も加減しないままに流れて、
眺め直すということについて、
我が事ながら、自分がそうなれたのか、あるいはそうなってしまったのか、
どっちかはまだよくわかっていない。




狐の頃からさらに過去の10月を遡っていたら、
ものすごいタイミングで、前の職場・あぐらって長岡のボス「窯元」から電話をもらった。
今月入ってから今日の昼までずっと陶芸の窯の日炊きが続いていたのだという。
一段落して、お前の米が余っていたら俺が買うぞとありがたいことに心配してもらい、
今年はどうにか全部売り切れそうですと伝えるとそうかーと笑って喜んでくれていた。

うまくできないから、やっているようなこともある。
これは俺にもできるんだよなんて言いながら、やめてしまったこともある。

変わらぬ不安定さに揺れながら今に至り、ブレながら、暮らす。
いろんなことにひそんでいる「理由」や「意味」の部分は、
言語化だけでも表現し切れなくて、本人以外は共有できないことが多い。

綿は軽いが、50㎏分になれば重たい(そしてでかい)。
軽薄さと、重々しさと、両目でときどきは見ていたい。








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by 907011 | 2016-10-09 10:27 | Trackback | Comments(0)

無へ刈り上げ、空を見る。


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”じょうづか”のハサ場は棚田の下段にある。
稲刈りの最後にはさがけをはじめるという段取りなき非効率。
ワタシの辞書には計画性という文字が見当たらない。
押し寄せる山野の時間に対して、俺はつねに後手後手の手で後ずさりする。

むかし、相撲を見ていると土俵際にどんどん押されていく力士の足が踏ん張る時の
あの綱?(境界になっている部分)の存在は大きいよなあと眺めていたのを思い出す。
大学の時には、なんでも「概論」という文字がつけば学問になるのだなあと
良くも悪くも感心したのも思い出す。
後手後手の後ずさりも、人生続けておれば「後ずさり概論」でいける。いつかそのうちいける。
何せ押してくるのは山の時間だ、相手に不足は無し。


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6日。稲刈りラストとなる、はさがけの善き日。
朝。
大風の去った朝に”きんべ”から電話がくる。
山中Iターン農家・シゲルさんから、
「公民館のバタリが大変だってんだよ」と江戸っ子調で合図をもらい、
朝飯前に集合をかける。

「バタリ」は、言語化が難しいのですが、
雪対応できる開閉式の空間プロデュース屋根というか壁というのか。
冬は雪に押され続ける役の壁となり、雪がなくなると持ち上がって突っ張られて屋根になる。

屋根か?壁か?
バタリだ!
というスーパーマン的な壁であり屋根である。

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ちょうど朝のバス時刻と重なり、
年寄りや子ども(山中からは2人)がバス待ちをする時間帯だったので、
怪我も防がれてめでたし。

なおも天候悪く、午前はコンバインの足をひたすらに洗い続け、
午後から刈る。運ぶ。かける。日暮れにどうにか間に合い終了。
終始雨に降られた一日。
久々に山を降り、”さわだや”でジンギスカンを飲み食いして寝る。

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昨日。
対外的には「ほぼ終了」となったものの、
野球で”隠し玉”をしている最中(○さいちゅう×もなか)のセカンドの選手みたいな顔で、
じつはもう一枚、隠れ田んぼを隠し残していたので、
田の持ち主マサさんを誘って、一緒に刈る。しばる。

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漆島・ナガエさんからいただいた不耕起田んぼの苗を1,2本ずつ植えて、
あとは余計なことはなるべくせぬよう眺めていたら、
ワイルドな田(ときどき通りがかりのマサさんが草刈り)に
じつに健やかな稲ができあがっていた。

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昨日、むかれたばかりのフレッシュな?もみ殻をまいて、
これはこのまま不耕起田んぼでいこう。
小さな手づくり田んぼは数字や時間を忘れさせてくれて、楽しい。
ザ・秋晴れ。貴重な一日はすぐ終わり、再び秋雨が続く。

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運ぶ。のぼる。干す。
マサさんは下から投げるのがうまかった。
来年もやらねば。
春になれば「自分の苗」づくり編がスタートする。
山中の苗を山中でつくれたらいいなと思う。
もみ殻などの始末の部分も含め、
うちの鶏どもにも活躍してもらって循環が少しずつ目に見える化していけばいいなと思う。

生産だけでなく、消費の都合だけでもなくて、
その後にもう一段階、「廃棄」についての世界が続いている。
廃棄には発酵や腐敗の循環も含まれるとして、
我らは家を建てるのも、消費後の排せつもしかりで、
廃棄の時間や空間に対して、どんどん目を向けなくて良いように都合良く、
切り離して別世界化されて暮らしているものの、当然別の話ではない。

・・・なんていうのを、夢の森公園の建築講座の初っ端で聞いて、
本当だよなあと印象深く、感心した。

ただ便利化に便乗して面倒なもの臭いものをどうするか、
そうしたものの先を想像することがなくなるとすれば、
視聴覚は半分くらいで済ませられるとも思う。
廃棄の世界はとてつもなくエネルギーを要するからだ。
つくることよりも後始末の片付けや掃除の方が大変だと思う。
片一方の目、耳、感受で生産をし、あるいは消費し、
暮らしたり考えたり話したりしていて、
後に自己矛盾に行き詰まることがあるし、気付かずに終わることもある。

「わかること」に近付く面白さか、
知らない自由・知らない幸せか。
自分をとりまく環境(山の時間の迫り方も。人付き合いも)において、
どっちにも大きく振れながら、
でも「やっぱり自己矛盾だよなあ」という所にたどりついては頭をポリポリとかいて暮らす。


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28年産の終わりが近づくと同時に、
29年産の田んぼづくりが並行してスタートする。
もう29年の暦がはじまった。
(まだもみ殻まくくらいしかしてないけど)

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やっと、とうとう、ついに夏以降の課題だった自分家の草刈りができる。
と始めたら子が帰ってきて鶏と遊び、日が暮れた。

無と空とは違う。
次の年度との端境期の秋が雪降りまで続く。

 * * *

明日9日は狐の夜祭りです。
夜は玄関一歩出た後に服を着に戻るくらい、けっこう寒いです。
暖かい格好をして、暖かいものを食い、ビールか姫の井を飲むとすごく良いと思います。



山中にも秋祭が迫る。
今年も入念にお礼と神頼みをせねば。
酒の神様・バッカスにも今一度入念に忠誠と恭順を示さねば。

雪降りまで泣くキリギリスと化して冬支度に追われる。
「やらねばならないこと」をまず一つずつやる(しかない)、
とはキリギリス概論の肝となる部分だ。テストにも出そうだ。
いつかそのうち出る。





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by 907011 | 2016-10-08 06:31 | Trackback | Comments(0)

2become1.


満身創痍っぽい気分からはじまる朝が続いた。
「ぽい」の部分に、我ながら自己肯定と否定が相混じっている。
面倒なところだ。

自分は体力の目盛りが少ない。
小さな物差ししか持ち合わせていなくて、あわあわと暮らしているようなものだ。

回復力が追い付かなくなれば、ひ弱い体に疲労が積もっていく。
ただ、それを感受する気力の方が不足してるんじゃないか、とも疑って過ごしている。
肝要なのは気力の方で、身体は現にそれでも一日動く。
飯も酒も旺盛だ。

やる気は、やるという行為から調達される。
異なるジャンルで表現されている未知のナニガシカに、
自分の手の届かない、やる気の湧いて出るスイッチを探し押してもらおうと依存しても、
おそらくそれは逃避が相混じっている。
そんな気もする。
そんな気もするような自分を、またまた変節して
半分くらい肯定しようとする自分もいるので、まったく面倒なところだ。

2つの目があるので、なるべく
物事を肯定(おだてる、くらいで)する視野と、
同時に否定(慎重に、くらいで)する視力と、
その両方をときどきには意識していたい。
清濁併せ飲んだときにはじめて、言語は表現の可能性を帯びる。


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力不足があれば、
その不足の分を穴埋めしてる何かが作用しているということだ。
おおむね、機械であったり、電気だったり、お金を媒介するものだったり。

我らがこうして不便と言われるなかで暮らして居れば、
ともに居合わせる力のあるヒトが不足をカバーして先へ進んでゆく。

数年前、暇なときに「巨大ゼリーのようなもの」とか、
「四次元のダルマ落とし」のようなものを考えていたことがある。(三次元?)
ヒトが一人動けば、その軌道に残像が残っていく。
外気や呼気が見えにくいものでなく、
もし巨大なゼリー状の世の中だったら、ヒトの軌道が嫌なほどに可視化される。

ダルマ落としをして一段がはじかれた瞬間は、
その上と下の間に空間ができ、瞬時に埋まってふさがる。
はじかれた一段は隣りに落ちてしれっと新たな存在として時間をつくり始める。
ヒトがそれぞれの思惑をそれぞれに抱いて、何か行為をする時には、
その行為がダルマ落とし的に、瞬間的に隙間が出来ては埋まって、
しれっと隣りに新たな時間がつくられるかのように、
行為は別の「さまざま」に作用や影響を及ぼしている。

子どもの頃にダルマ落としが部屋にあったからかどうなのか、
オトナになってから、ふとあらためて
巨大なダルマ落としが時間や空間も含めて動かしているとすれば、
良くも悪くも、「仕事」という行為が、
自分の思惑を離れて誰かに何かの作用を生むこともあるだろうか、
などとぼーっと思っていたことを、思い出した。


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「働く者は儲けずに、儲ける者は働かない。」とは、
マルクスの言った有名な言葉であります、
とナニワ金融道の後書きに青木雄二さんが書いていた。

<サラリーマン(労働者)の賃金とは、労働者を労働者として維持し、
 さらに次々と続く労働者を育て上げるために必要な生活費のことです。
 つまり、労働者の生存費と繁殖費(子供を生み育てる費用)をもらっているに過ぎないのだから、
 「働く者は儲けず」ということになるのです。
 (「見せ金」で儲ける者は働かない)>

ナニワ金融道 6

青木 雄二/CoMax

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稲刈り残り2枚。
最後にはさがけ米を刈りはじめるという非効率。
「無計画」と書いてあるような顔つきで、
ワタシ満身創痍かもとヘロヘロしているあいだに暴風雨に一晩見舞われた。

28年産米、最後は「山中米」を刈って、干して、
半年以上かけて、米に会いに行くようなもんだ。





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by 907011 | 2016-10-06 06:21 | Trackback | Comments(0)

ラストイレブン。

稲刈り残りマジック11。
「ツキヨメ編」を完了し上り調子となって浮かれていたのが、すでに一週間前。
お義父様の分と委託稲刈りをし、雨でふたたび中断。

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9月おわりの30日。
快晴を活かしてガンガン進もうとした矢先、
コンバインから狼煙が上がる。
今秋三回目のスモークドコンバイン。

籾が湿り過ぎていたために、
稲株の周りで一緒に刈られ刻まれた草が難民化して、
選別に紛れ込んで入ってくるので、
その夜の乾燥機も運転停止と再稼働を繰り返し、ひーひー言わされた。

乾燥機を回してみてあらためて気付かされることもある。
抱えるたびに右往左往するトラブルを幾夜も味わってみて、
諸問題というものは一つずつが根本から起きていて連綿としているのだな、ということ。

コンバインのスモークを分解してみて原因をなぞっていくと、
その湿材の及ぼす作用(籾の選別を難しくさせてしまうこと)は、
同時に乾燥機にもつながり及ぼされていて、
そもそもなぜその田の部分が湿り過ぎて(異例の長雨も多分にある)しまったのか、
排水、中干し、稲と草の管理etc.
たまに、医者嫌いの人(俺も)がお医者の前の椅子に座った瞬間のように、
思い出してみるだけでも、
悪い作用につながりうるだけの我が要素があり過ぎて説明をためらうくらい、
耳目の痛いこと、胸をかきむしりたくなるような念にかられ、頭をうなだれる。


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鶏どもは山中の誰よりも28年産の新米コシヒカリを食べつつ、快適に暮らす。
何でも素早い”マピン”が巣箱にこもったが、卵は産まず。

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山中はいまだ稲架(はさ)を頑張っている農家が残っている集落。
それでも減りつつあるものの、たとえば朝にふらりと外に出た際、
自分が「囲まれた」ような錯覚にあうはさがけ風景は圧倒的にすら感じる。

コンバインで稲を刈り続けていると、
ふと思い付いたようなことを考える時間が蓄積されていくように思う。
秋田に帰省した際に20年ぶりくらいに思い出した中学の同級生だとか、
高校の時に自分なりに抱えていたあらゆる感情や言葉とか。

雨降りとコンバインと乾燥機に対して、
毎日目にするはさがけと太陽エネルギーの凄さを堪能する秋。
彼岸花とはさが美しく、「ザ・農山村」としての山中は
思わず手を停め足を停めて写真を撮りたくなる。

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下の”ごんぱち”畑を借りてつくった「トウキチ(藤吉)豆」。
今年もやっぱりうまかった。

枝豆とビールがあれば、たいていのことは後付けで
「万事それで良かったじゃないですか」と流せる。

枝豆を愛し、枝豆に愛されるような(?)、
ワタシくらいになるともう、豆のさやを外す段階で
実り具合に触りながら、すでにビールがごくごくと飲める。





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by 907011 | 2016-10-02 06:20 | Trackback | Comments(0)