山中記

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八日目に目にするもの。


冬に更新しあぐねている言い訳その2。
ほんとうに体たらくでいろいろ諸事情あるんですが、
一つには、「ネガティブ」な言葉を選んだり、好む癖があるから。
(だから、逆説的にみうらじゅんさんの言葉が好きなんだとも思う)




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<一歳くらいになると歩き始める。
 手をつないで歩く。その時に大人と子供の手は互いに自然につなげる位置にある。
子供はもうそこまで背が伸びていて、大人は身をかがめずともその手を握れる。
こちらの人差し指を握るあの小さな手の感触。
それを通じて伝わる動きと信頼感。おぼつかない足取り。
 母親は、それは自分が「おなかをいためて」産んだ子だから
与えられる快楽だと言うかもしれない。
では、父親ならば、どうか?
自分で産んではいないけれど、それでもやはり快楽なのだ。
誘拐した子供を育てる場合と同じように。>
(『八日目の蝉』の解説・池澤夏樹)



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冬に寝床でゆっくりゆっくり(数ページで寝落ちする)読んだり、
湯船(私的には「風呂読書」が最良のリラックス時間)でのんびり読んだりしたうち、
もっとも最近読んだ本が『八日目の蝉』だった。

なんとなくで深い理由はないですが、
角田光代さんの本を読むのは人生でもっとずっと先だと(勝手に)思っていたけども、
上記の解説の中で池澤さんが触れてあるように、
「子の誘拐」を巡る展開がこの話の筋だ。
冬の自分はそこに我がネガティブ的な関心を抱いて、手に取った。

春夏秋は土日もなく朝からほぼずっと山に居り、
かといって冬は冬で育児の約97%を家人に任せっぱなしにしているから。
これを読んだら、脳みそのおそらくどこかにある、
自分では見えない何がしかのスイッチを手さぐりできるような(超利己的な)期待をして。


<誘拐は犯罪である。
 それは否定しない。しかし、この小説にあるのは営利誘拐ではない。
母性に促された、いわば生理の犯罪。
鳥の雛が巣から落ちているのを拾って育てるような、
自然の摂理の延長上にあるかのような犯罪
(希和子が鳥の巣に手を入れたことは否定できないにしても)。

 この犯罪に次々に支援者が現れるのはそのためだ。>
(同・解説から)


『八日目の蝉』が気になったのはたまたまふと映画予告を目にしてからだった。
でも、やはり俄然本を、言葉を読む方が身に染みる。しびれる。

本編で私的にもっとも染みたの(長い引用で恐縮ですが)が
以下の文章だった。


<「従業員募集 客室清掃 フロント業務 住み込み可」という張り紙が、
建物を取り囲む塀にべったりと貼ってある。
私は薫と手をつないだまま、隅から隅までその貼り紙を眺める。
 ラブホテルに住み込むなんて薫にとってぜったいによくないと私は思った。
しかし私はこの島に魅入られていた。
薫とここで暮らしたいー―いや、私が薫に見せたいと思ったもの、
空や海や、光や木々や、そんなものを、ここでなら
存分に見せられるのではないかとも思っていた。
海もこわいバスもこわいと両手で顔をふさぐ薫が、
けれど指の隙間からそっと世界を見たときに、
ここならば安心するのではないか。
そうして私があげたいと思ったものすべて、
ここでなら薫は手に入れることができるのではないか。
居場所なんかないけれど、いや、ないからこそ、私はここにもう少しいたい。
この光り輝く夏のなかに。
 私は薫を抱き上げ、思いきって入り口のスモークガラスのドアを開けた。
室内の冷気が私を包み、おもてで聞こえていた蝉の声がすっと遠のいた。>
(角田光代『八日目の蝉』)


とくに、
「海もこわいバスもこわいと両手で顔をふさぐ馨が、
けれど指の隙間からそっと世界を見たときに」以下のくだりを、
俺は何遍か繰り返し繰り返し、湯船で読み返した。
そして、「おとうさんすでに長湯過ぎるので早く上がる」ようにと、
何遍か繰り返し家人に叱られもした。




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自分のなかにじつは微かにうっすらある(と願いたい)父性でもって、
子が指の隙間からそっと見る世界を目にしたとき、
一瞬でも、時々でも、数十年後にふと思い出すものでも良いから、
安心できる山の中の暮らしをわずかながらずつできればいいな、と想う。

とはいえ、自分の父性も暮らしっぷりも相変わらず弱いままですが。




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<提示されているのは、出産や育児は結婚に優先するという考えかただ。
結婚は制度にすぎない、生活の安定のための社会的約束でしかない
(まして消費に明け暮れる安逸な日々など、
生きることの表層の泡沫でしかない)。
それに対して、出産と育児は生命の根源に繋がる大事な原理だ。
ヒトがヒトになるずっと前、有性生殖が始まって以来の原理。
それがなかったら、あなたは今この世にはいない。>
(同・池澤夏樹の解説から)











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by 907011 | 2017-03-04 06:14 | Trackback | Comments(0)

「先」という言葉。

高柳雪まつり。雪も風もなく(雨は少々)無事終了。

そもそもは、「町の人、つまりは実行する側がいかに楽しむか」が
根源だったこのイベント。

我ら山中集落にも毎年、「地区選出による実行委員1名」を出すよう早くに文書が来て、
でも、誰も成り手がおらず、
(役員会の雑談のときも数名から「雪まつりだけは、もうカンベンしてくれ。」というので)
今年もどうにも仕方なく、
脳みそ側の自分がすごーく反対しているのに、
我が氏名を書き込んで提出し、「山中からの人」となる。

夜の会議は全部出られなかったので、
届いた議事録を薪ストーブの番をしながらさーっと読み、
前夜からの準備と片付けをまじめにこなし、一応の誠意を見せる。
当日割り当てられた役どころ(一つだけ夜の遅いのを請うて交代してもらった)は出て、
あとは「実行する側がいかに楽しむか.」を追求して、主にドリンク類の売上に貢献した。
いろんな人と久々に飲んで話せて良かった。

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雪まつりが終わって翌日に精算の準備をそろえ、
翌28日朝に今年度最後の上納「暮割」をした。

公民館に各戸から出てきてもらい、28年度下半期の徴収および支払い。
各役職員給や草刈仕事などもろもろの支払いで、
冬の暮割りは支払いがかなりでかい。

俺が今春から新たな補助金を当て込んで、皮算用と会議を重ねた末に、
区費が各戸一律2万円(年間)くらい下げられたのもあって、
これまでは徴収していた相殺分が減り、
おおよそ50万円くらいの支払いとなった。大放出。

メイン通帳の残高は一気に半分以下になったので、
この頃になってようやく重い腰を上げて、
コーヒーをひたすら飲んだり、眠くなっては雪をつついたり鶏を眺めに行ったりしながら、
各種(補助や支援)事業の申請書類に向っている。
今春つくった山中予算の収入のおよそ半分くらいが、
年度末に作成する提出物にかかっているので、
この冬期間ばかりは春夏秋と変わって事務作業の人となる。
(ちなみに自分の確定申告はまだできず)


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上記のような状態で、冬はできるだけ山中暮しに専念するようにしている。
会議の招集も稲刈り後から途端に2月あたりまで増えるが、
夜のものだけはできるだけ勘弁してもらっている。

雪まつりで久々に会った人が多かったなかで、
拙記の奇特な読者の一部の方には「ブログが更新されないねえ。」と言われる。
(毎冬ほとんど冬は更新できないし、しないようにしてますが、
 それでも毎冬、よく言われる。)

 * * *

実は、たまーにぽつぽつと書いている。
書いているというか、いろいろ読んだり、耳にしたりした中で、
「あーなるほどなあ」とか「すげーなあ」だの「雪が溶けたら考えてみよう」、
というようなものを、写経のように書き写しているので、
何か自分で考えて書いているわけでなく、引用ばかりなので、
非公開の私的メモとしてブログを使っている。

という、長い冬の、長い言い訳。

今日も書類(と会議)を頑張ろう。
この2,3日集中的にやった農業系の活動支援制度(の一つ)のおかげで、
70万円くらいは支出を補填できそうだ。

農山村が今後どうなっていくかは、
集落の規模の大小ではなくて、いかに農業がその集落なりに、
(小さくなりながらも)やっていけるか、
にかかっているところがだいぶ大きい、とワタシは思う。
「農山村」だから。
農山村が生き残っていくという課題だから。

我ら小部落を眺めて、
(他所の)人は皆、もっとポジティブにやれとか、
先進的なことをしろとか、次々に「攻め」の展開をしろだの、
とにかくもっと外貨を入れるように働きかけろとか、
もっと早く、もっと急いで、もっと非効率を排除してとか、
要は「先へ進め」とそれぞれが口々に言う。

ただ、この山の中での一集落ごと一戸ごと一人ずつの暮しがそうであるように、
あるいは都会においても「いかに生きるか」と葛藤しながら働いている人であるとか、
自分もかつて新潟市や長岡あたりで働きつつ、毎晩居酒屋のカウンター
「俺はこれからどう進んでいくべきかなあ」って堂々巡りに悶々と悩み続け、
けっつまずいたり起き上がったりしては、また考えて考えて考えて、していたように、
「先」なんて、それぞれの状況、環境、生きてきた背景、その時の想いによって、
その「先」がどっちの方角を向いているかすら分からないからこそ、
個々がそれぞれの立場なりに、考えたり悩んだり試行錯誤を繰り返しながら暮しているのだ。


わかるんだったら行くよ、「先」へ。す~っと。
見えるんだったら、「先」について具体的に考えるよ。もっと早く。もっと急いで。

自分はゆっくり非効率型ニンゲンなので、
まだまだ考えたり、悩んだり、その時々に想ったりします。「先」というものについて。


 * * *


<一般に農業は、農地や水利を中心に
地域や集落に存在するさまざまな農業用資源と結びついており、
過去から現在、未来へと受け継ぐことで営まれています。
特に農地を生産の基盤とする以上、先進的経営体といえども
この農業の特質からは逃れられません。

 先端型の技術を取り入れた施設園芸などを「次世代型農業」ととらえ、
こうした農業を展開する経営体を「先進的経営体」と考える向きもありますが、
私たちが「次世代」というキーワードを使う中で重視するのは、
地域や集落に存在するさまざまな農業生産諸資源を未来に引き継ぐことです。
(便所で読んだ農業共済新聞にあった書評から)>





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by 907011 | 2017-03-03 05:22 | Trackback | Comments(0)

”じんべ”(と山中公民館)、世界へ。



寒いし、しばらくブログを放置しつつ、
最近ふと、「アクセスレポート」なる機能を見てみたら、
海外のサイト(上記)経由からこの雑記を眺められている様だった。

ワタシは、少しの標準語と片言の山中言葉とやや忘れかけてきた秋田弁で、
いわば語学堪能なわけですが、
英文を久々に見たらさっぱりわからなかったので、
読めた人は何が書かれてあるんだか、あとで(こっそり)教えてください。

なんとなく、雰囲気的には、
「ノコギリ刃には、皮手袋を彼らははめて触るらしい。」
みたいな感じかと思われるのだけど、
それが良いニュアンスなんだか、はたまた、
「これだからジャパニーズは、まるで食べかけのゼリービーンズみたいにヤワだぜ」
とバドワイザーか何かを飲みながら書かれている感想なんだか、さっぱりわからず、英語。

言葉の壁はともかく、
”じんべ”のカズオさんと山中公民館の作業場
(ついでに、よく見ると黄色コンテナに逆さまに小さく書かれた「柏崎市」)が
微々たるもんで恐縮ですが、山の中から海を越えた。
さすが柏崎日報いわく「高柳のレオナルドダヴィンチ」こと”じんべ”。


(まったく余談ですが、この時たしか公民館には遅れてきたけど、
海外などでもバリバリと活躍中の門出和紙のレジェンド・ヤスオ親方も後ろで眺めていた。)





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by 907011 | 2017-03-01 05:52 | Trackback | Comments(0)