山中記

春祭。

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山中の春祭の朝。
6時に出、神社に朝の参拝にゆくとすでに5,6人社の中で盛り上がっていた。
神事にあたり狛犬と化したフミエが
神社の大杉の根っこの穴でケモノ探しもしてくれていた。
狛犬相棒、随時募集中。

ガクは「保育園休んで祭りに出よう」と甘い誘惑をされながら、
太鼓の外側の「かっかっかっか」という部分を入念に叩いていた。

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4時半に水を切りはじめ、
8時、筋をまく。
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106枚の苗箱ができた。
祭の日にがつがつ働いて良いものかどうか、
筋まきをしながらふと気付いてしまった。
まあ休めといわれたにせよ、
どの道、天気見ながらの仕事が続くので誰も休まないだろう。

 * * *

剱(剣)神社で清けき春祭。
矢代神官さんに祝詞をあげてもらう。
毎春、毎秋にやりながらも、玉串の奉納が毎度覚えれずにいて、
終わって直会(なおらい)の際に地酒を飲みながら、
いつも玉串のやり方についてレクチャーを受ける。

神事では真ん中の次に、神様の左(向かって右)側が右より重んじられており、
はじめに神官さんが真ん中に玉串を置くので、
二番目の俺は向かって右に置く。・・・ところを左に置いた今春。
秋にまた読み返そう。

マサオさんは山中最後の語り部でもあり、
直会の際に話していた「お稲荷さまは狐が神様ではない」という
(神官さんとの)話しは勉強になった。
「お稲荷さん=油揚げ=キツネの神」という構図で
もはや四十まで生きてきてしまったので衝撃的だった。
(「狐は狛犬と同じ神の使いという位置づけです」と神官さんが補足してくれていた。)
やや疲れた身体に昼酒と祭礼の話とブナの芽吹きがよく染みた。


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直会後、もろもろ撤収作業をして、
区長は現在廃村になったかつての村田一族の集落・岩野へ。
岩野に「諏訪さま」の小さな祠が残されているので、
落とし板を外して掃除をして、幣束を新しくする。

毎年8月27日に”ごすけ”の故・スミばさが来ていたけど、
今夏は誰も参らなくなるだろうか。
秋祭の際にふたたび板を落としに来る。

神事を終えて帰路、軽トラの荷台に小さめのウドが4本転がっていた。
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夕方。
自分の本職の方の田んぼの本拠地・月ヨメ沢を巡視。
これまでと違う雪と山崖の崩れ方で木が倒れ、堰を止めていた。

奥の田にも沢をまたいで残雪が橋になって、
崩れた山の土砂枝と田んぼをつないでいて、
しばらく片付けでまた時間を食うなあと考えあぐねていたら、
奥から”さんしょ”が現れて、「俺の田はまだ2,3メートル雪だった。」と
にかっと笑って言った。


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神頼み、完璧。
明日あたりから6月まで今年もどっぷりと農繫期(怒涛の春編)に突入する。







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# by 907011 | 2017-04-22 07:05 | Trackback | Comments(0)

剱。


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春祭準備、昨日滞りなく完了。
故・トクイチ翁が寄贈された幟(のぼり)がだいぶくすんできてしまったので、
これをサイズダウンして作り直そうかと提案あり。
生地自体の大まかなお見積り(もしくは有志の寄付か寄贈)をもらってから、
やりましょう。・・・で、誰が字を書くか?は謎。

簡素化を考える工夫は重要だと思う。
ただ、時折「ここももうなくなるんだから。」という言葉がついて、
考えることを放棄してとにかく難儀いものは廃止という声もあがることがあり、
その場は「う~ん」とお茶を濁して、帰宅してから悶々とすることが増えている。

個々の暮らしと、協働作業との違いをここにきて実感する。
集落維持にかかる協働作業のための、「力」あるいは「手」が
限界を超えて不足している現状を前にすると、
どうしても簡素化を選択せざるを得ない。
でも、安易なだけの簡素化は、
維持するための力や手を現存している実力から余計に減らしかねないとも思う。

減る一方であるし、衰えを隠せないわけですが、
その手にも、その力にもできる適度な小ささの協働作業の部分は
残せたらいいよなあと思う。

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旗立て後、ヘルプの連絡をもらい高尾集落へ。
ミツタカさんの育苗プールづくりを都合半日手伝う。
はじめてプール育苗のやり方をマンツーマンで教わり、為になった。
一緒に作業していると、だいぶ有効的に身に染みてくる。
教わるときに一番よく吸収できるのは、
まっさらな「0」の状態でなくて、
自分がそのことに対して試行錯誤したり足踏みしたりしている状況の時だ、
・・・というのが、もはや「教わる側」歴のみ40年という自分の経験則だ。

一服時にミツタカさんが、
「おまえはキヨシさんとか俺の今を見て、”すげえなあ”って言うけど、
 俺だってキヨシさんのやり方見ればすげえって思うよ。
 ただ、俺にしたって15年いろいろ失敗してきて今どうにかやってるんだから、
 今の姿だけ見てくれるなよ。すげえ苦労したんだから。」
とジャスミン茶を飲みながら話していた。

 * * *

いろいろ細々した用事で疲れ、寝落ち寸前の20時半。
能登のジョージさんから
「世の中からポテトチップスはなくなってもキャベツ太郎は健在。」
という酔っ払いメールが来て、無性にキャベツ太郎をかじりたくなる。

今朝未明。
寝床で目が覚め、イヤホンを耳に挿して吉本隆明さんの語る森鴎外を聞く。
講演が一つ終わり、
毎年恒例気力激減の冬に聞いたクラムボンの『便箋歌』を聞いていたら、
歌詞のおわりが「それより早く子猫を飼いましょう」
という言葉で、より目が覚めた。

「クラムボン」といえば、吉本さんの語る宮沢賢治論も相当におもしろい。




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# by 907011 | 2017-04-21 04:49 | Trackback | Comments(0)

名前はまだない。

大風でコンポスト、下の畑まで吹っ飛ぶ。
昨夕は大粒のみぞれも盛大に降って白くなるかと思った。
薪の残、あと少し。

春祭にかかるお金の用意をする。
玉串料、弊束料、御車代と神社負担金で24,700円。
供物を今日の旗立て準備後に用意する。

旗立ても老人クラブ早朝の神社掃除も人手が不足し、
老人クラブより、幟(旗)は短いものへの作り替えと、
神社掃除にはより広く、
各戸から参加可能な家には複数人の参加やunder65歳の人にも
声掛けをしてもらえるようにとの下話あり。


<フランスとか向こうの国、まあ欧米社会といってもいいですけど、
そこでは、社会の構成メンバーが「生きている人間」だけなんです。
だから、自治をするとき、生きている人間だけで自治をすれば良いわけです。

そうすると原理的には、生きている人間が集まって議論をして、
自分たちのルールを決めて、それに従って行動をするだけでいいわけです。
実際には生きている人間が集まって話を始めると、
そう簡単には上手くいきませんけども(笑)。
ただ、原理としては簡単なんです。
(内山節講演会・2011年・高柳町)>



永くやってきたことの意味は消え去ることのないようにしつつ、
簡素化が求められる部分においては、
同時に、集落内での話し合いをしながら、
いまの最適なサイズを手探りして進めるべきだと思う。
ここから先は下手にケガすることのないように。


<ところが、日本の伝統的な社会の自治というのは大変面倒くさいんですね。
なぜかというと、社会の構成メンバーが生きている人間だけでない、ということなんです。
日本の伝統的な社会観では、まず社会の構成メンバーとして「自然」がある。

自然もまた、社会の中で発言権を持っている存在なんです。>


過疎より先にある「適疎」を考える善きタイミングだとも思う。


<もう一つの特徴は、
 「死者」が社会の中の構成メンバーであること。

 だから、なくなった人たちが遠くにいってしまうわけじゃなくて、
 なおも、ここでなくなっていれば、この辺りに居て、
 それで子孫たちを守っている、そういうところですね。>


山中に新たな住人が増えた。
一昨日の夜に預かった4つが(麦麦ベイクさんなど里親が見つかり)
1つになって帰宅した。
名前はまだない。



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<日本の社会観というのは、
 自然と、生きている人間と、死者という、その3種類の存在を構成メンバーとして、
 できあがっているわけです。

 そうすると、
 生きている人間の論理だけでものを言ってはならない、ということです。
 常に、自然の論理も反映し、
 そして、死者といってもいい御先祖様といってもいい人たちの意見も
 反映しなくてはいけない。

 だから、自治をやる時にはこの3者の意志を統合して、
 自治をやらなければならないわけで、
 これは大変面倒なことになってくるわけです。
 当然、会議をしたって自然と死者は発言をしてくれないわけで。

 それでも、結局こういう自治観あるいは社会観を持っていたのが日本の社会だった。>



大風で苗づくりの方は足踏み。
春祭を挟んで少しずつやる段取となった。

しばし、小さな春祭モードとなって、
あれこれを祈る。農業に基づいてきた神事なので。
祈りながら、さまざまにあれこれの下話を酌み交わす。


<じゃあ具体的に自然の意見を反映するとか、
 死者、あるいは先輩といってもいいし、御先祖様といってもいいですけど、
 そういう人たちの意見を反映させるというのは、
 どうするかっていうことなんですけど、
 最終的には生きている人間がきめるしかないわけです。
 生きている人間たちが、自然や先輩たちの代理人を務めなければならないということなんです。

 で、それをするために、
 実は、祭りや年中行事が大変重要になってくる。 

 たえず、祭りをやりながら、
 その祭りでは絶えず自然の神様が登場してくるわけで、
 そのことを通して、自然と人間はどういう関係にあるのかを、
 繰り返し、繰り返し、掴み直す。

 そして人間が人間だけのごう慢な論理に向かってないかということをもう一度見直す。

 それから、年中行事を通して、
 ここでも自然の神様が登場したり御先祖様が登場したりします。
 お盆になれば、御先祖様が帰ってきたり、
 御彼岸になれば、こちらから墓参りに行くし、とか。

 そういうことを繰り返しながら、
 いわば、自分たちの生きる世界を誰が護っているのかということを
 絶えず捉え直すという、そういう作業を通しながらやってきたのが日本の自治なんです。

 祭りや年中行事は日本ではイベントではないわけで、
 自治の仕組みの一つだと考えた方が良い。>




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# by 907011 | 2017-04-20 06:02 | Trackback | Comments(0)