山中記

鑑。

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昨日は職場の人が3人しかいなかった。
畑の親方が朝一番自虐的に「ベストメンバーだなあ」とぼそりニヤリと言う。
で、皆さんお昼にうちに帰ってまったく一人になり、
事務所兼ログハウスの裏にあるデッキで弁当を食べる。

昨日花を買いに来られたお客さんもおっしゃってくれたけど、
山の方はとても静かで贅沢だなあと思う。
風と水の音、あとはたくさんの種類の鳥や蛙、虫の鳴き声しかしなくて。
望んでもなかなか手にできない環境だといつも思う。
この身の程でそれを日常と呼ぶにはまだおこがましいし照れくさいが、
「いい職場ですね」と言われることは素直に嬉しい。

弁当をおそらく5分くらいで速やかに食べ終わり、
そのままベンチで寝る。

・・・堆肥を買いに来たお客さんに申し訳なさそうに起こされて、
申し訳なさそうに起きる。



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すぐ先の牧草地からキジが出て来てキーキー鳴く。
餌をついばみながらどんどん近づいて来る。
キジは鳴きながら羽根を2、3度ばたつかせる。
ばたつかせては得意そうに首を伸ばす。
求愛のダンスなのか、威嚇のポーズなのか。
視界に入るのはたぶんキジと寝っ転がっているニンゲンだけなので、
お互い無意識を意識する。



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今日もよく働いた。
帰宅して台所で飲みながら手抜き料理をどうにかえいっとする。
生野菜でいよいよ呑む酒が進むようになった。

気付くと風呂上がりのバスタオルをほっぽり出したまま、朝だった。



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今日は公民館や学校に花苗の配達。
サルビアを主に全部で800本くらいお届けします。
子どもの頃、花壇で見るともなしに目にしていた草花に
まさか自分がこうして携わるとは。
一年前にも考えてはいなかった。


花は難しくて、
花に試される。

ヒトはヒトを「鏡」として我が姿や内観に触れる。
他人がいる社会で一人になりたがっては
”個”のスペースを躍起になって探しつつも、
他方、したたかにヒトを通して自分を観る、知る、気付かされる。
善くも、悪くも。


自分が時に人と距離を置きやすいのは、
少なくとも、その誰かさんを面倒がっているのではなく、
むしろそれ以上に、「自分の鏡」を観るのを嫌っているんだと思う。

ヒトのネガティブを感じた時は、
そのネガティブに敏感な自分がそこに居て。
先回りしたり、あえて無視したり。

友達からのメールにあった言葉を思い出す。
<鏡という字は、「神」の間に「我」が入っている>
カガミ。
土へんにすれば「境」。
隔たり。
こっちとあっちを区切る線一筋。

うちのドアを隔てて、この部屋と外があって、
今から車のドアを開けて、職場のドアを開けて出勤。
日頃からいろんな隔たりをヒトは設けて、増やして、くぐって暮らしている。
隔たり。仕切り。しきたり。彼岸。
距離を保てるように、誤解されないように、
我を挟みつつもなんとか共生できるように。
ヒト以外の動物はどこでその線を引いているんだろう。
キジの仕草はヒトに何を伝えようとしていたんだろう。


 * * *


草花や野菜を見ていると、
いつの間にか逆に見上げられ、見返されていて、
自分の”誠意”みたいなものを試されていて、
結局やはり見透かされているような気分になる。



<自分の感受性くらい
 自分で守れ
 ばかものよ>
(茨木のり子『自分の感受性くらい』
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# by 907011 | 2009-05-07 06:11 | Trackback | Comments(2)

驚いては表現する。

農繁期。
の、一歩手前ということで、30日/1日と小型連休をいただき、
高速バスに乗って半年ぶりに新潟へ。
一年前はスーツを着てずっと見ていた光景。
変わらない窓からの眺めに、相変わらず重ね見ては噛み締める。
あの時、自分が重ね見ていたのは過去だろうか、先だろうか。
言葉はいつも後付けでしかない。

重ね見る。
過去も未来も「先」という字であらわされることがある。
先日は過去の時間。先見なら未来か。
それなら「先生」の先という字はどっち向きの矢印なんだろう。

噛み締める。
たとえば味覚にしても、同じ食材を食べる時々によって、
その都度違う感想を抱く機微。
単なる味覚だけではなく、
そこに記憶が勝手に重なったり、経験が混ざったり、
味わうってそういうことなんだろうと思う。
音のしない真っ暗闇でご飯を食べたら、
自分は何を想い、どんな味を噛み締めるんだろう。

 * * *

新潟。
前の職場の上司に近況報告がてらご飯をごちそうになり、
いいすか?、ということでランチビールも正しく呑む。
「じゃあ、キリンで」、
という台詞を俺はこれまで何度繰り返してきたことだろう。
昼酒、旨し。


昼下がり。
「人間の盾」にも参加したカメラマン・杉本祐一さんの
パレスチナの写真スライド上映会を観にいく。

以前、「吸って、吐くこと。」にも書いたことのある、
「写真家」とはこの杉本さんという方のことであり、
舌鋒鋭く話し出すと立て板に水のごとく止まらない方だが、
酒の席で聞いた(杉本さんは覚えてないはず)、
「写真でしか表現できないものがたしかに俺にはあるんです」
という言葉の意味を今も時々思い出しては考えている。
すごい宿題だと思う。
今回上映後に話していた、「情報を疑え」というメッセージにしても、
気持ちの力が先行して、後から言葉が出て来たような熱い口ぶりで、
耳がだいぶん痛んだ。取捨選択。


その夜。
尊敬する先輩、恩人、呑み仲間と、いいアンバイの居酒屋で呑み、語り、笑い。
最後は恩人相手に深夜の公園のベンチで号泣してしまった。
過去の懺悔。
久々にあんなに思いっきり泣いた。
思いっきり泣くことができなかったら、それは
どこかで自分か誰かを殺してしまうのかもしれない、と本気で考えることがある。
昇華。


翌朝。
『未来を写した子どもたち』を観る。
インドの売春窟で生まれ育つ子どもたちがフィルムカメラを手にし、
写真と出会うことで自らの環境を変えていこうとするドキュメンタリー。


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以前、石川直樹さんが写真を撮ることについて、
「切り取る」んじゃくて、世界を「受けとめる」ように撮っていきたい。
知ったつもりになって見切ってしまわずにずっと驚いていられるか、どうか。

と話していたことを思い出す。

映画に出てくる子どもたちの写真の撮り方に、
表現したいというエネルギーをもらえた。
「ねぇ カメラって すごいね」


驚き続けていたい。

恐らくは、
等身大の地図が意味をもたないように、
すべてを表すことができる完全な表現というのは存在し得ないと思っている。
だからこそ、驚き続けられているのだろうし、
不完全なればこそ、懲りずに描いていくのだろうと思う。


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# by 907011 | 2009-05-05 04:53 | Trackback | Comments(0)

エレメント。

丑三つ時、えいっと起きる。
休みだけど休みじゃない、水やり当番の月曜日。
この月は先の月よりも慌ただしく濃厚で、
門前の小僧みたいな顔をして畑仕事を教えてもらったり、
ときに盗んだりさせてもらう身としては有り難い。


職場の田んぼに朝、水を張り、トラクターで打ってもらった。
田一面の水に映る雲を眺めながら、畑仕事が終わった後に、
テラスで腕にキンカンを塗りたくりながら朝刊の書評の続きを読む。
日曜日の日経は手強い。でも、面白い。

「農」ってのは、あらゆるものとつながりを持てそうだ。
取材仕事の延長線上でそんなイメージを直感したのが7,8年前のことで、
小さな紆余曲折をなお経た今は、
それが確信めいたものにも成ろうとしている。

夕方にはぐったり萎れそうにもなるけど、
山の夕焼けが綺麗で見とれては気分が鎮まります。
おごり、昂り、ときにはざわついたり。
身勝手な自分を、田の水の様に、雲や夕焼けに映し出しては、
恥ずかしくなるばかり。
寛いな、雲は。


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昨日は風があって心地よく、
こんにゃく芋の一年生を植えていたら
頭上の八重桜の花びらが吹雪になって、包まれ覆われた。
こんにゃく芋をつくるのには大抵3年かかるらしく、
親子孫と3世代の連鎖に何がしかを重ね見るのはヒトの勝手だろうか。

かぶる山傘の上にも、芋を入れる畝にもその穴にも舞い込む一面の桜吹雪。
桜の木の下には死体が眠っている、という小説があったなあ、
などとぼーっとしていたら、ふらりとキジが現れてお互い驚いてバタバタする。
「バタバタする」なんてのは鳥から来た言葉なんだろうか、などと再び呆然。


<時間とは何か?
 誰も私に問わなければ、私はそれを知っている。
 誰かそれを問う者に説明しようとすれば、
 私は知らないのである>


背中の方角の畑から小さな子どもの笑い声が聴こえた。
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# by 907011 | 2009-05-04 05:30 | Trackback | Comments(1)