山中記

エレメント。

丑三つ時、えいっと起きる。
休みだけど休みじゃない、水やり当番の月曜日。
この月は先の月よりも慌ただしく濃厚で、
門前の小僧みたいな顔をして畑仕事を教えてもらったり、
ときに盗んだりさせてもらう身としては有り難い。


職場の田んぼに朝、水を張り、トラクターで打ってもらった。
田一面の水に映る雲を眺めながら、畑仕事が終わった後に、
テラスで腕にキンカンを塗りたくりながら朝刊の書評の続きを読む。
日曜日の日経は手強い。でも、面白い。

「農」ってのは、あらゆるものとつながりを持てそうだ。
取材仕事の延長線上でそんなイメージを直感したのが7,8年前のことで、
小さな紆余曲折をなお経た今は、
それが確信めいたものにも成ろうとしている。

夕方にはぐったり萎れそうにもなるけど、
山の夕焼けが綺麗で見とれては気分が鎮まります。
おごり、昂り、ときにはざわついたり。
身勝手な自分を、田の水の様に、雲や夕焼けに映し出しては、
恥ずかしくなるばかり。
寛いな、雲は。


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昨日は風があって心地よく、
こんにゃく芋の一年生を植えていたら
頭上の八重桜の花びらが吹雪になって、包まれ覆われた。
こんにゃく芋をつくるのには大抵3年かかるらしく、
親子孫と3世代の連鎖に何がしかを重ね見るのはヒトの勝手だろうか。

かぶる山傘の上にも、芋を入れる畝にもその穴にも舞い込む一面の桜吹雪。
桜の木の下には死体が眠っている、という小説があったなあ、
などとぼーっとしていたら、ふらりとキジが現れてお互い驚いてバタバタする。
「バタバタする」なんてのは鳥から来た言葉なんだろうか、などと再び呆然。


<時間とは何か?
 誰も私に問わなければ、私はそれを知っている。
 誰かそれを問う者に説明しようとすれば、
 私は知らないのである>


背中の方角の畑から小さな子どもの笑い声が聴こえた。
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# by 907011 | 2009-05-04 05:30 | Trackback | Comments(1)

物語。

よく寝た。
心地よい身体の疲れは幸せなんだなあ
と、数年前とも違う感情を持てることは嬉しい。
人付き合いを極めて断てる一人の部屋があるからかもしれないけど。



畑の親方が
「トマトは花が咲き出してから畑に移すすけな」
と、水をあげながら話していて、
なんとなくただ鵜呑みにしていたのだけど、
昨日堆肥を配達して運転する道すがらしばらくその話を考えていて、
(なぜ花なんだろう)、
(畑に移してから花が咲いても一緒じゃないのか)
と、考えたものの、脳内堂々巡りのまま帰宅。

ふとつけた天気予報
「明日朝は霜がおりるから農作物の管理に気をつけてください。」

まだ霜にやられるからまだ数日ばかり早いってことだったのか
と、ささいなことだけど「はっ」とした。すげえぜ親方。

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数年前、小さくて静かな島に居た時も、うろ覚えだけど
うぐいすが鳴いたらインゲンの種をまくとか、
この花が咲いたら芋を入れるとか、この草が出始めたらこれを蒔くとか。

他にも新聞で見たのだけど、
山の稜線の残雪の模様を見て、稲の苗をつくりはじめるという記事があって。
それらは天気予報よりもきっと正確というか合っている話だなあと納得して。
そして、その残雪の模様にも人の顔であったり、何らかの像を重ね見、名付け、
それは、自然の時間とヒトの時間とをつなぐ”物語”のように感じた。

 * * *

「神話」について、星野道夫さんは、
生きていくことは誰かを犠牲にすることであり、
中でも狩猟民の生活に触れて、
<約束とは血の匂いであり、悲しみという言葉に置き換えても良い。
 そして、その悲しみから生まれたものが、古代からの神話なのだろう>
と書いてあった。

なんだかそんな朝でした。


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慌てて読み返した、はるか昔のアメリカ先住民の言葉。

<どんな動物もあなたよりずっと多くを知っている>
 (ネズパース族の格言)

<私の前を歩くな、私が従うとは限らない。
 私の後を歩くな、私が導くとは限らない。
 私と共に歩け、私たちは一つなのだから>
 (ソーク族の格言)

いい天気だ。
今日も畑で試されてきます。
いってきます。
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# by 907011 | 2009-04-30 07:38 | Trackback | Comments(2)

ふたつの目。

膨らます受けとめ方と
慎重な受けとめ方。
毎日、出会う物事や言葉に対して
いまの自分が出来る限りの二つの視点で受けとめたい。



二つの目で見、
二つの耳で聞き、
匂いを嗅ぐ鼻腔も二つ。
なんで二つあるんだろうなあ、と畑の土の匂いを嗅ぎながら想った。

二つの足で土踏んで。
出会うものに触れる掌二つ。

それならどうして口は一つなのだろう、とも想った。
光や匂いや音を吸って、
それを感じとって、時に言葉に換えて
いざ吐く口は一つなのはどうしてなんだろう。



「言葉」はいつも断片的で、
過剰にデフォルメされていたり、
逆に感覚した程を表現し切れなかったりという、
疑いのようなものを感じることがあって。

自分が感じた、まさにそのままの瞬間を
過不足なくあらわせる言葉なんて、
実は一つもないのかもしれない。

光も陰も、過去の経験もない交ぜになった、
言葉にできない感情や記憶の方が、
すぐに言葉にできるものよりも、強度はより確かなように最近感じます。


吐いて 表現する口は なぜ一つなのだろう。

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肯定して膨らます見方と、
否定とまではいかなくても慎重な見方。
”両方”を通して、自分なりに取り込むこと。


二つの性が縁を繋いで
一つの命を宿すことにも似ている。

二つの感覚を通して一つの孔から出る言葉を、
土に触れつつもう少し眺めてみようと思います。


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# by 907011 | 2009-04-24 07:25 | Trackback | Comments(0)