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山中記

原発のある町。

2011年4月に山中に引っ越して暮らしはじめてから13年が経つ。
「原発の町」に住んでいることが滑稽でもある。

天災や、遠くの誰かの訃報や婚姻について
ネットニュースの見出しを目にするたびに複雑な気持ちになる。
自分は彼彼女のことをどこまで知っているのか、
ほんとうはまったくわかってないのに、と考える。

確定申告の〆切りが今週末に迫ってしまった。
入力はすでに終わって、でもそこで手が止まってしまっていた。
毎年ギリギリなので余裕をかましている節もあるが、一方で
政治家の悪いニュースにはやっぱりやる気を削がれる。
とはいえ今日終わらせねば。
ストライキ的に目の前のことをやめて
できるだけの抗議をする方法もあるだろうけど
問題はもっと根深いものだろうから、
我らができることはとりあえず目の前のやるべきことを済ませて、
批判したりする権利を確実に得ることだとも思う。

それにしてもニュースが次々と洪水のように流れている。
情報過多に包まれてみると、
気になっているはずの「悪いニュース」が
少しずつ自分のなかで見慣れたものになっていく。
許せないことがいつしか気付くと「喉元過ぎれば熱さ忘れる」状態に
変化していくから妙だ。
自分は情報の取捨選択が人一倍下手なので
よけいにそう強く感じているのだろう。

いま全方位から叩かれている国会議員は
「時間が経つと共に国民は忘れる」と考えているのだとも書かれていたが
それは事実かもしれない。

とりあえず目の前の仕事をやっつけたい。
人をなじるにせよ殴るにせよ刺すにせよ、
綺麗なところで高いところでできるはずなど本来なくて
己の手も汚れるというところは覚悟しないといけないと思う。
第三者からの情報だけ、
言葉だけでは足りないのだ。



原発のある町。_b0079965_06460096.jpg


なんだかマジメに書いたなと思うと、
そこに恥じらいが生まれる。
ユーモアだ、もう少しの。
ユーモアが足りない朝。



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# by 907011 | 2024-03-11 06:48 | Trackback

趨勢。

金曜の午後に直江津の杣事務所へ関原剛さんを訪ねてきた。
16日の高柳での講演のスケジュールと中身を打ち合わせる。
ワタシは人見知りなので
半年くらいお会いしてなかったセキハラさんにも人見知る。
事務所に上がってコーヒーをもらい
しばらくはその人見知り要素と脳の緊張感で汗をかく。
桑取で買った手ぬぐいでぬぐう。

座ると早々にセキハラさんの講話が始まる。
自分は我らは何をどう糸口にしてどこから考えれば良いのか
対峙すると終始緊張するものの、
関原さんのスライド(講演資料)が思いのほかアップデートされていた。

これまでずっと「具体の権化」だと慕ってきたものの
具体はさらに突き抜けた具体へと昇華されていた。
脳に汗をかく。

集落だけでなく自治体レベルで消滅危機がうたわれて久しくなった。
座して死を待つか、バタバタするか。
我らは目指す先の一つとして「農村RMO」を考えていくだろうし、
具体策の一つとして「総合商社高柳(仮)」のようなものを構想していくだろうと思う。

長崎の医者がつくってよこしたのだというハムをつまみながら
海を見てビールを飲む。
海辺で物事を学び考えるという贅沢な時間を過ごして
18時からいつもの焼き鳥屋「大勝」さんのカウンターでよく飲む。
大勝で流れる歌がいつも素敵だ。

そして、消化不良を起こしたままの脳みそで山中に戻る。
また考える。ここの土地で、考え、想う。


 *


ぼくはこれまで、そういう本もたくさん読んできた。
読んだらすぐにわかったような気になり、
でも一週間もすれば忘れてしまうような本。
明日のためにだけ必要で、それが済んだら、
邪魔にしかならないような本。
「サルでもわかる」とか、「一日で身につく」というのは、
ぼくにとって本である意味がなかった。
そんな知識は、スマートフォンでじゅうぶん事足りる。
それよりも、一回読んだだけではわからないけれど、
ずっと心に残る本。
友人に話したくなるけど、上手く伝えられなくて、
「とにかく読んでみてよ」としかいえない本。
ぼくの孤独な時代を支えてくれた大切な本。
ぼくが死んだあとも残る、物としての本。
そういう本をぼくはつくりたかったし、
もし、つくることができたら、
ぼくの仕事はずっと続いていくはずなのだ、と信じた。
(島田潤一郎『古くてあたらしい仕事』新潮社)


世間を騒がせるようなベストセラーが出たあとには、
雨後の竹の子のように、
似たような本が書店の一角を埋め尽くす。
けれど、うちのような小さな出版社が
そうした仕事に手を染めたら、終わりだろう。
それはだれかのための仕事ではなく、
たんに浅く広くお金を集めるための仕事だ。
そうした本を出すことは、
短期的な資金繰りの役には立つかもしれないが、
仕事を長く続けていくことを目的とした場合には、
マイナスにしかならないだろう。
お客さんはいつでも、
その会社の最新の仕事をとおして、その会社の価値を知る。


意思があれば、続くというのではない。
けれど、意思がなければ、
いつの間にか遠くへと流されてしまう。
安直な方へ。
抽象的な方へ。
より大きな声のする方へ。
それらが悪いとは思わない。
けれど、小さな仕事を長く続けるための
コツのようなものがあるとすれば、
それは手間暇のかかった、
具体的で、小さな声によりそったものだろう。


手間暇をかけずにつくった本は売れない。
どんなに表面をきれいに仕立ててみても、
そこには決定的になにかが足りない。
それよりも、不安に思いながら、
これでいいのだろうかと迷い、
ギリギリまで試行錯誤した本のほうが読者に届く。
不思議だが、
ものづくりとはそういうことなのだ、と思う。


読書というものは、すぐに役に立つものではないし、
毎日の仕事を直接助けてくれるものではないかもしれない。
でもそれでも、読書という行為には価値がある。
人は本を読みながら、いつでも、
頭の片隅で違うことを思い出している。
江戸時代の話を読んでも、遠いアメリカの話を読んでも、
いつでも自分の身近なことをとおして、
そこに書いてあることを理解しようとしている。
本を読むということは、現実逃避ではなく、
身の回りのことを改めて考えるということだ。
自分のよく知る人のことを考え、
忘れていた人のことを思い出すということだ。
世の中にはわからないことや不条理なことが多々あるけれど、
そういうときは、ただただ、長い時間をかけて考えるしかない。
思い出すしかない。
本はその時間を与えてくれる。
ぼくたちに不足している語彙や文脈を補い、
それらを暗い闇を照らすランプとして、
日々の慌ただしい暮らしのなかで忘れていたことを、
たくさん思い出させてくれる。


ぼくが本屋さんが好きで、本が好きなのは、
それらが憂鬱であったぼくの心を支えてくれたからだ。
それらが強い者の味方ではなく、
弱者の側に立って、ぼくの心を励まし、
こんな生き方や考え方もあるよ、と粘り強く教えてくれたからだ。
それは本だけではない。
音楽や映画やアニメーション。
喫茶店や中古レコード屋さんや映画館。
こうしたものは、人生を支えてくれる。
それは既に力ある人たちの権力を補うものではなくて、
そうでない人たちの毎日を支える。


それらは特効薬のような効果はないかもしれないが、
本ならば一冊の本を読み終える時間を、
映画ならば一本の映画を観るという豊かな時間を、
喫茶店であれば一杯のコーヒーを飲む時間を提供するものとして、
読むもの、観るものに、夢を与える。
それは、夢を叶えるという意味での夢ではなくて、
日常とは異なる世界で時間を過ごすという意味での、
文字通り、夢を見る時間だ。


たいせつなのは、待つことだ。
自分がつくったものを、読者を信じて、
できるだけ長いあいだ待つこと。
自分がつくった商品の価値を信頼すること。
自分の仕事をいたずらに短期決戦の場に持ち込まず、
五年、一〇年という長いスパンで自分の仕事をみること。
会社をはじめる勇気と、結果が出るのを待つ勇気があるとすれば、
後者のほうがはるかに難しい。
たとえば、発売したばかりの自社の本の売り上げが芳しくないとき、
ぼくは本がもっと売れるよう、イベントを企画したり、
SNSの投稿を増やしたりすることをひたすらに考える。
けれど、よくよく考えてみると、
それらが大きな効果をもたらすとも思えない。
むしろ、そうした短期的な戦術に慣れてしまうことによって、
自分の仕事の時間感覚が変質してしまうことをおそれる。











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# by 907011 | 2024-03-10 07:52 | Trackback