山中記

ええ。

雨の日も炎天下も
クールに仕事をする職人・キミアキさん(山中出身・隣りの隣りの集落在住)により、
”ええ小屋”ができた。

できたものの、恐ろしいほど何も入っていないので、
とりあえず屋根の軒先の下で雨宿り状態になっていた道具をしまう。



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たまにこれらの道具たちとともに
雨宿り状態になりながら、見上げる軒天にはモモンガ?の穴がある。
我が家二階は引越し後もほぼ使われてないまま今日に至り、
たまにスズメが土壁のほころびから迷い入ってバタバタしたり
今春からはネコという名のネコがたまに階段猛ダッシュで駆け上がって
ネズミ探しなどをしながら散策を楽しむ程度で、もったいない。
二階から梁など天井裏を眺めるとじつに楽しいつくりになっているので、
向こう5年10年で何かをどうにかしたいと企んでいる。
その頃には子も大きくなり、何かがどうにかなっていくんだろう。

一方で、日中は明かりの入るこのええ小屋、
冬の貴重かつ酔狂な楽しみが一つくわわった。





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# by 907011 | 2017-07-21 04:18 | Trackback | Comments(0)

四季五感。

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世間話でよく、人が「いやー曜日感覚がなくてねえ」と言ったりするけども、
はたして本当に曜日感覚を持たずに暮らすと、
たとえばこの連休のありがたみなども
まったく感覚されないままに過ごしてしまう。
とりわけ今年はいまが何日であるのか何曜日であるのか、
意識して何かを見るか、聞くかしないとわからないまま暮している。
良い面もありそうで、もちろん悪い面もある。

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ゴボウの花。
数年前に夢の森公園で種の交換会があって(良い集まりだった)、
自分もまだ畑の時間がいまよりもあったのであれこれ自家採種に精を出していた頃で、
(家人には「種とるから、うちの野菜には食べられるものがないのですね。」
と言われ、いまに至る。)
種種交換したりしながらもらった種の一つにこのゴボウがあった。
ゴボウは繁殖力旺盛で世話もいらないため、うちのまわり中に増えていて、
昨秋、集落の敬老会などで食されて活躍してくれた。
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ニンジンの花は花火を彷彿させる。
ゴボウもニンジンももはや山菜だと認識して暮らすようになった。


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リアルタイムで見たこともないが、
「かわぐちひろし探検隊。」とつぶやきながら、
豪雨で流された沢のホースを回収して、滝となった沢を遡り、水をとる。

炎天下にこういう沢の中の仕事をするか、
せっかく日当たりの悪い圃場が多いので、日陰の田んぼ箇所で仕事をすると良い。

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無事、田に水がかかる。
沢によってはこの水が無事に通るまで2時間くらい、
田んぼと沢を行ったり来たり、登ったり降りたりで往復し続ける。
晴れて水がとれたらまだいいが、
水がとうとう出ずにその日は打ち切りとなり、あきらめて帰路につくこともままある。

ここ一か月近く田面を乾燥させて、
去年の稲株などの有機物の堆肥化を促したり、
無効分げつを止めたり、いろいろ作用はあるものの、
いちばんは秋の稲刈りを無事に進めるための表土乾燥が
耕作者にとっては切実にその意味合いを占めている。
そして今年もまったく乾かずにズブズブの箇所が何枚もある。
年に少しずつ改善していっているものの、
今春も田んぼできない人の分を急きょやることになり、
増える枚数に自分の管理能力がまったく不足しているのを痛感する。


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管理力不足なのでto doリストのうち時期的に〆切のせまった、
村管理道路の除草剤まきをタモさんマサさんの同級生コンビに委託した。
2人で一日半かけて入念に管理していただいた。

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その裏で、マサさんのやめた田んぼを使って実験中の
不耕起田んぼの草取りができた。

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昨朝の子タヌキ。
雨降り後の昼に再び通ると一つ(おそらく足を負傷していた方)は残念ながら
道端に虫の息となっており、モーキンの類が二羽、最期の始末に来ていた。
もう一つは逃げのびたかどうか、見当たらず。
自然の理を、オトナになった自分がコドモ脳のままの自分に叩きこむ。
が、コドモ脳の自分は鵜呑みにできずにいて葛藤し、消化不良となる。


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ラッカセイも花がついていた。
花が落ちてすーっと地中に伸びて行って、土に入っていき、実を成らせる。
落花生という名は字としても音の感覚としても腑に落ちる。
野生は、自然の理を柔軟に肯定し、皆素直に映る。
透明な呼吸を感覚する。





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# by 907011 | 2017-07-17 07:25 | Trackback | Comments(0)

哺乳綱ネコ目イヌ科。

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おととい。
バイクで”先納沢”の田に行く道中で子タヌキ2つに会う。
かわいいので、しばらく眺める。
親が何かでいなくなったらしく、来る気配がない。

もしや自分のうっかりはちべえな見間違いで、じつはイノシシやクマだったりして、
振り返ると、ものまね番組の「背後から本人さん登場パターン」的に
大きなイノシシやクマがどーんと居たら怖いので、
子の顔をのぞきこんでよく見る。

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昨朝。
バイクで先納沢の田に向かうと、道の反対側に居た。
変わらず2つ。親はいない。
片方が足をケガしていて移動が困難な模様。
かわゆい。


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昨日お昼。
バイクで帰り道に通ると、草むらで寝ていた。
何もするまいと思って眺めていながら、
足の悪い方に飲んでいた水をあげる。
いつか日本昔話的にどっかの何かで助けてくれるといいなあと利己的創作話を想う。



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今朝のうちの食肉目ネコ科ネコ属
思えば、これも捨てられネコだった。
名前はいまだ無いままで、医者に行った際は「伊藤ねこさん」と呼び出されるそうだ。

 * * *

わたしは昔から捨てられているもの、捨てられそうになっているものを、
拾ってきては一緒に暮らし始めて、
途中から他のものがさらに追加されていくたびに、
古株の管理がずさんになっていく、ということを繰り返して今日に至る。

振り返ってみれば、小学生で捨てられ犬や鳥を拾って以来、
同じようなことをひたすら繰り返している気がする。
一人暮らしして以降も、衣食住すべてにおいて、
捨てられるものに遭遇する→拾って共に暮らす→さらに増えてずさんになる
ということを延々と相似形でやっている気がする。

客観的に見れば、
いま住んで暮しているここもそうかもしれないし、
人間関係も振り返れば、自分が魅力を感じるヒトというのは変わってる人ばかりだ。
(少しだけ)変わっている自分が「変わっている」と感じる、
ということはマイナス×マイナスの算数がプラスになるように
ポジティブな評価になるだろうか。
現代の環境はあまり良いものではない気がするので、
もう一つマイナスのバイアスがかけられるかもしれない。
でも、我らの集落みたいな環境であれば、
自分なりにはプラス要因をかけるので、ポジのまま据え置きになり、
変わっている人は面白いという数式が私的公式として当てはまるというものだ。

 * * *

小学生のころに、捨てられ犬を連れて帰宅した際に、
もし、親がそこで怒ったり止めたりしていれば、
自分のものの選択はまったく変わっていたと思う。
その後の勉強の仕方や下宿したことや進路や職業観、
人との付き合い方もだいぶ別人化したはず。

うちの親がそこで叱らずに歩み寄ってもらったことは大きかったのだな、
と伊藤ネコを見ながら気付かされる。

「非効率」だとか、
田舎にただよい続ける「どうにもまあ仕方ない」感を、
”まあ、それだたって仕方ねべなあ”と肯定する方言の力も作用して、
自分の生き方の選択肢を見る目が形成されたのだといまさらに思う。

その後、暮してみるなかでも、
私的公式のなかで唯一例外なのは、
”「誰かや何かを否定する理屈」が投げ掛けられて、
それを論破すべく、さらなる好戦的な否定の言葉をいくら出しても、
マイナス×マイナスのポジティブには変化しない”、ということだ。

ニンゲンからあふれ出ている言葉の力とは、言い換えれば肯定力かもしれない。






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# by 907011 | 2017-07-16 06:23 | Trackback | Comments(0)