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山中記

『さよなら私』

「自分に自信が持てなくて」という人に限って、他人の話に耳を貸そうとしません。
それは自信が持てないという自分を過信しているからです。
人はついつい自分を信じすぎます。
他人を疑うという気持ちも自分を信じている証拠の表われ。
いろいろあるのが人生。
一生わからないのが自分。
これを肝に銘じてください。


「わかってるって!」
またもむきになって私はオカンに負けつづけてきました。
『親孝行プレイ』(角川文庫)なる本まで出しました。
心が伴わなくても、「プレイ」と覚悟し、年に1~2度の帰省を演技で乗り切ろうというハウツー本です。


「お説教」とは、そもそもお釈迦様が弟子たちに向かって説いた教えのことです。
それが後年、おやじが酔いにまかせて部下たちに向かって垂れる面倒くさい話。
すなわち、「お面倒」に変わってしまいました。
お面倒の発生は中年以降「もう若くないさ」と、
つぶやいたときからとされていますが、年齢には個人差があります。
その大きな原因は今の若者とのギャップです。
浜崎あゆみまではギリギリついていけても、それ以降のことはサッパリ。
新しい情報を無理やり、脳内に1つ注入しようとすると、
大切にしてた昔の思い出が1つ(場合によっては2つ以上)、脳外に押し出されてしまいます。
要するに容量がパンパンということです。


「あのころ」とはいったいいつなんでしょう?
たいがいは世間が呼ぶ、盛りはじめた「青春期」ということになるのでしょうが、
青春期が人生のなかでいちばんいいに決まってるという根拠はどこにもありません。
頼りなくて、金もなく、いつも不安で、他人のことばかり気になって、
思いどおりにいかなくて、好きな人にはフラれて、自分が何者なのかよくわからなくて、
探してみたけど何者でもないことがわかって落ち込んだり、きっと忘れているけどあのころは、
もっと違ったそのころやその先に行きたかったんじゃないでしょうか?
たまたま青春だけに「謳歌」なんて常套句があったものだから、
素晴らしかったにちがいないと思い込んでいるんじゃないでしょうか?
今もいつか過去となり、あのころなんて今よりずっと遠くなります。
そんなことより中年謳歌、老年謳歌があってもいいと思います。


長い時間をかけて学校でつけてしまったクセは、
すべてのことに答えを求めてしまうことです。
当然、出される試験には答えがあり、それはたいがい1つです。
よく「私なりの答えを出してみました」と、言う人がいますが、
それではいい点はもらえないでしょう。
学校を卒業すると定期的な試験はありませんが、
決心や実力の程度を試み、試すための試練が待ち構えています。
それには苦難がつきもので、逃げ出したりするとダメな人になってしまいます。
言い方を変えれば、人はダメな人と呼ばれないためにがんばっているわけです。
しかし、問題なのはダメな人は本当にダメなのか?ということです。
そもそも自分の判断基準はどこからきたのでしょう?
疑いもなく、それが答えだと思い込んでいるフシがあります。
もし仮にこの世に平等ということがあるとすれば、
それは人それぞれ違うということを認めることが平等です。
自分と違うからといって、ダメかダメじゃないかを判断しているなんておかしな話です。
どうやら試験と違って、生きることに答えはないようです。
それでも答えを出そうとすると必ず頭が痛くなるのがその証拠です。


本当の意味で陽気でいられるということは、
だれに対しても無責任でいるということです。
たとえ、悪い人と言われようとも気にしない鈍感さです。
でも、それはある種、才能なのでだれかれなしにできることではありません。
凡人はやはりいい人と思われたいし、うまくやっていきたいと願うものです。
結局は自分がかわいくてしかたないわけで、立場の悪くなった自分を
いかにその場から逃がしてやるか、そのことばかりで頭がいっぱいです。
これじゃ、年がら年じゅう、陽気どころかカッコ悪すぎですね。


(編集中)






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# by 907011 | 2026-02-11 09:42 | Trackback | Comments(0)

頭がやわらかいとは、どういうことか。

池谷裕二さんとはじめて会ったとき、
 脳の話のなかで、「可塑性」ということを、
 何度も繰り返し語っていた。
 「可塑性」というと、つまり粘土とかプラスチックとか、
 力を加えたら変形してそれを維持する特性のことだが、
 それこそが脳の重要な性質であるというのは、
 とても興味深いと思って、よく思い出すようにしている。

 つまり、脳は生まれつきで固定されたものじゃなくて、
 経験とか学習とか、さまざまな環境の変化によって、
 ずっと変わり続けるものだということだ。
 神経細胞どうしのつながり方が変わるし、
 つながりの強さも変わるし、
 使われない回路は弱くなり消えていくし、
 よく使う回路は太く速く強くなるということが、
 ずっと脳のなかで起こっているのだ、かっこいいなぁ。
 「わたしたちは世界を見ているのではなく、
 世界によって脳をつくり変えられている」のだ。
 このことを、「思い当たる!」と感じた人は、
 きっと、その「可塑性」のなかに生きている人だ。
 ぼくらは、不断に変わり続けている。

 そして、おもしろいことに、
 「可塑性」というのは、脳というものが
 いつも不完全で、いいかげんで、
 壊れやすいからこそ、変化が起こりやすいので、
 その不完全性こそが、自由度の正体でもあるわけだ。
 昔からよく言われてきた「頭がかたい」とか
 「頭がやわらかい」とかいうことの意味も、
 そういうことだったんだなぁと思う。

 じぶんというやつが、いつも
 「不完全で、いいかげんで、壊れやすい」と考えていれば、
 自然に、新しい環境や経験に出合ったとき、
 新しい力が加えられやすい、ということになるかな。
 それは、若いからとか、年寄りだからとかと関係ない。
 いつでも、いつまでも、「可塑性」はあるはずなので、
 たぶん、生きているとは変わり続けることである。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
毎日が途中だ。その途中をたのしくやれるのがいいよな。
(糸井重里さんほぼ日20260117)




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# by 907011 | 2026-01-18 05:26 | Trackback | Comments(1)