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山中記

ぼんやり。



子どものころ。
どんなに落ち込んでいても、どんなに楽しい時間が続いても、
好きなともだちも先生も自分も、夜が来ればそれぞれの家に帰るんだなあと
ふと、さびしく思っていました。


「支援」のあり方はヒトそれぞれで、
一人ずつの信じているかたちがあって、最善手を尽くしているんだと思います。
この家にはテレビがなくて、ラジオをつけたりパソコンで地震の様子を見聞きして、
あらためて被害の大きさを知ることになりました。
実家のある秋田も直後から全県停電となり、
両親と兄は車中で夜を過ごしたとのことでした。


いつもと変わらぬ日常を過ごしてます。
予定されていたことを予定通りにしたり、お誘いいただいた話に乗っかってみたり。
日中は雪かきをしては休み休み本を読み、鶏を外で遊ばせて、それを眺める。
夜は四の五の言わずにさっさと布団へ。早寝早起きも特に変わらず。

でもなんとなくどことなく、暮らしの半分くらいがぼんやりとしています。
心も、時間もただぼんやりとしています。

「不謹慎」という言葉に過敏になっているのは、
情報があふれていることとつながりがあるのだと感じてます。

自分の、あるいは誰かの、感情の高ぶりが苦手なのは、
自分の弱さとも関係があると思うのですが、
家族の安否が確認できた時もどこかぼんやり。
知人はどこまでが知っている人なのか。
膨れ上がる死者・行方不明者数を目にすると
結局、「何も知らない」のだと自分にはね返ってきます。

かりに知ることはできてもわかることは難しい。
眉間にしわを寄せてテレビやパソコンを見て続報を網羅すること、伝言することをしないと
なんだかいけないような気分にさえなりがちです。
背徳感というのか、なにかがふっと押しつけてくる。
一人ひとりにとって本当に大切な情報はそう多くはないはずなんです。

地震の後に目にした文章。
 <考える順番として大事なのは、
  心配するあまりに、確保されている部分までも、
  疑いだしてしまうことだと思うのです。
  それを、パニックというのだと思います。>

被災地から離れた自分たちだからこそ、
感情の高ぶりだけに流されずに行動すること。
何が最優先事項か判断できていないような自分は、
たとえば、「節電」を訴えるその多方向的エネルギーの大きさを「不謹慎」と指さして、
「不謹慎」と叱られるのかもしれません。


ずっと鶏たちを見ていて感じていたことが一つあって、
それは依存していない生き方ということでした。
ヒトに養われてこそいるけれど、
太陽の光とともに暮らす鶏たちの方が自然の四季の変化に柔軟に対応しているなあと、
雪かきの合間に日光浴する鶏たちをぼんやり見てはっとするのでした。
「敏感」というのは、臆病とは違う。自分が合わせること。

草花を食べた鶏のふんが土に還り、四季が巡ってその土にまた草が生え花が咲き種をこぼす。
鶏たちの天性の自給自足を真似て、その相似形を野に描く。

身の丈にあった田んぼと畑をつくり、庭先に鶏を遊ばす。
たとえば、農的暮らしであればそんなかたちで、
豪儀な強い熱よりも、弱い熱をずっと永く。
そういう暖め方もあるのだと信じています。
持続可能な取り組みが増えれば、物流のためのエネルギーが省かれると思っています。
庭先養鶏が広がれば、
ゲージで鶏が採卵機として扱われるような企業養鶏がその分確実に減っていくはず。
家庭菜園もまた然り。

救出や復興という言葉が意味するものも、祈りのかたちも
またそれぞれにあるのだと思います。

明るい方へ、一歩ずつ進むことを祈ります。









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by 907011 | 2011-03-15 09:02 | Trackback