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山中記

継。

おととい、じゃがいも植えた。
こっちに来て初めて知ったのですが、
ここらのヒトは雪溶けしてから畑をつくるまでの間、
種イモを土に埋めて(ふせて)、芽出しをする。
じゃがいもの話になると、必ずといっていいほど「いも、ふせたか?」と確認される。

雪深いゆえの知恵。
以前お話を聞いた、農業の先輩(年下)は
「その土地、その場所、その畑の土によってやり方は違うから」と繰り返していた。

たとえば、新潟県の地図に各地域ごとの特産物が載っているものがあるけど、
こと畑に関しては、そういう平均値を鵜呑みにして掘り下げることよりも、
大切なことがあると思うんです、と。

風土の違いとはよくいったもので、
土はその場所その場所、つまり自分が立っている足元ごとに違う。

木や草や作物の根っこを想うこと。
それは土の中の水の流れを想像することだし、
水を想えば必然、陽の光や風当たりを観察するようになる。
もっと観察が許されるなら、
虫を眺めて(補殺関係とか、その虫の好き嫌いとか)、菌の働きを想ったり。

目に見えるものとしてのfood/見るよりも感じることが大切な風土。
(「世の中には大切な3つのフードがあります」、と誰かスピーチしないだろうか。
 ちなみに3つめのフードはたとえばこの中にあります。)


 * * *


自然養鶏の本を読んでいたら、
「鶏のことを学びたいと思うのなら、
 本当の答えは、本や情報の中ではなく、
 まさしく目の前の鶏や鶏ふんが教えてくれます」という一節があった。

長岡の畑の親方は、
毎朝水やりをするときに一本ずつ苗を(素早く)見て、声を聞けと話していた。
本気で教えてもらいたければ、野菜がこうしたいとかならず言うようになるから。
それが聞こえてこないうちはおめーはまだまだ聞く耳が足りねんだ、と。


 * * *


自家採種を細々と試みている。
去年などは食べられる野菜をつくることよりも、
野菜の花を眺め、種を採ることばかりを四六時中考えていた。

代を継ぐこと。
静かに試したいことが無数にあって、気付いたらこの環境に居るような気もする。

しかし、良い結果もあれど、残念ながらその3倍くらいうまくいかない。
3代目のキュウリ、トマト、ミニトマトは種採り~発芽の段階ですべて途絶えてしまった。
ふりだし。

家の中も外でもネズミ(フンからするとハツカネズミ?)が夜中のうちに、
あらゆる種をかじって散らかしていった。
今朝も容赦なく・・・勉強させてもらいました。
浦安のテーマパークにいるマウスと違って、
このマウスどもはメルヘンの力で動いてなどくれない。


下田村のセンセイは、
「白い花のつく木に、白い花が咲いた喜び」と言っていた。
最近ようやく、その言葉を自分なりに理解することができた気がする。
春菊の種をまいて、春菊の芽が土を持ちあげて出てきたのを見ると
息を呑んでいろんな角度からじーっと眺めた後、言葉も忘れて、抱きつきたいくらいに嬉しいのだ。

この感覚が麻痺してしまうぐらいなら、
他の大切なものを得る機会など失っても何でもいい。


自分の野菜を育ててみたい。
自分の好きなヒトたちに、それを渡して暮らすことができれば、
それはサイコーな生き方だなあと思っています。
いつか。
いずれ。



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<「知る」ことは、「感じる」ことの半分も重要ではないのです。>
(レイチェル・カーソン)
http://www.uplink.co.jp/kansei/
by 907011 | 2011-05-29 07:40 | Trackback