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山中記

無。

前職を辞める最後の日に、頼んで親方から譲っていただいた本が3冊。

一つは木村秋則さんの『奇跡のリンゴ』。
残る2冊が福岡正信さんの『わら一本の革命』と『無Ⅲ 自然農法』でした。

無〈3〉自然農法

福岡 正信 / 春秋社



もとより400ページ超の分厚い本は、夏季以外の恒例となっている風呂読書を経て、
しかも自分に響く文章に出会うたびに興奮してページの角を折るので、よりパンパンに膨れ上がりました。


実験と称して畑をやってみるものの、どうにもうまくいかない。
落ち込んで帰ってきては、湯船につかってこの本を読み、鼓舞されて翌朝また出ていくの繰り返しでした。

自然を科学の視点でとらえることの限界を説くあたりは、 ひじょうに合点がいきます。 
それもまた一理、
いやそうじゃない、科学や化学とハイブリッドでこそ、というのもまた一理。




人間が何もしなくても、深山の土は年々深く肥沃になる。
逆に農薬によって土地は荒れ公害が生ずる。
鎮守の森は栄養学で育ったのでも、植物生態学で守られたものでもない。
斧と鋸を注連縄(しめなわ)で封印したから、森の樹はおのずから大木になっただけである。


人間は時間の短縮と空間の拡大に狂奔しながら、かえって真の時間と空間を失った。


原因には無限に原因があり、その根源を尋ねていくと、真の原因というものはわからなくなるものである。
土壌中の酸性化を問題にした場合、ふつう石灰が欠乏したからと簡単に決められやすいが、
その石灰が欠乏した原因は土壌になく、除草により裸地栽培を続けたために土壌が流亡した、
あるいは雨水や気温などの関係がより根本的原因となっていたということもありうる。
また、石灰が欠乏したから酸性になったと考えて石灰を施す場合など、
逆に石灰施用で、アルカリを好む雑草が繁茂しすぎて土壌がより酸性になったというようなこともありうる。
と、このときは原因と結果をとり違えたことになる。


自然は分解してみてはならない。
分解した瞬間から部分はもう部分ではなく、全体はもう全体ではない。

部分を寄せ集めたものは全部であり、全体とは異なる。
「全部」は数学的形式の世界であり、「全体」は生きた内実のある世界を表現する。
自然に即する農業は生きた世界であって、形式の世界ではない。


「現代文明」というものをよく見直してみて、
それが狂っているとすれば、それを狂わせた人知も狂っているということになるはずである。
人間の主観が倒錯していたから、病める現代が生じてきたと言えるのである。
現代を狂っていると見るか否かは、あなたが狂っているか否かの判定基準となろう。


この世に、なんの統一もなく、支離滅裂の活動が氾濫しているということは、
誰も自然を本当に愛しているのではなくて、
自然の中の自己を愛しているにすぎなかったと言える。
自然の山川を描く画家は、自然を愛しているように見えて、自然を描く自己の職業を愛しているにすぎない。
大地を耕している百姓も、自然の中の田畑で働く自己の姿を愛しているだけである。
農学者や農政家は、自然を愛しているつもりで、自然を科学する学問を愛しているにすぎず、
自然を耕す農民を研究したり、批判して喜んでいるにすぎない。
人間はただわずかに自然の一部を覗いただけで、
自然の本態を把握したつもりになったり、愛しているつもりでいるだけである。


路傍の雑草には雑草の意味があり、価値がある。
それは園芸品種が侵すことのできないものである。
雑草は雑草でよかった。
やはり”野におけレンゲ草”で、レンゲはレンゲのままでこそ価値がある。

山路のスミレは、誰がために咲くのでもないが、人々は見過ごすことも、忘れ去ることもできないであろう。
そのとき、その人が知る。
人が変わらねばこの世は変わらない。
農法もまた変わらない。
私は米と麦を作っておればよかった。
麦の立場に立って、麦の話を聞こうとする者にだけ、麦はその人のために人間がなんであるかを説くであろう。



無農薬無化学肥料を思考錯誤している人には、とても勇気づけられる本だと思います。









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by 907011 | 2011-12-04 17:50 | Trackback