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山中記

こころ。

おととい昨日と晴れ間を見てえいっと屋根に上ってみた。

雪の断面をじーっと見ると、地層のように気候の変遷が表れているのが(稀に)分かる。
2週間より少し前に積もった雪は、その後の雨でザラメ(だいぶ重い)となって、
その中に強風で飛んできたカエデの種や落ち葉が混じる。

時々顔を出すセメント瓦とザラメ雪が良くなかったのか、
気温も低くて、とにかくかんじきが軽快に滑り続けた。

まだ一回目で、つまりこれまでの降雪分だけしか地上に雪もないわけで、
屋根の端から恐る恐るのぞくと落差が大きくて、腰が引ける。
腰は引け、足は滑り、雪は重く、久々に持つダンプもまた重く、
いろいろ不格好な姿勢で作業を続けたら腰がだいぶくたびれた。

ただ、その後のビールはうまい。
身体ががちがちに冷えていても、うまい。

うちの玄関は二日に渡って屋根から落としたザラメ雪(降雪の4倍くらい)で完全に埋まり、
その固く閉ざされた扉は、私の心境を反映させて3月頃までこのままにしようかとも思ったが、
福の神やら山の神もまた入ってこれないため、
再びかんじきを履き直し、風呂の窓から脱出して掘り出した。かまくらみたいだった。

 * * *

子どもの時から、普通の高所恐怖症に加えて特異な症状があって、
幼い時に都会で歩道橋を見上げて足がすくんだり、
空を行く飛行機を立ったまま見ていられなかったり、
それはたぶん人工物への不信感なのだろうと都合良く解釈してオトナになったんですが、
今でも、ごくごくたまに、
ふと雲を眺めているうちに高所恐怖症になったり、
目の前の樹を見上げてはその上部にしがみついて居るかのように錯覚されたり、
等々、いろんなものに対し、本人も驚きのタイミングで足がすくみます。


オトナになって以降はその日の気分によって、
まったくと何も感じなかったり、おっかながったりなので、
これは、その日の気分というよりむしろ「人格」と呼んでも良いのかもしれない。

今日もまたしんしんと降ってきた。


 * * *


日本に来た小泉八雲が一番驚いたのは、
(当時の)自然に対する見方、とらえ方が西洋人と全然違うということだったそうだ。


おなじ「自然」を見るにしても、
われわれ西洋人は、東洋人が見るようなぐあいに「自然」を見ていない。
……だいたいにおいて、われわれは「自然」を擬人化して眺めるからである。
小泉八雲『東の国から』






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自然の「擬人化」については、現代もなお考えさせられる。
自然を自分はいかにとらえているか。
自然と暮らしとが折り合いをつける中で、例えば機械が必要になることもあるだろうし、
そのためにさらなる経済を求めざるを得なくなったりすることもあるだろう。

自分の見方は変節しやすいので、
あれこれどんどん便利になればそれだけ、
擬人化さえも通りこして「支配」にすぐ変わるのだと思う。
機械でもって対峙する時、自然は「モノ」に変わる。
同じように人や時間が「コスト」になったり、
それまでとこれからを構成する大切な要素を、「モノ」化してとらえてしまう。


と、だいたいその辺のところを考えた場合、
いつも、「いかんなあ、自分の精神よ」というのにたどりついて、
特に具体的解決策もなく、ウイスキーお湯割りをつくり始めたりもする。

そして、おもむろに自律、禁欲といった極論を示そうとするものの、
すでに酔った脳みそではやはり持続しようがない。

という具合に雪に包まれるおよそ半年ほどは、
酔っては覚め、覚めては酔い、とくり返すわけである。


 禁欲主義は、
人間の生まれながらの感情と戦うことによって、
多くの残酷な人間を生み出してきている。
人間のばあいは、いまでもまだ、
欲情の力の方が理性の力よりも強い。

 人間は、欲情に支配されてはならないけれども、
しかしまた、欲情のはなはだ古くからある権限を
ぜんぜん否定してしまうのも、禍なるかなである。
小泉八雲『心』

by 907011 | 2013-12-31 10:30 | Trackback | Comments(0)
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