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山中記

雪ねぶり。

雨が降り、地から靄が立ち込め出して、
一帯が白く包まれた。
山中、谷底。

終日谷底に居るかのような心地よい錯覚を繰り返しながら、
元は江戸っ子・内山節さんの歯切れ良く澱みない哲学の話を
イヤホンで耳に挿す。脳みそに植える。

 * * *

今月に立教大を退官される内山先生は、
すでに40年以上も東京と群馬・上野村(と講演の日々)とを往還して暮らしている。
平成の大合併に対して、「合併をしない」という宣言をした上野村は、
ありとあらゆる分野で地域内循環を描いている希有な村であり、
事例の一つ一つが示唆に富んでいる。

急峻な山間に村はあり、水田が一枚もない。
「それだから、国の農政と一切無関係なままやってこれたから、
 いろんなことを考え、工夫するような仕組みづくりができた」と笑って言う。

よく言われる「食料自給率」というのも僕ら気に入らなくて、
それは、日本の食料自給率ってカロリー計算なんですよね。
そうすると、上野村って「何にもつくってない」ということになっちゃうんです。
キノコやコンニャクだとほとんどカロリー無いから、
さて困ってしまったというわけですから。
(「第三回 哲学者・内山節さんと話そう」より)


村の90%超は森林によって占められている。
木工の職人を育て熟練化し、村内ペレット燃料に続きペレット発電が始動した。
製材の過程で出るおが屑を基にしたキノコ栽培は群馬県の半数を供給している。
森では25人ほどが林業に携わる。すべて移住者だという。

稲作がなく、
かといって畑にできる農地も一反などある場所はほぼ皆無、
しかも当地とも違って小さな畑が何枚かつながるという場所も無い。
それでも、本来の農業が持つ特異性をいま、再認識することが肝要だという。


だけども、
そういう風にしてみんなが小規模農業をぼそぼそとやっていて、
結局、そのボソボソやっていることによって、
村の連帯もあるし、村の雰囲気もあるし、
たとえば4月に入れば春祭りは本来、農業の開始と絡んだお祭りなので、
そういうものもすべて、「農業という基礎」があって成り立っているわけです。

だけど、これが今言われている生産力とか競争力という話になってしまうと、
村の農業なんてどうでもいいようなものになってしまいます。

本来の農業が持っている、いろんな周辺の部分に、
地域社会と農業の関係もあれば、
地域文化と農業の関係もある。

みんなが少しでもいいからやってくれることによって、
地域に一つのまとまりができるという面がある。
みんなが農業をしているからこそ、
自然との関係も工夫もするし、いろんなことを考えていく。
これからどんな風に自然と人間は関係を結んでいったらいいのかを考えながら暮らしていく。
(同上)


雪ねぶり。_b0079965_6542925.jpg


今朝も雪ねぶりで谷底然の風景に包まれた。
暮らしというのは絶えず何がしかに包まれながら進んでいる。
鬱蒼とした白が内包する世界に近くの数戸と夥しい木とが浮かんで立つ。

「面白い」という言葉は、面の先が白くなること、
つまりは目の前が明るくなる、見えづらかったもの見たかった風景が見えてくることを、
意味されているのだという。

雪ねぶる山谷の底に居り、靄で凝り固まった頭に面白いねえ哲学。

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by 907011 | 2015-03-20 06:28