自分がより深まっていく競争。
農業というものが一番優れているとぼくが思うのは、こういうことです。
農民っていうのは昔から競争をしているんですね。
それは、もっといいものを採ろうとしたり、
場合によっては、隣りのうちよりもいっぱい採ってやろうと思ったり。
意外と、そういう競争はそれなりにやってきた。
ただ、その結果として、誰かが上手くやることに成功した時に、
たとえば、収量が増えたとか、収入が増えたとかという時に、
その人が成功しても、誰も脱落しないんですよね。
隣りの家の収入が倍になったからといって、
自分の家が退場を命ぜられることはないんです。
それどころか、誰かが成功してくれれば、
次第にそのやり方が地域社会に普及して、
結果的にみんなが助かってしまうということもありえるわけで、
このあたりが普通の産業とはまったく異なるところといえます。
(「第三回 哲学者・内山節さんと話そう」より)
通常の産業であれば、どこかの企業が勝利してしまうと、
どこかの企業は退場を要求されるというケースが不断に起きてしまう。
本来の農業は、そのような問題点を生むことなく、
もっと質の良い競争というか、
誰かを落とすためでは無くて、自分がより深まっていく競争という、
そういう競争のあり方こそ、
これからの社会でどう見直していった良いのか、
社会に定着させていったらいいのか、
それを考えなくてはいけないわけです。
ですが、今の農業政策をやっている人たちはどうも、
農業も通常の産業と同じく考えていて、
どこかが勝てばよい、
どこかが大規模にやって上手くやれば良いという農業論だけが語られてしまう。
そのような人たちが地方創生ということを言い始めれば、
結局、地方創生は生産力が上がるかどうかだけの問題になってしまいます。
あるいは国際競争力があるかどうかだけの見方になってしまう。
ドキュメンタリー映画の監督をされている小林茂さんも、
前回に続き、内山さんの講演に駆けつけてくれた。
間もなく公開される、松之山の百姓コグレさんたちを記録した作品も
いよいよ大詰めながら、「風の波紋」という仮題をどうするかに苦心している様子だった。
百姓と雪と村の記録。
諸事情あって監督から電話をいただき、
「何でも良いので感想を聞かせて」と、
編集を終えた1時間37分の映画を拝見させていただいた。
これは嬉しい映画です。
エンディングがまた素晴らしく、にやけながらふと泣いたりもした。
* * *
雪郷の文化は循環を描くから、
不確かな自分は魅かれるのだと思う。
ここに来た意味、ここに暮らす意味、
山で一人の時間を持つ意味、協働する意味、
集落消滅論に対してこの集落が残る意味等々、
自分がいつも渇望して欲しているのはすべて「意味」なのだと感じている。
意味とはあいまいな言葉で、
だけど、山の中で考えたり、感じたりを重ね続けて、
時々、何らかの意味というところに突き抜けたい感覚があるのだと思った。
自分も(なるべく丁寧を心がけて)村の中での暮らしをつくっていきたい。
風の波紋予告編
by 907011
| 2015-03-26 07:48