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山中記

3.11。

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山中で暮らして3年11カ月が過ぎた。

2011年。すでに山中移住と仕事を辞めることが決まり、
新生活に向けてひたすら妄想を練り続けていて、
自分が「あれもしたい、これもしよう」なんて企んでいたことと、
3月11日に起きた震災とがあまりに乖離し過ぎてずっと呆然とした。
(その日の手帳を見ると、予定欄には<ごみ当番(あと2回)>などと書かれてあった。)

 * * *

一昨日。
朝凍み渡り、なおも素晴らしく快晴だったので、
ふと思い立ち、かんじき履いて2時間近く歩き回った。

オクサの棚田に始まり、
普段はあり得ないようなルートで周辺あちこちをわしわしとさわいだ。
静かに興奮する。

ほっほっほっほっと駆けてみたり、
目の高さにあった木の葉っぱを数分ずつじーっと眺め続けたり、
稲架(はさ)場の杉の枝を伐ってみたり、
斜面をかんじきで滑り落ちてみたり、
ちょっと高いところからゴルゴ13のように無表情で集落を眺めてみたり。

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視界のすべてが雪と山と光と陰だけで展開される。

ケモノの足跡、雪と崖とが組んず解れつ崩れた痕、木の折れている様。
知恵の乏しい自分が受け取れる情報というのはそんな程度なので、
こうして非日常的に歩く時間と空間の中に身を置いてみると、
そうした視覚的な情報よりも、むしろ、
感情で受け取るものの方が圧倒的に多いもんだなあと思った。

相変わらず考えたり迷ったりしている途中の事柄だったり、
言葉にまだなっていない、言葉以前の「自分の機嫌」みたいなものだったり。
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まぶしい下で、ぶつ切りの考え事を暖めたり冷ましたり考えなかったりしながら歩く。

ある小説家が言っていた。
芸術とか小説とか音楽とかそうした現実の生活に役立ちそうにないものが、
それでも日常生活を支えているのだ、と。(もちろん言い回しはうろ覚えです)

非日常(イベントとかでなく)は日常を支えていたり、
非効率こそが、効率だけの行動やリズムを、そっと無言で補ってくれたりして、
不確かなワタシの暮らしは確かに回されているように思う。

ぶつ切りの考え事を続けたり、考えなかったりして歩いたり上ったり。
ケモノの足跡と、ぶつ切りな自分のかんじき足が気付くと何カ所も交差してつながっていた。
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山中で一年間暮らしてみたい若者(とその家族)が、
荷物と一緒にやってきたので会って少し話して、日常に還る。
(インターン開始はもう一週間くらい先)

この若者と同じように自分も緊張と不安を抱えながら、
新たな心境で春を迎えることになった。
「山中総選挙」の前後から慢性的な寝不足状態に陥り、
身体は素直だなあと感心するばかり。

帰宅すると家の下でタヌキが寝ていた。
お前さんも眠かろう。
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<三度三度のめしを、よく噛んで、おいしく食べて。
 決まった時間に気分よく排泄して。
 たのしみのひとつとしてお風呂にゆっくりつかって、
 よく寝て、すっきり起きて、いつもおだやかに笑顔でいるような人に、
 だれも勝てるとは思わないほうがいい>
 (糸井重里さんが『今日のダーリン』の中で)



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by 907011 | 2015-03-29 07:45 | Trackback