哺乳綱ネコ目イヌ科。
おととい。
バイクで”先納沢”の田に行く道中で子タヌキ2つに会う。
かわいいので、しばらく眺める。
親が何かでいなくなったらしく、来る気配がない。
もしや自分のうっかりはちべえな見間違いで、じつはイノシシやクマだったりして、
振り返ると、ものまね番組の「背後から本人さん登場パターン」的に
大きなイノシシやクマがどーんと居たら怖いので、
子の顔をのぞきこんでよく見る。
バイクで先納沢の田に向かうと、道の反対側に居た。
変わらず2つ。親はいない。
片方が足をケガしていて移動が困難な模様。
かわゆい。
昨日お昼。
バイクで帰り道に通ると、草むらで寝ていた。
何もするまいと思って眺めていながら、
足の悪い方に飲んでいた水をあげる。
いつか日本昔話的にどっかの何かで助けてくれるといいなあと利己的創作話を想う。
今朝のうちの食肉目ネコ科ネコ属。
思えば、これも捨てられネコだった。
名前はいまだ無いままで、医者に行った際は「伊藤ねこさん」と呼び出されるそうだ。
* * *
わたしは昔から捨てられているもの、捨てられそうになっているものを、
拾ってきては一緒に暮らし始めて、
途中から他のものがさらに追加されていくたびに、
古株の管理がずさんになっていく、ということを繰り返して今日に至る。
振り返ってみれば、小学生で捨てられ犬や鳥を拾って以来、
同じようなことをひたすら繰り返している気がする。
一人暮らしして以降も、衣食住すべてにおいて、
捨てられるものに遭遇する→拾って共に暮らす→さらに増えてずさんになる
ということを延々と相似形でやっている気がする。
客観的に見れば、
いま住んで暮しているここもそうかもしれないし、
人間関係も振り返れば、自分が魅力を感じるヒトというのは変わってる人ばかりだ。
(少しだけ)変わっている自分が「変わっている」と感じる、
ということはマイナス×マイナスの算数がプラスになるように
ポジティブな評価になるだろうか。
現代の環境はあまり良いものではない気がするので、
もう一つマイナスのバイアスがかけられるかもしれない。
でも、我らの集落みたいな環境であれば、
自分なりにはプラス要因をかけるので、ポジのまま据え置きになり、
変わっている人は面白いという数式が私的公式として当てはまるというものだ。
* * *
小学生のころに、捨てられ犬を連れて帰宅した際に、
もし、親がそこで怒ったり止めたりしていれば、
自分のものの選択はまったく変わっていたと思う。
その後の勉強の仕方や下宿したことや進路や職業観、
人との付き合い方もだいぶ別人化したはず。
うちの親がそこで叱らずに歩み寄ってもらったことは大きかったのだな、
と伊藤ネコを見ながら気付かされる。
「非効率」だとか、
田舎にただよい続ける「どうにもまあ仕方ない」感を、
”まあ、それだたって仕方ねべなあ”と肯定する方言の力も作用して、
自分の生き方の選択肢を見る目が形成されたのだといまさらに思う。
その後、暮してみるなかでも、
私的公式のなかで唯一例外なのは、
”「誰かや何かを否定する理屈」が投げ掛けられて、
それを論破すべく、さらなる好戦的な否定の言葉をいくら出しても、
マイナス×マイナスのポジティブには変化しない”、ということだ。
ニンゲンからあふれ出ている言葉の力とは、言い換えれば肯定力かもしれない。
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by 907011
| 2017-07-16 06:23
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