山中記

ハシモトヤ理想論。

そこに暮らしながら、ずっと考えていたい問題、
できれば自分の半径5,6km(おおよそ)で考えたいような現象や理想論がある。

具体と抽象とをいったりきたりして、
現実の我が暮らしをいったん棚にあげておいて、
自分のなかで純度の高い理屈を好奇心のわいたときにふと考える。
しばらく忘れて、また田んぼや車中で思い出して、また考える。
あまり進展はなく、具体策もぱっとはひらめかないけども、興味はある。
そういう問題、現象に対して。

高柳の町事務所近くに唯一?ある、コンパクトにまとまったスーパー、
それが「ハシモトヤ」だ。スーパーの定義はわからないけど。

大変に僭越で、それこそまさに自分の暮らしを棚に上げながらなのですが、
自分はたまに「ハシモトヤ理想論」というものについて考える。
地縁もゆかりもなかった高柳にて、
”流通とはなんぞや”というテーマで、ときにはビールを飲みながらも考える。

山中は、というか特に我が家は、
じつに日常的に物をもらったり、交換的にお礼を(ごく)たまにしたり、
また、母ちゃん連中はよく物々交換しあったりもする。
食べることに関することと、雪というゆっくり静かに迫ってくる現象に関することで、
暮らしのほとんどが回っていて、
「貨幣」とは、よく言えば少し距離の置ける関係にあると思う。
以前、一か月インターンでお試し暮らしをしたホソダ君が、
山中は貨幣経済よりも日常の暮らしの方に重きを置いていて面白い、
と最終報告会の際に話していた。

これは単に経済そのものから離れているという意味でなく、
逆で、お金の登場場面は少ない分だけ、
貨幣そのものの希少価値はむしろ高い、のだとワタシは思っている。
ただ、その場面、一瞬一瞬はやや少ないと感じている。

 *


で、ハシモトヤを山中から考える。流通をテーマに。

上に書いた「ハシモトヤ理想論」とは、一言でいえば、
高柳町に住む者、その全員がハシモトヤで買い物をすれば、
ハシモトヤはどんな流通体系になり得るだろうか、ということだ。
長い一言ですが。

生産、販売、消費、廃棄もしくは循環。
流通のしかたは変わり得る可能性をいつでも、今一瞬からでも持っている。

あなたの家庭のお茶碗一杯ずつからでも、変わる流通があります。

買って。山中の米。
刈ってるから。

 *

※今季は(主に)天候の影響で収量半減状態で、進んでます、遅々としながら。
予約分でほぼ完売になり、
すべていったん無事にお客様に渡し終えてみないと
予備がストックできるかも不明です。わりと真剣に米不足。

来年の31年度産は、田んぼを増やして、主戦場を特化させる算段でいます。
また一方で、どうしても管理と経営の成り立たない箇所を、
試験的にソバか麦か豆などの転作田んぼにしてみます。
そば、いいねえ。ふかぐら亭もあるし。
麦、やりたいねえ。作業場(乾燥機など)もそのまま使えるから。
ワタシは枝豆なら一年じゅう食い続けられます。冬もタイの冷凍豆食ってるから。

 *

という様に、脱線をはさみつつ、ハシモトヤ理想論を考えながら、
イノシシとのいたちごっこを繰り返してきます。

我らは「山中から”適疎”を考える会」でもあった。
適疎=good balance.






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by 907011 | 2018-09-22 05:11 | Trackback | Comments(0)
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