燻りの学校。
雪、降る。
軽トラを家に置いておくとよろしくない。
除雪車が来る道のそばに上げねば、埋まる。
一昨日、晴れ間があったので、
遅々&細々な色々を一つずつやっつけて、
冬をそろそろ受け入れようかと歩み寄ってみる。
毎年同じことをするから、同じように感じるのもしょうがないんだろうけど、
”備え期と開放期”を含めれば、年のおおよそ半分弱が「雪」で、
おおむね半分強くらいに春夏秋が濃厚に凝縮されて暮らしの時間が過ぎ繰り返す。
この”備え期”にしている細々な色々というのは、ほぼ、
下に置いてあるものをとにかく上に、
外にあるものをどうでも中へ、
内にしまわれ、日の当たらぬところにあったもの(スノーダンプとか)を、
よっこらせと日の当たる外へ出す、
といった全般的に「出しながらしまう」という行為であり、
雪どけ後の開放期は、
わかりやすく単純にそれを逆再生したような「しまいながら出す」になる。
なので、毎年この時期に、遅々として動きながら、
「右から左へ、と動かすことが人間の生というものなんだな。」と
日めくり相田みつをカレンダー風に思う。
仕事にしても、暮らしにしても、
生きてうごめいて、そのなかでたとえ10人が10人ずつの思惑を持っていても、
もし自らを離脱させて上の上の、高ーいところから永ーく俯瞰できたとするなら、
案外、ほとんどの行為が
「右から左へ動かしている」という表現に収まるように感じている。
「地図というものは、
「究極的な俯瞰」によって生まれる
人間の表現手段だと思っています。」という、
『7歳のときから空想だけで地図をつくる男』さんの話がおもしろく、
なるほどと我が膝を打ち、うなずき、腑に落ちたのでした。
地図というのは、
均等な縮尺と均等な図法で描かれたものです。
地図のなかの情報は、
常に公平であり、平等であり、
完全な客観的事実しかありません。
地図のなかには、
善や悪すら存在しません。
地図はただの客観的なデータなんです。
地図の編集者が
人気の街だけを詳しく描いたり、
興味ないところはテキトーに描いたり、
そういうことはありえません。
だから地図ってやつは、信じられるんです。

「常に公平、平等」のような言葉を目にすると、
俺などは思わず腰が引けて、2メートルくらい後ずさりしてしまうので、
雪の備えをしながらのその片方の手で、
”隠れ家”に小さな焚き火&燻製マシンを出して、
大量にもらった大根のひとつで「いぶりがっこ」を試作。
燻製に決まりごとはない、という名言のままに、
薪の残骸から適当にチップらしきものを千切って、
「まあ、だいたいこんな感じ」と燻した。
晩酌の肴にためしにスライスして、
家人が男鹿半島で買っていた「ぶりっこの宿」と銘打たれた藻塩をかけ、
いぶりがっこ風にして、リトル秋田を楽しんだ。
(いぶりがっこは、燻してからの沢庵漬けで、
ぶりっこは秋田県魚「鰰」の卵。
すごい美味しいのに新潟人は食えない人も少なくない。)
ハタハタは海藻に産卵するらしく、藻塩のネーミングに感心した。
だいぶ以前にもらった火鉢を土中に埋めて、地炉とし、
この冬は隠れ家で「スウェットロッジ」の煙中毒バージョンで、
自らをも燻したいものだとたくらんでいる。
すっかり白が積もり始めた。
by 907011
| 2018-12-08 07:04
|
Trackback
|
Comments(0)

