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山中記

雪、出陣。

高柳には侍がいっぱい居る。
侍は切り方が卓越している。
鈍らの刀など、用いない。
侍の切り口は美しい。
鈍らでは相手をいたずらに汚く苦しめ、
何よりそれは対峙する同士として失礼だからだ。

数十年前に、大学受験の二次試験を受けた。
(「俺もいま解いてみたけど・・・、
 ここん家の人文学部は二次試験が難解すぎるから、これは高校生では差が着くシロモノじゃねえ。
 だからお前さんの得意なセンター試験4択で逃げ切れ。」
 と赤本片手に、現国の先生に言われた。)

小論文で与えられたテーマはたしか
「英語を話せねばならない世の中になりつつあります。
 英語文化圏以外もそうなっていくようです。
 あなたはそれについてどう思うか、何を考えるか、日本語で書きなさい。」
というものだった。

開始して鉛筆シャーペンのかつかつ鳴り響くなか、
自分は秘策のつもりでイメトレ通りに、
ペンを置いて、5分間沈思黙考した。

結果的に書きたかったテーマがあって、
それに小論のテーマをジョイントさせるところが最初のイントロで、
そこをうまく通過すれば、あとは自分の書きたかった想いが書ける。

テーマからの移行というか、
話題のすり替え術(これには下宿や山部テントでの毎晩の遊びがひじょーに役立った)を済ませて、
当時のガキなりに考えていた、
「銃と剣での人のケンカの仕方の違い」について、書いた。
このジョイントはけっこうな転換の仕方で時間の6割くらいかかったけど、
でも、上記の書きたいことが自分にはあったから、
あとは残り時間も気にならずに予定調和だった。

銃で人を撃つことと、刀で相手と切り合うこととはまったく異質なものだ。
ロケットと刀でも良い。
日本にはかつて侍文化があった。
相手と正面から切り合うということは、当然切られることを意味するし、
イメージ通り切ったとしても、自ずと”返り血”を大量に浴びる。自分も汚れる。
相手の苦悶する顔をしばらく見ることになる。
もちろん、力量、運、タイミング、技術が劣っていれば、
想いだけあっても、自分が切られ、死に絶える。

鉄砲とはまったく異質な文化がある。
切り合う行為自体に、人生を賭すだけの大きな意味がかつてあった。

 *

後日、進学した先の心理学の授業で、
担当教授だった石郷岡先生(誤字だったらスミマセン)というユニークな方が、
同じ秋田・横手の高校だと知った。

分担して無数の小論文を採点されたとおっしゃってましたが、
いつだったか、その後の心理学研究室での酒を交わす席でご一緒し、
自分の受験の際の小論文と想いの話(「難しすぎだっすで、あれは」と)をしたら
おー、剣で人を切るってのがあったな、あれその場で周りとちょっと話題になって、
合格でいいじゃん、って話した気がするなあ。
あったあった剣で人切る話しなぁ、オメだったのが。いやー横手だったのがー、
などと言ってもらえた。

なんでもいい。
表現を褒めてもらえた記憶、経験は、
少年にはでかい。
小学校卒業の文集に、出席番号一番だった俺を指して
担任のスガハラアキコ先生(卒業間際に入籍されてた)が、
「文章の得意な直樹さん」と褒めてくれていた。
字は致命的に汚かったのにだ。

運動がまったくダメだったし、剣道部でも弱かった。
ある日、女子部のマキに負けて、水飲み場で泣いたこともあったな、ぼかぁ。

先生は叱らず、何冊も本を進めてくれたり、
口数が少なくて自分でも何考えているのかわからないから、
休み時間に職員室などで個別に話を聞いてくれたりした。
いたずらもさせてもらえたし、
朝一番に皆の前で何人か立たされて鉄拳制裁も納得しながら浴びた。
生物係して、たくさん生物を死んだり枯らしたりした。
亀が翌朝、校舎じゅうをはいつくばって逃げ回ったのを探した。
捨てられた犬を給食を持ち合って飼ったのも、用務員のおじさんが見ないふりしてくれた。

本当に田舎は良い先生ばかりだった。
小学校から自分は読み書きがライフワークなのだ、
そういう個性があっても良いのだ、
それでいいのだ、
と教えてもらえた。












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by 907011 | 2019-03-25 06:11 | Trackback