楕円に。
あくまでわからない者のイメージですが、
沖縄あたりで暖かく暮らして寝ているヒトの枕元の耳の穴に言いたい。
「・・・寒い」。
おとなの悩みに、こどものなみだ
と銀杏BOYS峯田さん演じる『アイデン&ティティ』の中島は歌う。
こどものこころで、大人の仕事をするんです、
となんとかフェローの早野龍五さんは言う。
小さな問題(我らは問題のことをなるべく「現象」とトランスレートするように心がける)を、
大きく考える。
大きな問題(半径5キロくらいで起こっている現象)を、
小さく、ライトに考える。
容易な現象を、深く掘り下げる。
難しい現象を、ライトに受け止めてみる。
「ライト板尾」(8:04から)にも学ぼう。
*
対立する言葉の選択、好戦的な言葉の選択を
自分もついかっときてやってしまいがちだ。
争いは一度始めたら、死屍累々、
たとえ個と個であるつもりであっても、
個が「子」になり、子の代、孫の代にまで遺恨を残すことがままある。
ケンカというのは、対峙して最後はザ・青春みたいに、
取っ組み合いながら土手を転げ落ちて、息を切らして、
「おまえも、なかなかいいパンチ持ってるな」と
その後、赤ちょうちん的なもので酌み交わさねばならない。
いつか「坊さん」が書かれていたけど、
お遍路などに回ってくる方たちのご飯の
包み紙であったスポーツ新聞紙かなんかを眺めて、
「なんで、生き死にとは別のスポーツという勝負があるのかな?」
と問うたのだという、自分が自身に。ギリシャのコロッセウムを想像したりしながら。
無くても、この世は回るのにな、と。
ただ、柔道や剣道、ラグビーの”ノーサイド”etc.から学ぶ、
社交の選択の仕方の要素は、たしかにあると思う。
映画やマスコミ(初めて持った名刺が記者だったので本来何も言えませんが)媒体目線だと、
一番、大衆の目にとまってもらえる最短でファストな方法は、
「対立」の構図を誰にもわかりやすく、見せることだ。
それはこちらの事情による、「編集性」と言い換えてもいい。
対立の構図から、味方と敵が生まれ、
大きなマスの最大公約数というか、誰に対しても容易に生まれる「ヒーロー」も
そこから偶像崇拝されてゆく。
盛者必衰。
速いものは、立つ瀬を追われるのもまた速い。
不特定多数のマスを対象にした大きな視聴は、
メディアによって「あ、飽きられたな」と切り捨てられたり、
ひどいときには変節して、あいつは悪だ、あいつはもう終わった、
などと言われかねないからだ。
勝手に上がってもいない二階ではしごを外されるような体験、
別に著名人じゃなくても、誰しも体験しているのではないだろうか。
自分だって、ままあったくらいですし。
(それもしかもだいたいが精神労働で疲れて弱ってるときに限って、なぜか。)
たいそうな例えはやめるとして、
対立は好戦的な言葉の選択、好戦的な思考の選択につながりがちだ。
そこで、その人の子どもからの記憶、体験、
親の育成術(自分のことは棚に上げ、あえて親の術と呼びます。忍の術みたいなもの)、
そういったものが培った、その個なりの人間性で
持ちこたえるかどうか、好戦的な選択をするかどうかが決まる。
もちろん、ときには大切な好戦性もある。
誰かのために、小さくて弱いもののために、立ち上がらなければいけない時もある。
手や声がいざ震えだしても、
攻撃をもって防御にかえないといけないケースも生きてりゃたまにある。
たまにというか、いつでも発生する。
*
江戸の頃の日本には、それらすべてをひっくるめて昇華させる落語という話術があった。
「まったく しょーがないね、どーも」ってのがあって、
寄席を聞いて、蕎麦をつつっと手繰って、またしょーがない大人だらけの長屋の日常に戻る。
日本にもそんなクラシックが存在した。
日本のモダンのなかにも素晴らしいものはたくさんある。
それは稀有な一縷の希望だと、見て(凝視する)、聴いて感じることもある。
やはり想っていたいのは、借り物の言葉に最後はなってしまうけど、
「楕円はいいぞ。」という思考だ。
一点を軸にして、紐をくるっと回すと完璧な円ができる。
狂いを許さない、ずれの生じない綺麗な円ができる。
でも、山の中の自然には、
ただまっすぐなだけの、完ぺきな線というのは存在しないというのだ。
水が流れるにも落下するにも、水面を凝視しても、
そこには風のバイアスがかかって、「揺らぎ」が必ずある。
オシドリや鴨(ときどきヘビまで泳いできて)も水の波紋を起こすし。
一つの壁だけで対峙していれば、敵味方の区別がわかりやすい。
でも、その一点を、
もう一つ増やして、二点を軸に発想、着眼できる視座を持ち得る男になりたい。
たまに思い出した時の理想くらいでいいから。
二点を軸にして、
板に釘を2つ打って、
同様に紐で引っ張って丸を描けば、
それは楕円形になる。
対立だけの構造から、一歩だけ抜けられる。
緩さとバランス。
焚き火は、この揺らぎが飽きないのだ。
飽きないは是、商いに通ずる。
今日も小銭を稼ぎましょう。
言葉はすべて後付けだ。
しかも、言語はすべて使い尽くされている。
美術と異なって、言語には創造の限界があり、踏襲のジャンルになりつつある。
地図としての空白地帯はない。
だから、何を書こうと、使いまわしにどうしてもなる。
なのでワタシは山で暮らすのが楽しい。
時間も金もなくてただ慌ただしく難儀いのだけど、
時計ではなくて、「山の時間」に内包されて、山に雪に急かされる暮らしだ。
山(海もか)はただ無償ですべてさらけだして
死ぬまで数限りないことを本気で教えてくれるからだ。
人間の脳みそなど追いつかない。すべての”常識”も想像をも凌駕する。
というようなことを4月1日フィッシュストーリーな日に記して、
「・・・なんてね」でやれたらよかったものを。
文法あってるか謎ですが、
ボーイズ・ビー・フーリッシュ。
ラグビーは球が楕円。
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by 907011
| 2019-04-04 04:59
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