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山中記

末広。

ワタシの記憶(と手帳)がたしかなら、
2011年4月26日、山中への引っ越しを終えて暮らしが始まった。

「具体性」について、自分は何ら人世計画の欠片もなかった。
われら二人とも無職のまんま。
聞けば失業なのに給付してくれる制度があるというので職安に行ってみたりなどした。
そこでふと帰りにチラシを眺めていたら、
無料の一カ月間、西山に通って森林(林業)を学ぶ講座があると知った。

正直に言って、
一般的な「働く」「稼ぐ」ということについては、
あえて具体的に考え詰めていなかった。
だから、不安定ではあった。
柏崎はもちろん、十日町の方が近いよなあと職安に足を運んでみたりもした。
前述したとおり、自分は求人票を見ると
「おー、この仕事やったらおもしろそうかも」とたまに楽しく妄想してしまうクチだった。
(さすがにいまだと年相応に求人もだいぶ限定されるから、
 とりあえず見ることもないけど、
 たまに十日町に走って、コメリ→ムラヤマ→ムサシと梯子したりすると、
 「お、もし農業破綻したら、こういうお勤めも楽しそうだな。
  種とか農業資材学び放題じゃないか。
  まあそれより、秋田のマタギ文化の郷に帰省したいなあ。」などと軽薄に妄想したりする。)

 *

ただ、一般的なお勤めをあまり考えなかったことには、
27歳の自分の第一次脱サラ・農山漁村志向というのを持ち続けてきたからか、
ごく普通にどっかの何かに勤めてサラリーもらうなら、
はなっからこんな山の中には住まねえよという自分の頑ななナニガシカがあった。

それはその後数年来の葛藤へも深まってはいったものの
(特に周りが、そりゃあ見ちゃおれず、
 「こんなとこでどうやって生きるの?」etc.言わざるをえないから)、
でも、通うなら端っから便のいいところに住むし、
そもそも楽しそうな職種なら長年関係性をつくった長岡市の方が刺激にあふれていたし、
「地域づくり」「コミュニティ形成」とかを志望するような自分であれば、
それもまた、長岡で十分に楽しい経験をさせてもらって、
その延長線上で雇われることを望むか、フリーランス的に組み合わせれば、
それはそれでまあ食ってはいけるでしょうとも思っていた。

だから、というべきか、
山中集落に「無」「0」という空の単位が欲しくて、転がり込んできた。
というと綺麗ごとなので、
もう一方の直観というか心身の声として、
そろそろ街に嫌気がさしていたというのも事実だった。

長年来通って、よくわからぬ自分という物体を毎晩考えさせられ、形作ってくれた、
「居酒屋」と離れてしまうことは、いまだに難儀を感じている。
まったく不便だ。

でも、それでも、
自分が持っているものすべてを放り投げても、
なんというべきか、自分なりに感じたり培ってきたと想えた”明るい方”に行ってみたい。
そういう気持ちが強く勝っていた。

少しだけの備蓄というか貯めた経験や、
決して見返りを求めずに自分の面倒くさくて青臭い考えや思い付きでやったこと、失敗含めて、
いつも無償の愛で可愛がってくれていた、
さまざまな場面での知人友人つまりは恩人に対しては少なからず(今だに)、
「一時間で会えるから」など言いながらも物理的に離れるし、
会う頻度は必ず希薄になる、
何より環境が大きく変わることで、
自分はこれまでとも思考もいったん捨てて、
山中というところで生まれたての小鹿のようになることは必至だった。

感受性も考え方も価値観も、
これまで自分が「軸」と呼んできた基準すらも変わることを意味するとも思えた。
社交辞令的に送別の体裁をとりつくろって(自分は別れ方というのがひじょうに苦手な男だ)、
ヘラヘラとじゃあいずれまたそのうち、などと口にはするものの、
自分の先に何ら具体的なものがあるわけではなかった。

自分農みたいなものに近づいてみたい。
暮らしをつくるためのその暮らしを一歩ずつしてみたい。
何でもまず自分で考えてみたい。
そこらへんについてはあまり干渉してほしくない。
一方で、何がうまくできるという自信もまったくもってない。

8年間が経過して、
あまり自分のなかの大切にしたかった部分が変わったという自覚はない。
大変なことはたくさんあった。
場面場面で地区内外(やっぱり以前の仲間恩人が助け舟をいまだに出してくれたり)の
ほんとうにいろんな考えと経験とを備えた人たちにつっかえ棒のように支えてもらえたし、
それでも自分の方が勝手に(それも一度や二度なんてものでなく)折れてしまって、
床に臥せたり、深夜に壁に向かって煩悶したり、涙で枕を濡らしたり(?)などもした。

なんだか学校の卒業式みたいな気分になってきたので、やめよ。

変わったという自覚はあまりない。
変節しがちな自分というのはいっぱい見た。
肯定も否定もいまだにいっぱいある。
自分が間違えていると感じることもままある。

矛盾になりますが、
変わった自分というのもそれでいて在る。
変わったというか、「あこがれ」へのよりいっそう強まる衝動を感じながら暮らして居る。
自分なりにその時に思いついた暮らしをつくりたいと考えている、
だから変わったような、けど変わってもないかと振り出しに戻る。

歳を重ねて、退化する部分もたくさんある、身体だけでなく脳みそだってそう。
あと20年くらいで自分は死ぬんじゃないかなともわりと毎日のように思う。
だからなのか、この環境に内包されているせいか、
「死にてえくらいつらい」と感じることがなくなった。

<発展ではなく永遠の世界。>
と内山節さんが『風の波紋』に寄せて書かれていた。

距離を置いて俯瞰してみて、
自分が物心ついてからずーっと抱えてきた生きづらさとか弱さって、
何なんだろうなとふと考える。
弱さについては死ぬまで遭遇し続けて、感じたり考えるのだとも思う。

社会的には父親になった。
父親であり、秋田を飛び出した次男坊であり、
山中の年寄りには「ナァ(お前)が山中の長なんだから」とはっぱをかけられることもあったり、
高柳では婿どんであり、
でも土にさわってることが、金よりもちょっと好きな、
「百姓みたいになりたいなあ」とずっと憧れている、残り20年選手くらいの小生である。






末広。_b0079965_06413556.jpg






変わっているのか、
そもそも変化し続けたいという願望がうすく、
変わりたくないという想いも特段ない気がする。
すべてそのときどきの思い付きで暮らして居るようなもんだ。

だから、たとえば、大勢で話していると会話の的が絞れず混沌として、
話していることの意味がわからなくなる。
独りか、あるいは一人二人と話していると、その時だけは対話ができる。

こんな自分なので、相談の一つでも受ければ、
支えてもらった分の数パーセントでも、
少しは誰かの何かの役に立てないもんかなあと驕ったような想いを抱く。

とにもかくにも、
三十路を過ぎた男が40過ぎるまでのこの時間、
利己的な意味では理想的に恵まれた環境下で、自己責任で(持ち合わせの金はないけど)やり、
その裏でいろんな関係する人に尻をぬぐわせつつ、しれっと暮らして居る。

8年間すべて、良い時間が多かったとも決して言えない。
でも悪い経験とか無駄な失敗ってのは皆無だった。
「痛みは糧に」とアイコさんが以前書かれていた。

歳を重ねるごとに思うけど、
自分が憧れていられる男どもが周りに居るという暮らしは素晴らしい。
男が想うかっこいい男がいる。
(かといってその男の人にしても、
 時に酒飲んでひっくり返ったり、たまーに下手打ったりもしている)
男にこだわらず男女関係なく、人間味があって「すげえ」とうならされる人がいる。
歳の上下も関係ない。
ただ、存在している。
その人たちなりに考え、暮らして居るのを、時々に見かけたり話したりする。

実家秋田の親の体調などもあり、
この8年の先がどうなっていくか、
5日後に何をしているかもわからないような自分なので、
先の話は皆目見当がつかないし、考えても意味を持ち得ない。
8という単位も特別に意味もない。

ただ、8年前のことをぼんやり想っている一日になるような気がする。

 *

「そや。
 あのな、何でもなぁ、誰かと会ったり、会わんくても言葉か記憶か交わすことはな、
 みんな”ご縁”なんやとワタシは思ったの。
 アンタもいつかわかると思うよー、あ~ご縁なんや、てな」
とオーサカのネーサンが立ち飲み屋でふいに話した言葉を思い出す。





末広。_b0079965_07165058.jpg








<それは手作りの世界であり、
 この大地とともに暮らすプロフェッショナルな人びとの世界だ。

 進歩ではなく、深められていくことを喜ぶ世界。
 発展ではなく永遠の世界。技術ではなく技の世界。知識ではなく知恵の世界。

 そしてこんな人間たちの営みを見守っている自然。
 それはいまでは多くの人たちのあこがれている世界だ。>
(内山節・哲学者)




・・・私的に自分の「山中誕生日=2011.4.26」と刻印されているのですが、
もし間違えていたら(たぶんもう一生気付かないけど)、恥ずかしいなあ。








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by 907011 | 2019-04-26 06:42 | Trackback