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山中記

避ける癖。



夕方、さて一枚田植え準備しようかなと、
移動してたら後ろから軽トラが追い付いてきて、
「み、水が欲しい。」とそでを捉まり懇願されて、水揚げに下りる。

ため池はもうだいぶ水が減少していた。
明日の雨でどのくらい水が田にとれるか。
明朝は水ため用意で全50ホール近く回らねば。

 *

「晴耕雨読」のイメージをよくもたれがちで、言われもしますが、
雨の日はむしろ忙しかったりもします。

前日まで白く乾きだしていた沢や側溝が、暴れ滝に変貌します。
チョロチョロと流れる水をどうにかとろうと低く這いつくばって構えていた管などは、
一変して濁流にのみ込まれて、あっという間に消えます。

雨の日はカッパ着てうろうろ巡回をまずします。
1枚1枚すべて状況が異なる、将棋の「100人指し」みたいなことになっており、
案外と途中で心が折れそうになるし、
”これはしょうがねえや。おととい来やがれ”という光景もけっこうあります。
あと、危険な箇所もたまにあります。

とにかく雪も少なく、
春も異様に暑いばかりで、
「このままだとまた夏にどーんと水害が来るパターンではなかろうか」
と話してます。

春の融雪時に山肌がごっそり削られ崩れる様や、
その後に行くと、
沢沿いの田の畔が無かったり、えぐられていたり等々。

まったく自然が放つエネルギーや、
原野に還ろうとするかに見える作用は、
不謹慎な言い方かもしれませんが、
すごーくゆっくりとした、
「緩やかに進み続ける被災」
だと、終始眺めながら毎年に感じます。
ときに想定し得る防災のはるか上を悠然とゆく、
抗いきれない力をただ垣間見ます。

と書き記しつつ、この時間に朝仕事に出ないのは、
ちょっと中だるみ的に疲労感を朝感じたからかもしれません。
やらねば。
石黒集落のプールに70枚、
2日前の朝には「ピチピチ」のピークだった稚苗を待たせている。




避ける癖。_b0079965_04564224.jpg





ため池や水の無い田んぼを見ると、毎年ですが
「山中、スーパードライ。」「超乾燥。」などと口にしてしまう。

昔から、
「断トツ首位」とか「ナンバー1」を謳うコピーやキャラクターが嫌いで、
その手の商品
(携帯電話も今でこそ電波の都合でドコモですが、
デジタルツーカーなど「首位」以外を選ぶ癖があります)、
はたまたそんなコピーをひけらかす人間などを避けがちなところがあります。
コンプレックスなのか、
いいおっさんになっても変わらず、すーっと引いてしまうんですね。

 *

1対1が好き。
1対「不特定多数」というイメージを感じた途端に、
勝手に苦手意識を持って避けてしまいます。
自分の気質であり、短所であるとも内省してます。

今の業界事情にかなりうといのですが、
アサヒよりキリンが好き。
以前、新潟駅前のキリンビール新潟支社などは同じエレベーターで、
スーツ着た人を見るたびに「キリンの営業の人だろうか。俺は応援してます」
と頼もしく(勝手に)その背中を眺めてました。

店に入って瓶ビールか生を頼んで、
やはり半分くらいは説明なしにスーパードライがすっと出てくるところを、
「アサヒとキリンがありますがなにか?」的な応対や、
サッポロのラガー(デザイン渋め)などが出てくると、
それだけで顔がほころび、
ビールをうまそうに飲む達人となり、
帰りにほろ酔いのまま、
その店のドアに勝手にマイステッカー的なものを貼りたくさえなります。

まあ、すべてイメージというか印象だけのレベルなのですが。
でも、
食感の大部分はそうした主観やロケーション、気分が作用していると思います。

長岡時代に体感した、
山中のコシヒカリを口にしたときのうまさというのか違いを思い出します。

いま、その真っただ中で、お天道様の下くるくると
何となく勝手な思惑を抱きながら、蠢き回って暮らして居ます。

山中の米もどこの米も、
それぞれにうまいものはやっぱりうまいです。

住んで暮らして居て、
感じ思うに、ロケーション最高。
食感と主観、けっこう密接だなあと思っています。

山中の各農家(指折り数えられるくらいになってきた感が…)が手がける
令和元年産コシヒカリも、どうぞご贔屓によろしくお願いします。

たとえば、
もうすぐ総代会を開く農協の役員改選やその報酬などの議案を見るに、
「あ、もうダメかも…」などと
個人的に感じるところ(憶測でものを言ってます)があり、
かつ同時並行で、
水稲の面積毎に交付されていた「米の直接支払い」制度なども消え、
農政は、大規模化、その環境づくりへの集れん等に
すべてが一局集中されているように感じとられます。

米も営業を農家が自分たちでして、
直売しないとやっていけない時代、
それよりもさらに農「業」はより厳しいなかにあって、
ただまともにこれらと対峙して乗り越えようには
まったくお話しにもならないと徐々に感じています。

個々に探る、最高の一手、最良の一手はとらえ難く、
試す一手をどう打てるのか。

最近、気になって少し読み始めた囲碁の世界にうならされることがあります。
棋士の頭のなかはどうなっているのかなどと、
「お~」と低く唸りながら、チョコなんぞをかじったまま毎晩寝落ちしてます。

抽象的ですが、
いま我らに求められているのは、
それぞれの環境下で生まれ育ち、いまもなおそれぞれに培われ続けている、
「小さなユーモア」みたいなもののような気がしています。

貴方のユーモアをどうか大切に。
すべてのユーモアを愛せよ。








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by 907011 | 2019-05-20 05:35 | Trackback