『アヒルと鴨のコインロッカー』写活。
ドルジは、ブータンでは飲み屋で歌を歌って
お金をもらっていたこともあるらしく、
音感には恵まれているようだった。
わたしの持っているCDも、
聴いた端からすぐに口ずさめるくらいだ。
わたしは、語学力というのは知識や論理ではなくて、
音楽的な能力に近いと思っているので、
ドルジには才能があるのだろうな、と踏んでいる。
実際、ドルジは日本語を学ぶ際も、
テキストやノートの日本語を読んで確認することをせず、
ただ、耳で聞いて、口で唱える、というやり方を好んだ。
(伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』創元推理文庫)
「河崎さん、信じますか?」
ドルジが首を伸ばすようにして、訊ねた。
宗教を信じるか、という問いかけだったのだろう。
「俺はね、目に見えないものは信じないことにしているんだ」
「ああ、そうね」
彼がよくそう言っていたのを思い出し、わたしはむかむかとする。
「どこかの半島で食料がなくて餓死する子供が何百人いようと、
見知らぬ大陸の森で動物の大虐殺が行われていようと、
それを見ない限りは信じない。
いや、信じないことにしている。
目で見るまでは、何も存在していないのと同じだ。
俺はそう思う」
河崎は淡々と言う。
「そう思うことにしているんだ」と強く、繰り返した。
ペット殺し。嫌な言葉だ。
憎々しいからではない。
逆だ。彼らの抱える残酷さと傲慢さが、
「ペット殺し」と名づけた瞬間に、
ひどく表層的で罪の軽いものに感じられるからだ。
相手の自尊心を切り刻んで、金を奪う行為を
「かつあげ」と呼ぶと、軽薄な悪戯に変わってしまうのと似ている。
「そこに琴美ちゃんが飛び出した」
麗子さんは話を引き継いでから、「どうして?」と訊いた。
「それは」河崎もそこは憶測で喋るほかないのだろうが、
それでも信念を込めるような語調で、
「逃がさないためだ」と言い切った。
「偉いなあ、琴美ちゃんは」
「車を止められるわけないのに」
河崎も麗子さんも、あえて淡々とした喋り方をしているのだ、
と僕にも察することができた。
自分たちの感情の深い部分に蓋をし、
上っ面の部分で、事実確認と情報交換をしている。
自分たちの会話が、文学的な趣をともなうのが怖くて、
数式を持ち出すかのようだ。
「椎名は、無理やり、巻き込まれただけなんだ」
「でも」
「どうして、俺が、椎名を誘ったか、分かるか?」
彼は、手に持った串でこちらを指した。
「分からない」
「はじめて会った時に、ディランを歌っていたからだよ」
「は?」
「俺がはじめて椎名を見た時、ディランを歌っていただろ。
俺は、あのディランの声が好きなんだ。
優しいし、厳しい。無責任で、温かい。前に河崎が言っていたんだ」
「でも、自首したほうがいいよ」
「分かってる」河崎はすぐに答えた。
彼の喋り方は、本当に、「分かってる」ように聞こえたし、
その場しのぎの軽薄なものにも思えなかった。
だから僕は、それを信じることにした。
「じゃあ、また」と僕は手を上げて挨拶をする。
「またっていつだよ」河崎は軽快に言うと、歯を見せた。
微笑みつつも、諦観の滲んだ、強張った顔つきだった。
僕たちは左右に分かれて、歩いていった。
まるで、どこまで延長しても絶対に交差しない直線の上を、
二人で進んでいくようだった。
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by 907011
| 2024-06-02 07:41
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