「○○ではないですが」問題。
セガレ昨日ショーガッコーの卒業式、今日離任式で春休みに突入する。先週末に重機職人・ショージさんに村のブルであちこち村道の春先除雪をしてもらった。我が家の除雪道への「歩ける道」も1メートルくらい雪を削ってもらってあと1メートルくらいか。
毎日が春休みみたいな脳みそで暮らしているものの3月のこの時期は貯まった事務作業を一気にやらねばならない。補助金申請の〆切りや決算など、事務をして提出を続けると、この集落にも少なくない額のお金が交付されるので一つずつやっつける。小さな村が自活することに対するお金の還元というか、公金の再分配だと思えばムゲにできない。
それとこれとは異なる話ですが、先日新潟に行った時に買って読んだ坂口恭平さんの『生きのびるための事務』は自分のように「何して生きのびているのかよくわからん人」には勇気をもらえる一冊だった。

セガレを見送って、帰宅がてら薪小屋で久しぶりに薪を割る。倒木を拾ったり伐木をもらったりして一冬の暖にする。もちろんまだ灯油ストーブも併用されているがしかし薪ストーブはいろいろ遊びがついて回るので楽しく暖かい。「恐怖の赤ランプ(灯油切れ)」にうなされる心配もない。火遊びは楽しい。キャンプまでして焚き火する人の気持ちも納得する。
薪割り自体が俺は好きなようで、これほど無になって簡単に快楽を享受できる作業も珍しいと思う。などと春先ごとに同じようなことを書いているのは事務作業に重い腰を上げるための長い回り道というか遅延行為の一つだろう。
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ずっと気になっていた言い回しがある。
「○○ではないですが、□□じゃあないですか」というやつだ。
たとえば「大谷翔平ではないですが、憧れを今日は捨てましょう」だとか、「ビートルズじゃないけど、愛が全てじゃあないですか」みたいな、ときどき出てくる比喩のようなミーハーのような、「ではないですが」。気になって内心では「それは大谷翔平だ」「もうビートルズでしかないだろ」とツッコミを我慢しているのは俺だけではないはずだ。
この「○○」に入るヒトやモノや出来事は、「ではないですが」を言う人にとっても、「ではないですが」をはからずも聞かされることになった人にとっても、互いに「わかる」ということが重要で、さらにはその後に続く「□□」というセリフだって、聞く側が承知していることが前提となる。こうして余計な言い回しは(言う側に)得意気に使われ、失意(聞く側の)は交錯し、悲しい茶番は今日もどこかで産声を上げる。
こうして俺は「○○じゃあないですか」の取り締まりを強化する。警察ではないですが、現行犯を捕まえて反省を促したいというものじゃないですか。
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by 907011
| 2025-03-25 05:48
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