山中記

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3月最終週。


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うちは山中で最も、春を手繰り寄せる力が小さいので、
受動的に、ゆっくりと相応の時間で季節感が訪れる。
(感覚だけでなく、実際に春の雪融けと夏到来の間隔が短い。)

”ヲクサ”の田もだいぶ雪に覆われていた。
去年の手帳を見ると、
1年前の今頃は雪がほぼなかったようなもんで、
山を歩き回ったり、ウド探しなどを満喫していた気がする。

雪の多少で年度末とはこんなに違うものだったか。
「提出期限3月30日(金)締め切り」
という毅然で頑とした表情の書類が重なり、
ここ一週間ほど、
脳内で疑問符だらけのサイコロを振り続けていたら、
疲れてるんだかなんなのか、眠りの質がやたらと悪い。




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重機職人ショージさんを頼んで春先除雪に出る。
道々を雪多い年バージョンでそれ相応に押し進んでもらう。
快晴。
かんじき歩きの楽しい時期だ。



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先の日曜に”麦麦ベイク”ノリオカさん家にお邪魔して、
炭火焼き宴会でたらふくご馳走になり、だいぶ盛り返す。
山中を下りて酒に酔ったのはまったく久々で、
ついでに上着を忘れてくる(毎度何かしら忘れてくる)。
その後、休肝2日してみるが依然と眠りは浅い。

あいかわらず呆然としながらも、
身体よりどこか遠くの方にいまの季節感を触覚する。
もうすぐ爆発するかのような「春」が溢れ出てくる。
雪の分だけぶわーっと、
ほんとうにそれは爆発的に突然に溢れ出るように感じられる。









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by 907011 | 2018-03-29 05:03 | Trackback | Comments(0)

晩酌。

ずっと気になっていたサメの肉を煮付けて食った。

うちが「春」化するまであと一カ月はかかりそう。

獰猛に頑張ろう、今日も。





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by 907011 | 2018-03-25 07:46 | Trackback | Comments(0)

『楕円幻想論』



昨朝、白湯をすすりながら、15分くらい同じところで
おそらく同じくなるであろう内容の雑記をぽつぽつと書いていたら、
ひと息にページが閉じて、全部消えた。
仕事のものじゃなくて結構だったし、
けっこう多くの人が同体験をしていると思いますが、
わりあいに心が折れるもんだ。

それにしても、なぜだろうか、フォントが明朝体だ。
字体は文字の印象にとってどういう影響を及ぼすものであろうか、
と昨朝も思ったりしたのでした。
明朝体になると、なぜかですます調になりがちだ。

薪ストーブで湯を沸かして飲んでいると、
うちの上の”ごすけ”のバサを思い出す。
バサのしていた、薪で沸かした風呂は良いという話を思い出す。

ごすけのバサが亡くなって丸一年が経った。

 *

冬季レクの輪投げかなんかをしていた時に、
こじんまりとしながらしかしそれはそれでなかなか盛り上がり、
どやどやと、ダッハッハとやっていたら、
ドアを隔てた階段側から、「すみませーん。すみませーん」と
謝罪を続ける声が(誰かが気付いてくれたおかげで)聞こえて、出て見たら、
階段のだいぶ上部に上りつめたところまで迫っていたオオツカ新聞屋さんだった。

ドヤドヤ空間から出て、
うるさくて気づかずにすみませんと、
むしろこっち側が本来の謝りとしてのスミマセンを述べながら階段を下りると、
新聞屋さんは「新潟日報販売営業部エリア担当」という、
いかにもその手の表情(顔を忘れてしまったけど)をした男性を連れて回っておるようで、
二言三言交わして、取り急ぎ4月に一カ月日報を取ることにし、
再び、輪投げ空間へと戻った。

その後、公民館で一杯をして帰ってから、
睡魔に襲われながらキャンペーンお願いでいただいた新聞を読む。
自分は致命的に読むという行為が遅く、
しかしながら新聞がたまったり購読しても読めない状況が続くと、
けっこうストレスを感じてたまらなくなるので、
地元の新聞屋さんへの付き合いが悪くて申し訳ないと思いつつ、
この数年間頑なに新聞を取らない姿勢を貫いている。
モノが溜まれば溜まるほど、たまらなくなるからだ。

日報はわりと時間がかからずに読み流せる地方新聞だけど、
冬季レクのその日にもらったのは日曜版なので、
どの手の新聞であっても文化欄や読書、書評のページが3、4ページくらいはあって、
この日曜ばかしはどうにも時間がかかる、でも充実している、
がしかし、やっぱり読めずに時間切れでたまっていく、
というジレンマを久しぶりに思い出した。
まったくもって、小心者が故の偽善的”完璧主義”みたいなものだ。

しかし日曜のその3ページについては、
やはり読めれば、興味深い。
「21世紀の楕円幻想論」という本の書評を目にして、
なるほどなあと感心するのでした。


<そもそも楕円幻想とは何か。

文芸評論家の花田清輝がかつて書いたエッセーの題という。

二つの円のどちらかを選ぶ思考ではなく、

世界を楕円と捉え、

二つの焦点の間を行き来する思考を指す。

縮めれば円に近づくが、決して真円にはならない。>

(平川克美著『21世紀の楕円幻想論』について書評:佐々木俊尚)



21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学

平川克美/ミシマ社

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「楕円」的な見方のできる人に、
自分もけっこう感化されたり、あこがれていて、
翌朝も思わず読み返しては、面白いなあと思い出すのでした。
思わず写経のようにwordに言葉を咀嚼しながら打ち込んだせいで、
ここに来て字体は明朝体じゃなくなった。

そこからさらに、価値交換と関係性に膨らみ話が展開されてゆく。
こういう切り口や拡げ方で出てくる言葉にはぐいぐいと惹かれていく。



<ここから著者が引き出すのは「お金」論である。

伝統的な経済は贈与に基づいていた。

人が人にモノを贈り、返礼する。

等価ではなく、半返ししたり、多く返礼することで

「負債」をつねに残し、関係を持続させた。

しかし貨幣の出現で、交換は等価になる。

これを著者は「関係を断ち切る道具」だったと巧みに表現している。

 それによって交換の速度は上がったが、

同時に伝統的な関係の持続を不要にした。

市場とは「『無縁』の場であるわけで、

そこは旧態依然とした地縁血縁的なつながりや、

長幼秩序といったものが意味を持たない」。

 中世日本には有縁の息苦しさから逃れる避難所として

寺院や自由市場があった。

有縁の社会で、無縁はセーフティーネットになっていたのだ。

しかし、無縁ばかりの社会も不安が募る。

これに2択を迫るのではなく、

楕円のように両方をバランスよく持つ必要があるというのが著者の論で、

非常に説得力がある。>
(同)



中心軸を2つ持つ楕円。
https://tsunagou.exblog.jp/23507877/













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by 907011 | 2018-03-23 05:30 | Trackback | Comments(0)

トンボ。

一昨日。
昼から多面的機能支払いの説明会に参加。
農政課の「ミスター多面的」タナベさんが
相変わらず惚れ惚れするような丁寧な語り口で、
難しい話を理解し得る言葉で伝えてくれる。
29年度の提出書類もタナベさんにお渡しできて一区切りできた。

説明会は理解しやすいものだったが、
山中の集落内の農業を考えると、
2年後の春に大口のリタイアを現時点から覚悟されている方が
複数居り、小さな農業にはなかなか大きな節目が迫っている。

「広域化に対する意向調査」という用紙を前に、しばし考えあぐねる。
「今のところ」の考えにもっとも近い選択はこれだなと、
小学校の習字の時に、
紙を前にして墨汁をつけずに、左の手本を見ながら
イメージをなぞって字を書いたみたいに、いったん選択肢を決めて、
一晩寝て起きて、明朝の自分にもう一回確かめさせようと、
風呂に入って、のび太君なみに「あっ」という間に寝た。

 *

昨夜は「高柳自立経営農業者会議」の年度末恒例勉強会だった。
年明け頃から会長に「どうするのか考えよ。」と迫られ、
のらりくらりしながら企画案を唸りながら捻り出して、
なんだかんだしながらとりあえず無事終わった。

まったくもって「自立経営農業」できていないという引け目もあって、
「事務局」というもっとも恐怖の肩書きを仰せつかった為、
書類はまだ善しとしても、進行係みたいなのがどうにも下手なので、
万事終わって閉会の挨拶をして締めてもらったつもりでも、
挨拶終了後、いつも決まって変な間が空き、
「帰っていいのかな?」「これで終わりなのかな?」と訊ねられる始末で、
毎度最後に申しわけない気分に陥るというパターンが繰り返される。
勉強はさせてもらっているがしかし、
自分の気質としてほんとうに慣れない、事務局。

ボールか何かを皆で手渡しリレーして
歌が終わった時にそれを持っていた人が負け、みたいな遊びがあった。

昨夜の会は尊敬出来る篤農家のこじんまりした集まりなので
まとまりも良くて好き(特に会議後の入念な情報交換会)ですが、
その他の機会でこの数年間、
「じゃあそういうことであとは事務局で。」
という恐怖の締めが慣例化されている様を見て、
あな恐ろしや恐ろしやとそのたび感ずるのでした。

俺も手渡したいよねえ、このボールと毎度の余韻に浸りながら、
星空の下、一族郎党で岡野町から山中に帰宅。
トンボが眼の前で指をクルクル回されているのを見ているかのような顔で、
ぼんやりと首を傾げながら呑んで、寝た。





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家人が朝から麦麦さんのお手伝いにいったので、
今日は子守りの日だが、
まだ珍しく(保育園休みと知るとやたらテンション高い)起きてこず。









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by 907011 | 2018-03-21 07:36 | Trackback | Comments(0)

びんかん祭。

裏口から外に出られるようになった。

裏口とは言っても、元はこの家の正面口で、
南に向いているので日当たりも良く、眺めも良い。
改装された後の正面玄関は西に面している。

裏の納戸のコンクリ地面は自分用玄関なので、
泥やもみ殻が散らばり、
ところどころ穴のあいた雨合羽などがぶらさがっている。

表よりは裏が好き。
陽より陰を好む。
外向的よりも内向的な人の方に惹かれる。

 *

昨朝。
子を保育園バスに送るべく、万事整い、
公民館にいざと裏口から出てみると、
うちから上の家の”ごすけ”に上がる「元・歩ける道」あらため、
残雪のザラメ雪と雨とで、程よく崖(グッド・クリフ)化した、
切り立った尾根沿いのルートをゆくような
「そろそろ歩けなくなってきた道」の上の方に、
工事の挨拶用タオルを片手にした小林組のトサカ担当が、
下のこちら側を覗き込みながら、
「ここは歩けますか~?」と問いながら立っていた。

そろそろ歩けなくなって道は、数日にいっぺん改良補修されても、
一歩一歩が己の運試しのように長靴が10歩に一回くらい沈み、
思わず「何かのゲームか」とつっこみたくなる。
一方で補修しつつ、一方でもう片方の本来の「道」を掘らねば。

こっちは昨春までと違ってまだ雪も多く、
”雪の回廊”と幻想的な名称で、子をだまくらかしつつ、
ひじょうに遅々として進行中。



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かくして無事公民館にたどりついた昨朝は、
3カ月ぶりの瓶・缶ゴミの収集日だった。
山中に長い冬の終わりを知らすべく体感させてくれる、
「ヤマナカ 春のビンカンまつり」。
松たか子さんにもぜひ見ていただきたい、
16戸なりのなかなかな一冬の燃料補給っぷりがうかがえる。




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by 907011 | 2018-03-20 05:53 | Trackback | Comments(0)

冬季レクリエーション。

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ちんまりと暮らしながら、それでいて山中はわりあい冬も集まりが良い、
と皆で一杯やった時などに話題にのぼることが少なくない。

同時に、
一番足の弱ってしまった年寄りが雪のために
行事に出てこられないという課題に当面する冬。

昨日は年度の最後の行事でもある「冬季レク」だった。
冬の集まりはここ数年で様変わりしつつあり、
いろんな複雑な感情や意見が錯綜しながら話し合われた。
自分たちの集落のちんまりとした規模を再認識し直し、
どうにか歩いて集まりやすいという一点の最大公約数をとって
外でやっていたものも「公民館に集まろう。」という結論に至った。
錯綜する複雑な感情のなかにあって、
自分の感情はというと思いのほか保守的だった。

「いかに継承し得るか」という難題に当面してみると、
継承という言葉に対してすでに限界を突破しているという現象を実感する。
限界という意味は曖昧で滅裂かもしれないけど、
現象の実感そのものは暮らしている者、集まって話す者同士で共有できるものだと感じる。

  *

冬季レクは種目自体も少ないので、
レクリエーションそのものが、
「あっ!」という間に終わってしまうことも現象として、皆が共有して実感する。
集まって、最初の”ねらいうち”がいざ始まろうものなら、
ますます、こりゃあ5分で一回りして終わっちまうなあと、
ますます共有は強くなり、方々からそれぞれが「もう一回やろう。」と声を出し、
自分らで集まって自分らでやり進めながら、
でもしかし自分らでもって「いかん。これは終わりの始まりが早過ぎる」と
刑事ドラマの誘拐犯への逆探知電話時間引き伸ばし作戦(今そんなの無いか?)みたいに、
もうちょっと、もうちょっとと時間稼ぎをする様が面白い。

4つのシンプルな種目をめいいっぱい1時間かけて入念に行い、
シンプルさがゆえにそれはそれで均衡した熱戦となり、
毎度のことながら、
最後の種目”集団じゃんけん”(写真上)で勝ち負けそのものは決まる。

1時間やって、その5分後にお燗がつけられビールのプルタブが抜かれ、
そこから倍以上の時間をかけて入念なミーティングが始まる。
冬季レクは買っても負けても特に何もなく、1ミリの変化も起こらないためか、
これはすでに良いんだかどうなんだか、
乾杯した頃にはすでにどっちがどうだったというのは忘れられている様も滑稽だ。

それにしても昨日は驚いたことに、
最後まで公民館のストーブがつくことのないまま暖かく終わった。
ガクはマサコさんからドジョウすくいを継承し、
ザル代わりのお盆の上にそこここからセリーや菓子をもらって貪り食っていた。




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内山節さんの話が冬になるとよく思い出される。
生きている人間だけでも集まると「話し合うこと」は難しいが、
日本の農山村においては、
そこにさらに見えないけど関係する者としての、
自然や死者が物言う参加者として存在しているという。
だからなおさら容易にはいかないのだ、と。

ただ、その見えないし直接の言葉は聞けないけど、
物言う自然やそこに暮らした祖先やその記憶に
どうやって耳を傾けるかという上で、
その土地で行われている祭礼や行事は
それを聞いたり受容する大切な場面、機会なのですよという話だったと思う。

我らと自然との関係のし方はなおも刻々と変わり続けている。
課題ではなくてこれは現象なのだと、当面できるようでありたい。













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by 907011 | 2018-03-19 07:02 | Trackback | Comments(0)

「どうにかなるか」

冬でも何度か雪のない山の田んぼの夢を毎年見る。
大半は義父と一緒に田を上から巡視していて、
一枚ずつ、「この田はこうやったら良くなる」と助言をもらうというものだ。
登場する田はどれも自分が手がけている田がイメージできるか、 
あるいはもっと具体的に「ここ」と夢の中でも重ね見られる現実の田だったりする。
夢のなかでも納得したり悶絶したりする。

一方で一人、作業を延々としている夢があり、
これはまったく対照的で、非現実の山が毎度登場する。
中国の水墨画みたいな「なんだここは?」というところに、
棚田が並び、ここではほぼ夢時間のなかでひたすら苦悶している。

でも、ワタシの脳内はほぼ煩悩しか詰まってないので、
ときどき鼻の下が伸びるような素敵な夢もたまに見る。

いずれにせよ、目覚めてしばし呆然としながら反芻して、
「なんでしょう。」と自分の意識も無意識も曖昧過ぎて理解できず、
それぞれの境界も妙に感じる。

 *

伊集院静香・西原理恵子著『どうにかなるか』を読む。
対談形式と勘違いして買ったら、西原さんは挿絵のみで、
ほぼ全編伊集院さんの競輪の話で占められている。
数十ページに一回くらいの確率でときどきギャンブルを離れた言葉が現れて、
読みながらするすると溶け込むように吸収されるように現実を感じる。
自分の夢は理解できない境界ばかりで隔てられているのに不思議なものだ。


<テレビ、新聞、雑誌に登場する九十歳や百歳以上の老人が
決して日本の老人を代表しているとは思えないのだが、
マスコミは長寿を徳のように喧伝する。
どうして日本でも近年多くなっている老人の自殺を
もっと取材しようとしないのだろうか。
 日本では今毎日百人余りの人が自殺している。
この数字は読者の皆さんの家族、親戚、周囲の人の誰かが自殺をしていることなのだ。
 ―よく自殺をするよ。
 と思っている人もあろうが、人間が十五歳を過ぎて、
一度ならずとも自殺しようと考えたことがないことの方が異様だと私は思っている。
 ―じゃ、おまえは自殺しようと考えたことがあるのか?
 今の私に追及されても困るが、何度も、
それに似通った考えをしはじめたことがあるのも事実である。>















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by 907011 | 2018-03-18 06:22 | Trackback | Comments(0)

錯倒。

火曜日。
”みゆき除雪倶楽部”のナカジマさんと集落を歩いて一周しながら、
一冬、除雪で押してつくられた壁や、吹き上げてつくられた山の
「ほぐし」作業が始まった。
一周のゴールあたりで、
”まごすけ”と”ばんきち”両家の母ちゃんズが晴天の下、立ち話をしており、
ナカジマさんを見て、「お前ったが来てくれたのは春が来たってことだね。」と笑う。

以降数日、重機3台が熱心に雪をほぐしたりまくったり。
お天道様のよく出ているなかで重厚な音が続く。
暖かい。

昼ご飯を食べるとたまらずに眠くなる。
再開する重機ズの音を聞きながらうつらうつらしていると、
なぜか、自分がいま春の海辺のそばに居りながら、
防波堤か何かで工事する音に耳を傾けているかのような錯覚にも陥る。
春山、雪。風景こそまったく違うのに。
目も(一応)開いている。耳もふさがってないので違和感なし。
視力を上回る聴覚の錯覚もあるもんだ。

山中とは16時間差なのだという、
アリゾナからメールをくれる新規移住者・タカオの言葉を思い出す。
「アメリカに着いて、初めて寝て、早朝一人、目が覚めた瞬間の、恐怖。
物理的距離の大きさ。

アメリカの暮らしはですね、うまく表現できません。
あらゆることが違う。言葉が違う。単位が違う。習慣が違う。
丸っきり初めから覚え直す感覚です。」














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by 907011 | 2018-03-16 05:57 | Trackback | Comments(0)

3月真ん中。

風邪の治りどきというのがよくつかめない。
喉は痛かったままの違和感がなにやら残ってるし、
くしゃみが出ると、鼻水も出る。

気温上昇で格好の晴れで気分が焦る。
風邪は地味につらいのでぶり返されるとまったく困る。
焦りながら、手紙を書いていた。
山中の集落をすでに出られた人たちに宛てて。
およそ半数は面識がないながら、
集落の存続にお力添えをと願って、
ここ一年間の写真などを添えて記した。

無論あくまで寄付に過ぎないので、
出された手紙がどう受け止められるかはわからない。
ただ、今を伝える。
雪が少しずつとけそうな気配のなかでのこちらから、
その多くは雪や森が目立つことのない所で、難儀の記憶を持つ人たちに。

先代たちの筆跡を読み返し読み返し、書いてはみるものの、
いかんせんよそ者としての自分の言葉はいかにも頼りない。
「何卒」とか「切に」「恐れ入りますが」などの
へりくだった慣用句が文末に並ぶのは致し方ないにせよ、
手紙の何通が相手にとって腑に落ちるものか。
来冬も自分は同じように恐れ入りながら手紙を書くだろう。
投函から投函までの一年間、何が起きてどんな言葉が伝えられるだろうか。
およそ広い範囲で、世界あちこちで、国境も、もちろん地縁も面識も越えて、
寄付や人道的支援のお金が日々やり取りされているのだと想像する。
過剰な、あるいは一方的に過剰にやってくるだけの貨幣があったとすれば、
それは、それに対して何もできない他者を「物乞い」にする可能性を孕んでいる、
というようなことを、手紙を書きながら想った。

暮らしを取り巻く辺境、自然の時間、野生の力と、
暮らしとの関係性のつくり方に、持続可能性はあるのか。
投函する行為に問われる意味は大きい。










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by 907011 | 2018-03-15 06:29 | Trackback | Comments(0)

葛根湯とレンドルミン。

ゲホゲホとはじまって咳の止まらぬガクを眺めていたのが先週。
ガクは医者にいったまま金曜の夕方から2泊岡野町の子となり、
風邪もすでに回復。

気を緩ませたのか、まいったことに土曜日から突如こちらが2人とも風邪にやられる。
土日、ほぼ布団から身動きできず。
適当に食い飲みし、驚くほど眠っていた。
まだ喉は少し痛い。

椎名誠『岳物語』
西加奈子『炎上する君』
田口ランディ『アンテナ』
を読んだ。
風邪対策に本を足さねば。








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by 907011 | 2018-03-12 07:03 | Trackback | Comments(0)