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山中記

自分なくしの旅。

誰か、8月車検(うろ覚えです)の日産キューブに乗りたい人いませんか?
一方で、
誰か、冷蔵庫一つ余っている人はいませんか?









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# by 907011 | 2021-02-24 07:36 | Trackback

『性弱説』。

<性善説とか、性悪説とかあるけれど、
 ぼくは、「どっちもあるよなぁ」と思ってきた。
 と、ここで「性弱説」ということばを知ってしまった。>
とある日の『今日のダーリン』は記し始められていて、
「どっちでもあるんだよなあ」と思ってきた自分も、
その下の行にあった「弱」を挟んだ言葉の並びを二度見三度見して、
眉間にしわを寄せてなおも凝視したのでした。

 *

遠方から7時間かけて自家用車で、下道で、
一人の「好緑年」がやってきて、出会って、
たぶん1日弱で12時間くらい話し続けた。

秋田の人間はよく、「口を開けると雪が入るから秋田の人は口を開けないで話す。」という。
たしかにイントネーションと方言の妙で、
口をあまり開けずにぼそぼそ話しても秋田だと違和感を持たれない。
新潟市に来てはじめて、友達やバイト先の人の前で電話で何か秋田弁で話していたら、
「すげえな、なんかイタリア語みてえだな。」とたまげられた。

口開けぬ、プラス県民気質として「恥」の自意識高めというか、
うちの母親が極端過ぎたのもあるが、
とにかくやることなすこと自己否定の永続版というくらい、
まず、恥ずかしがる。面目ながる。
電話口でやたらと「ぶじょほ(不調法)だっす。」って言う。
そんなこんなを脇でこれまた口を開かずにただ静かに聞いていた子どもだった。
おとなの社会も、学校も、なんか面白くねえんだよなあと思って毎日を過ごして居た。

書いたり読んだりする勉強というのは嫌いじゃなかった。
テストも高得点を狙う点数ゲームみたいで、
完全制覇したいという変な欲望の対象だった。

 *

元来無口な気性に育ったので、喉の声帯の筋力が人一倍無い。
それはすでに退化しているのか、いや使用頻度が少ないから護られているのか謎ですが、
昼前にはもうベラベラとは話せないくらい、
大丈夫か俺の喉、と思いつつ
楽しかったのでヘラヘラと話したり電話応対したりなどしたその午後。

 *

「好緑年」から話が逸脱した。

概ね30代半ばより下くらいは「好青年」と呼ばれる。
その上は微妙なお年頃なので、
農山村などで縁あって出会った人を「緑」色でとらえている。
だから、好緑年と勝手に呼称している。

・・・違う、もう少し戻って「性弱説」を整理したいのであった。

 *


自分は、自分のくせに、
「十割」の真実の”自分”というニンゲンの話をすることがもっとも苦手だ。
40数年毎日ひと時も離れずに付き合っても、言語化できない。
自分が何を考えて、何を数日後にしていて、何に向かっているのか、
何者になりたいのか、そもそも今の状態は何者という存在なのか、
まるでわかっていない。可視化も言語化もできていない。

ふと油断していたら、「君はどうして山中で暮らして居るの?」と
質問をふられて、十割ではないまま「自由度の高さ(わがままだから)」という言葉を選んだ。
間違いではないけど、それはすべてではまったくない。
真実よりは、フィクションに近い言葉だなあと話しながら自己否定をした。

仏教の言葉のなかに、
「一即多 多即一」というのがあるそうだ。
ひとつはすべてを含み、
すべてはひとつから成っている、というような意味だったと思う、たしか。

不幸なことに、
不幸じゃなく育ってきたから、
それは純粋に幸せだろうか、不幸なんだろうかと、自分のコンプレックスを深堀りしたりする。
自分を深掘りするのにいちばんよいのが、土か雪を掘っている時間だ。
とはいえ、自分以外の誰かに「お前は不幸だ」と宣言されても、
おそらくそこに意味はなく、腑に落ちず何も生じずに終わる。

「性弱説」の評は、こう続く。

<底のところにある「弱さ」を見ていない人間観は危うい。
 じぶんは強い、じぶんは正しい、と考えていても、
 ふだんはだれにもツッコまれないだろうけれど、
 「ほんとうに追いつめられたとき」に、
 じぶんばかりでなく人間というものの持っている「弱さ」
 というやつが、ずいぶん大きいものなんだなぁと知るのだ。>

今まで生きてて、ほとんど毎年のように
あるとき突如スイッチがパチンと落ちてオフになることがある。
いろいろ億劫になって気分が落ちては
「我が浅い底」の手触りを確認しながら、そのうちに
「突き抜けたい。」と創造的自己破壊を試行するとっかかりを探す。

自分がとくに弱ったときに、
「弱い何者か」である、弱い何者かでしかない自分を確かに感じて、
その弱さ(これも自分の脳みそが勝手に自意識させてる造語のようなものですが)のなかに
十割の真実を垣間見る。

<「性弱説」でいても、強さを奮い立たせることも、
 自己犠牲に向かうことも、都合わるい人と生きることも、
 すべて可能であり、そう生きている人はたくさんいる。

 それは、「性弱説」を持っている人ほど、
 そこを乗り越えたいと自己問答を繰り返しているからだ。
 「弱いじぶん(人間)が、強く生きる物語」を、
 じぶんでも生きてみたいと思ったりしているからである。

 「インセンティブ(都合)と性格」の奴隷でも、
 それを振りほどくだけの「気」を人間は持っている。
 そうありたいと願うから、「性弱説」を認めるのだ。
 
「じぶんは強い」「じぶんは正しい」の信念は、
 人間のこころが被りたがる殻のようなものだと思う。>

昨日は喉の声帯をしびれさせながら、良いお昼過ぎの
私的「リストラ(クチャー)」の時間をいただいた。





愚息の目覚まし時計が鳴ったので、いきなり終わり。
めでたしめでたし。

<「もののあはれ」の考え方なんかも、性弱説かもしれない。>








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# by 907011 | 2021-02-23 06:32 | Trackback